噂の裏側‐倉瀬幸弘と湯島誠との会話1‐
HR終了後の教室は少し異様な雰囲気に包まれていた。
高校生連続投身自殺事件は小関の言うとおり高校生の間で知らない者は居ないほどセンセーショナルな話題だ。それに対し、今までは仲間内で密かに話題にするというような関わり方をしていた多くの人間が、その態度を変えつつある。
大きくなり続ける事件に対し、忌避感を抱き始めるもの。大人たちの動揺を知りつつ、高揚感を抱き始める者。大勢はそれに二分されているようだ。
HRから開放された俺は文庫本に栞を挟み、机の中にしまう。事件を話題にした女子の囁き声を耳にしながら、一限の時間割を確認し、外の廊下に備え付けられたロッカーに教科書を取りにいった。
数学の教科書と、ついでに、二限で使いそうな英和辞書を手に、席に戻ろうとしたところで、後ろから声をかけられた。
「幸弘~!」
振り返るまでもなく、誰に声をかけられたのかがわかった。
こんな間延びした声を出す男も、俺を「倉瀬」ではなく「幸弘」と呼ぶ男も、俺は一人しか知らない。
面倒くさいことをふっかけられる前に、早々と自分の教室へときびすを返す。しかし、敵は、俺の前に回りこんできて、両手を大業に広げ、俺の道をふさぐ。
「おいおい、無視は無いんじゃない? 幸弘君」
湯島誠だ。俺の行く手を遮っている湯島はこの高校で唯一、俺と同じ中学出身という経歴を持っている。
とは言え、中学時代から特に面識があったわけでもないのだが、唯一同じ中学からきているという俺の存在を知った途端やけに馴れ馴れしく絡んでくるようになり、挙句の果てに下の名前で呼んでくるようになった図々しい奴だ。
「あ、おはよう、湯島!」
俺は、さも、今湯島の存在に気づいたという風に驚いた顔で挨拶をした。
「お、あ、あぁ。おはよう」急に挨拶をされた湯島は少し、困惑の顔を見せながら、挨拶を返してくる。
俺はその隙に湯島の脇を抜け教室に入る。
「ちょ、ちょい! 待てって幸弘」
慌てた湯島が、再度俺の前に立ちはだかる。俺はため息混じりに用件をうかがう事にした。
「なんだよ?」
「英語の辞書貸して」
「あぁ、持ってない」
俺は即答した。
「すごいな、お前。なんでノータイムで、しかもそんな堂々と嘘つけるの?」
湯島は、俺が小脇に抱えていた辞書を指差しながら、目を細めて俺を訝しむ。
「ごめん、間違えた」
俺は臆面も無く嘘を重ねる。
「……。あぁ、うん」
「はい、辞書。二限使うから、授業終わったらすぐ返しに来て。それじゃ」
呆れ顔で、辞書を受け取った湯島は、何か言いたそうにこちらを見つめている。
「なに? まだなんか要るの? 教科書の方は貸せないよ、リーディングでしょ一限? 俺次の授業中に和訳やっとかなきゃだから」
「いや、教科書はいいんだけどさ。……さっき声かけたの気づいてただろ? お前」
俺は、おちょくる様にさっきの驚き顔をもう一度再現して、応えてやる。
「え? あたりまえじゃん? 少しでも気づいてないと思ったの?」
湯島は甘やかすと付け上がる性質で、その気だるげながら甘めの顔立ちと持ち前の人懐っこさでずいぶんと交友関係も広いようだが、俺は一定以上の距離を置いていた。とは言え、湯島に限らず、他に距離を置いていない友人など居ないのだが。
「お前、ほんっと底意地悪いな」
「余計なお世話だよ」
湯島に背を向け今度こそ、教室へ戻ろうとする俺を、しかし湯島の口から飛び出した話題が引き止めた。
「あぁ、そういえば。お前のクラスでも話題になった? 例の事件。ウチのクラスの武田ちゃん、色々ヒスってたぜ?」
交友関係も広く、話好きな湯島の口から飛び出たのは、やはり高校生連続投身自殺事件の話だった。
一限まで、少し間がある。俺は湯島に振り返り、話題に食いつくことにした。
「武田先生が?」
普段そっけない態度しかとらない俺が、自分の話題に食いついてきたのが嬉しいのか、湯島は上機嫌で続ける。
「そ。皆さん何でも相談してくださいね! なんて声を裏返しながらな。その点あれだろ? お前のトコの小関はわかってる感じじゃん?」
何をわかっていると言うのか。それは勿論、生徒と教師の距離感の事だ。湯島ほどあっけらかんとした男でも、教師に対する心の壁が薄いわけではない。大人と距離を保ちたいという欲求は現代の高校生の共通見解なのだ。
「それに比べて、武田ちゃんなんか、半分涙目で語りかけてくるんだもん、ちょっと引いちゃうよな。それに、学校側の対策もちょっとずれてるしな。この事件の仕組み理解してないんだろうな、きっと」
湯島の口から気になる言葉が漏れた。
「仕組み?」
俺が問い返すと、湯島の緩んだ顔が一転、引き締まる。
「あれ、幸弘知らねぇの?」
さっきまでと打って変わって、声を潜めるようにして、顔を寄せて来る湯島。
「まぁ、幸弘こういうの疎そうだからな」
「なんだよ?」
「いいか、あんま人には言いふらすなよ」
人に言いふらしてはいけない話を俺に言いふらすのはいいのか、と疑問がよぎるが、俺はおとなしく首肯し、続きを促した。
「自殺ネットってのがあるんだよ」
「自殺ネット?」
「そう、マスコミの報道なんかでも流れてなくて、っていうか、世間はぶつ切りの自殺が偶発してるって思ってるだろうけどな、実は違う。この連続自殺は、あるネット上のコミュニティに端を発した計画的な自殺だって話だ」
幸弘に肩をつかまれ、ロッカーの陰に身を寄せるよう促される。いつもとはだいぶトーンを落とした声で湯島は切り出した。