絶命の恍惚‐長野美紀子の終幕‐
雨上がりの湿った風をその身に受け、一人の少女が屋上に佇んでいた。
夜風にまきあげられた長い髪を押さえながら、彼女はもう一度振り返り最後の確認をする。想像していたよりもずっと平静さを保っている自分の心に少し驚きつつ、再び正面へと向き直ると、一歩二歩とその歩みを進める。
ふと、数分前まで口にしていたミントのガムの後味が口の中からきれいに消えていることに気づいた。味覚がなくなっている。
そんな違和感に戸惑いながら深く息を吸い込み、そして、ゆっくりとその空気を押し出していく。深呼吸を数回。
今度は匂いを感じなくなっていることに気づいた。ここへ来てから鼻についていたのが嘘だったように、コンクリートやアスファルトを冷たく濡らしていた雨の匂いが消えている。
感覚の消失。自らを襲った奇妙な現象に、多少の困惑こそ覚えたもののそれでも彼女は冷静であった。彼女の意思は揺らがない。
意を決してさらに一歩を踏み出す。最後の一歩を踏んだその足が世界の果てにかかる。
そしてその時を待つ。
足の裏にわずかに感じた衝撃とともに、彼女の体は夜の虚空に投げ出された。
それまで大地に対し垂直だった体は、徐々に傾きを増し、やがて水平に。そしてついに足を天に向け、頭が大地へと向く形になる。重力という絶対の法則に従い、彼女は闇への加速を始めた。
高まる速度で彼女の見る世界はその輪郭を歪め始める。そして水の中へ墨汁を一滴一滴と垂らすように、周囲の黒がその濃度を増していく。視界の隅で煌めいていた街の灯りは闇へと吸い込まれていき、世界は暗がりから深い闇へと変化を遂げていく。
すさまじい速度で空気を突き抜けていく音が耳の奥で鳴り響く。しかし、頭を打ち鳴らすかのごとく響いていた風切り音もやがてそのなりを潜める。小さくなるというよりは遠くなっていくように聞こえなくなっていく音と反比例に闇は一層その深さを強めていく。
飽和するほどの黒を湛えた闇はやがて色の概念を失い、変貌を遂げる。視覚は無へと呑み込まれ、音も消える。残された触角もいつの間にかその力を失い、身を叩く空気を感じなくなっていた。
もっと一瞬で終わるものではないのか。
ふと、彼女の脳裏にそんな考えがよぎった。
味覚に始まり五感を失った世界で、彼女の思考は研ぎ澄まされていった。
その時、体の奥底にある何かを彼女は感じた。その何かを認識したのもつかの間、それは大きく膨れ上がると彼女の中で盛大に爆ぜた。
唐突の爆発の後に待っていたのは恍惚だった。
美味しいものを食べた時。異性と体を重ねた時。そんな時に感じられる肉体的快感とは異なる。また達成感や充足感といった精神的に感じる満足とも違う。体の奥でもなく心の奥でもない場所、強いて言うなら魂とでも言うべき根源から滾々と湧き上がってくる愉悦。
それが彼女を包んでいた。
その正体はいったい何なのか。
彼女は知識でもなく、経験でもなく、思考でもなく、本能でそれを悟った。
これは生であると。
今までの人生で終ぞ感じることのなかった溢れるほどにたぎる生が、今この瞬間彼女の全身全霊を駆け巡っている。
極上の喜びに体は震え、涙は止まる事を知らなかったが、やがて長かった一瞬はその終わりを迎える。
喜悦に浸る彼女の意識が一転、世界を取り戻す。世界を隔てる絶対の壁を認識すると、笑顔を浮かべた彼女は自らの潰れる音を最後に聞くと、永劫の闇へと堕ちていった。
長野美紀子の命はこうして幕を閉じた。