別れの場の慟哭‐湯島誠の葬儀への参列‐
雨。
雨が降り続いている。
今年の梅雨は空梅雨だ、と、六月に入る前から様々なメディアで叫ばれていたが、それはあたった。今年の梅雨はほとんど雨が降らなかった。しかし、直に梅雨明けだと、言われた今、梅雨は最後のあがきを見せていた。
四日前の夜半から、天の底を抜いたような豪雨が列島各地を襲った。日本中で浸水や氾濫の報が相次いで起こって尚、雨は止む気配を見せず、一刻の晴れ間を見せることなく今日で四日目。
そして。そして、聖が死んでから四日目だ。
三日前の朝、聖が通う。……聖が通っていた、女子高で、屋上からの投身自殺体が見つかった。学校関係者も警察関係者も、直ぐに「高校生連続投身自殺事件」であると、確信し、情報管制を敷きながら、一切の手配を公にすることなく迅速に処理を勧めた。
一般に自殺というのは、その自殺者本人の自殺への意志が確かたる場合でも「変死」という扱いをされる場合が多いらしい。加えて、聖の死は「事件」の一端として扱わた。遺体は警察病院に収容され、司法解剖を受けさせられたため、聖は発見されたその日、家に帰れなかったとのことだ。
すべてあとから耳にした話だが。
警察に引き取られて一夜が明けた。死体発見から翌日。聖は家族に迎えられ、物言わぬ亡骸として家に帰った。両親の寝ずの番に見守られ通夜を明かすと、友引であった三日目をまたぎ、四日目、葬儀が執り行なわれることとなった。
俺はといえば三日間、メールも電話にもでない聖に、何か怒らせることをしてしまったかと気を揉んでいた。例えばクラスの面子、女子も多く居るメンバーで遊びに行ったのがバレてしまったのかと、様々な不安を募らせた。こうして俺は聖が死んだことを知らず、くだらない言い訳ばかりを頭の中でグルグルと巡らせていた。
遺品の整理をしていて、聖の携帯に残った履歴から俺の存在を知ったのだと言っていた聖のお母さんから電話が入った。昨日の晩の事だ。
そこで俺は初めて聖の死を知った。
俺に事情を話すうちに嗚咽が混じり、最後の方はまともに話せなかった様子のお母さんから、電話越しに詳しいことを聞くのは難しかった。
聖が死んだ。詳しいことはあまり聖が話してくれなかったけど、聖と特別仲良くしてくれてありがとう。明日、葬儀を執り行うから良かったら参列を。そんなようなことを支離滅裂、涙ながらに伝えられた。
俺は、聖のお母さんが何を言ってるのか、全くわからなかった。あえてか、冷静になれずに伝え忘れたのかはわからなかいが、なんで聖が死ぬことになったのかを終ぞ話してくれなかった所為もあるかもしれない。しかし、そもそも恋人の突然の訃報をすんなり、しかも電話連絡でされて、受け入れられる人間など居るのだろうか。
俺は受け入れることもできないのに、ただ事実はそこにあって、時は流れていく。
聖が死んだ。俺の恋人は二度と帰らぬ人となった。
俺は泣くことも叫ぶこともできないまま、聖に機嫌を伺うための、繋がらなかった発信履歴を、一晩中眺めて過ごした。
※※※※
聖の死から四日目。何も判らないまま、それ以前に聖の死を受け入れもしないまま、俺は茫然自失の体で聖の葬儀に来ていた。親父から一式を渡された喪服に身を包み、ポケットに数珠を入れ、入っている金額もわからない香典袋を誰に渡していいものか悩んで立ち尽くす。
その段になって、聖の両親の顔も知らなければ、おそらく参列しているだろう親類、担任や学校関係者など、誰の存在も俺は知らないのだと思い知らされた。
聖の一番親しい人間が俺であり、俺の一番親しい人間が聖だ、という確固たる関係性がここに立っていると滑稽に感じられ、言い知れない不安が募る。
昨晩の電話から欠如したままの現実感は、そんな不安を抱いた心さえも、俯瞰で俺に見せてくる。
なんで俺はここに居るのだろう。そんな疑問がひいては押し寄せる。知らない黒い人達の波の中で、ふと、足元を見れば、そこは両の足を支える地面すら無い漆黒。
慌てて、顔を上げれば、喪服に身を包んだ誰かが、しめやかに悲しい顔をしている。誰も俺を見ない。
俺を見てくれるのは誰だろう。それは。
「ご記帳はなさいましたか?」
昏い酩酊から、声が、俺を救った。
