狂気の片鱗‐倉瀬幸弘の朝‐
手元のリモコンを操作し音楽プレーヤーの音量を上げる。朝に不釣合いなエレキギターの音色が、その強さを増して鼓膜を叩いた。俺、倉瀬幸弘の一日はいつもこの音楽とともに始まる。
ドアノブを回し、部屋を出て、階段を下りる。玄関に腰掛け、靴紐を結んでいるところでふと、背後に人の気配を感じた。
後ろを振り仰ぐとそこには、十五年前に俺を生んだ女が立っていた。口がせわしなく動いているところを見ると、何事か喋りかけているようだ。しかし、部屋を出てきた時から流れていた曲はちょうど中盤に差し掛かろうというところ。ソロパートを迎えたギターが力強くかき鳴らされていて俺にはそれしか聞こえない。
俺の耳に届くことはないこの女の言葉は、おそらく「ハンカチ、ティッシュは持ったか」や「車には気をつけなさい」などといったところだ。到底高校生になる息子にかける言葉ではなく、過保護にも程が在ると思うのだが、この女はそんなことお構いなしなのだろうかと疑念が湧く。しかしすぐさま疑念を振り払い、靴紐に意識を戻した。理解できそうもない他人の思考など考えるだけ無駄だ。
靴紐を結び終えると、鞄を手に取り立ち上がる。顔を見ることもなく声も掛けぬまま家を後にした。
家を出て十数メートル。通りから少し奥まったところにある自宅から、住宅街を縦横に走る小さな通りに出たところで電柱の脇に佇むカラスを視界の端に捉えた。
漆黒の翼と鋭い嘴を持つそのカラスが目を向けるその先には、保護ネットに覆われたいくつかのゴミ袋。半透明のビニールからは何かの骨や野菜のクズの様なものが窺い知れる。どうやら朝餉にと生ゴミを漁りに来たらしい。
ふとその存在が気にかかった俺は歩みを止めた。
リモコンの一時停止を押すと、耳に流れ込んでいたギターやドラムの紡ぐ荒々しい旋律が止み、朝の静寂が訪れる。朝にも関わらず偶然通りに他の人間の影は見えなかった。静かな世界でカラスを見る。
カラスは人間の存在を気にかけているのか、一思いにゴミ袋を突く様子は見せない。しきりに周囲を気にしながら、ゴミ捨て場からつかず離れずの位置をピョンピョンと跳ね回っている。
「カァー」と一声。俺は何の気なしにカラスの鳴き真似を口にする。
その声に気づいたカラスは深い黒を湛えた瞳をこちらに向ける。何を思うのか。それを窺うことは出来ない。
俺は、こちらに意識を向けてきたカラスに答える様にしてもう一度口を開く。
「カァーー」
怪訝そうにこちらを窺っていたカラスは、二度の不審な行動によって俺を敵と認識したのか、それとも人間が立て続けにとった下らない行動で興を削がれたのか。俺から顔をそらすと、ゴミ捨て場に一瞥する事も無く、無言でどこかへと飛び去った。
俺は小さくなっていく黒い翼を見送ると、音楽を再生させ、駅への歩みを再会した。