声の主を振り向けば、胸元に真珠を光らせた女性が、受付の机に座ってこちらを見ている。
「あ、はい、あの。えっと、俺湯島誠って言います」
「えっと、あのご記帳をお願いしてもよろしいですか」
そうまで言われてから、自分が滑稽な自己紹介をしていることに気づいた。受付の人が俺を知っているハズもないのに名乗ってどうする。
困惑の表情を浮かべる女性に、軽く会釈をし不手際を詫びると、俺は記帳を済ませる。
「あの、これ」
葬儀の作法も判らないながら、内ポケットから香典を覗かせると、女性が助け舟を手向けてくれる。
「あ、香典お預かりいたします。湯島様ですね」
「はい、お願いします」
そうしておっかなびっくり香典を渡して、記帳をすませると、俺は葬儀の末席に居場所を見つけた。
数珠をまるでお守りかのごとく握り締め、しめやかな場で自分の存在が揺らぐような感覚を覚える。不安な心が叫び、助けを呼んだ時浮かんだ顔は聖のものだった。
突如、重く質量を持った哀しみが急激に押し寄せた。葬儀のしめやかな空気が、哀しみを増幅し、拠り所のない俺の身を浚おうとする。
ふらふらと揺れる俺を、またもや、耳に飛び込んだ誰かの声が揺さぶる。
「ねぇ、あなた、聞いた?」
「なにが?」
「聖ちゃん自殺みたいよ?」
「お前っ! そういう事、こういう場で口にするんじゃない!」
「何よ、皆知ってることよ?」
「ホントか?」
「ええ、ホラ、あなた知ってるでしょ? 例の高校生の自殺の事件」
「ああ。今話題の奴だろう? ……まさか、それだって言うのか!?」
「って話しよ。そのへんはホントかどうか分からないけど。ほら、一日通夜が遅れて、友引もあって葬儀も遅れたじゃない? そういうゴタゴタがあったらしいわよ」
現実感の欠如はいよいよ留まることを知らない。
聖の死すら受け止められていないのに、今度は何だ。聖が自殺。
一切の理解の助けもないままに、真実は俺を置き去りにする。聖に近しい存在としての俺の自負など、一瞬も省みることなく。
聖が自殺など在るわけがない。そんな葛藤を抱くうちに時間は、真実同様俺の意識を置き去りにする。
気づけば、読経が進み、周囲の人間は前席に座るものから順に焼香へと祭壇を登っていた。
順に並び、焼香へ赴く。
数珠を左手に握り、前の人の見様見真似で香を手に取る。掲げるようにして黙祷を捧げ、香炉の中の焼けた石へ振りかける。
香が焼ける匂いが鼻先に充満。俺は顔を上げ聖の遺影を見る。
四つ切に寸断された写真の聖は笑っていた。
涙がこぼれる。
頭の悪い俺は、やっと。やっと聖が死んだことを理解する。
もう二度と笑ってはくれない。もう二度と話せない。もう二度と口づけを交わすことはできない。もう二度と。
もう二度と聖と会えない。
そんな簡単なことが。一晩掛けて判らなかった。聖の死を三日間も知らなかった。
聖が自殺に踏み切った心中など、露とも知らなかった。
膝が折れる。香炉を置いた台にもたれ掛かる。衝撃で、香炉が倒れ、焼けた石と抹香が散乱する。
泣いた。大声を出し涙を流した。
まるで赤ん坊のように。無力でただ泣くことしか知らない赤ん坊のように涙を流す。
実際、俺には何もできなかった。ただ泣くことしか。
眼の奥が熱くなり、鳴き声は反響して脳を揺らす。感情の波がさらなる波濤を呼んで、体中の水分が涙となって、目から零れた。
他人の体のように力のこもらない全身を持ち上げる。すがるようにして香炉置きの台に寄りかかり身を起こした。
周囲のどよめきも困惑も無視し、ふらふらと棺へ向かう。
参列者から離れた席に座り、目を真っ赤に腫らした女性が何事か声を上げて俺に近づいてくるが、俺は気にせず歩みを続ける。
焼香の人間が上がるよりさらに一段上。斎場の、一際暖く明るい黄白色のスポットライトが降り注ぐ場所。そこに聖の眠る棺の窓はあった。
取っ手に手を掛け、観音開きになっているその小窓を開く。
俺は、慟哭の声をあげた。
そこには原型を留めぬほどに歪んだ顔に包帯が幾重にも巻かれた、聖が眠っていた。
少し遅れて駆け寄ってきた女性が俺を棺から引き剥がすと、慌てて小窓を閉める。
何事かを泣き叫ぶ女性の声は、しかし、俺の耳には届かなかった。
俺は涙を流し、ただただ涙を流し、そして、どうしようもない怒りに明け暮れていた。