月明かりの舞台で‐~~~と~~~~の会話1‐
天気予報は外れた。
雨は降っていない。薄雲をまとった月の光が夜の闇をおぼろげにはぎ取っている、夜。
夜陰と月光の狭間でぼんやりとそこにそびえる夜の学校は、見慣れた物のはずなのに、どこか違う世界の建物のような印象を受けた。どこか幻想的で。どこか蠱惑的で。どこか儚げだ。
守衛詰め所がある正門を避け、脇を抜ける。裏門近くの柵を越えて敷地に入り、身を屈めるように小走りで校舎の脇までやってきた。
確認のため、携帯を開く。
指定された箇所の窓に手をかけると、なんの手応えもなく、ガラス窓がすんなり開いた。
胸の高さほどに開いた夜の校舎への入り口に飛び上がり、身を滑り込ませ、教室へと降り立つ。
一階。校門から見て右から二番目。一年生の教室なことは分かるがクラスまでは定かではない。
窓から刺す青白い月光に机と椅子がその影を浮かび上がらせていた。そして、眼に入るのは教室の前方中頃後方と三つ並んだ廊下へのドア。
当然鍵がかかっているはずの三つのドアの内、メールで指定された真ん中のドアに手をかける。先ほどの窓と同様、すんなりと開いた。
私はその段になってやっと、あの合言葉に呼応して、返信されてきたメールの存在の恐ろしさに気づいた。
完璧な自殺を段取る、という噂に疑いを挟む余地はもうなかった。
引き続きメールをみながら、警備装置を避けて、人の息づかいのしないコンクリートの構造物を進む。その静けさはまるで、打ち捨てられた廃墟か、弔う者の訪れない霊廟を思わせた。
屋上への階段を上り、最後のドアへ手をかける。ここが開いていなければ、私は自殺を諦めるだろうか。ふとそんな考えがよぎる。
ノブを握る手のひらが汗ばんでいた。緊張しているのだろうか。
当然だ。私はこれから死ぬのだ。死ぬ前に平静なんか保てるはずもない。
非情な運命を飲み込み、恐れも、誇りも、他人への感謝も、生への執着も、愛する人への想いも、ほかにも一杯。そう一杯だ。いっそ喉笛がちぎれるくらいに叫び倒して、狂ってしまいたいくらいの感情の津波を、すべて飲み込んで平然の境地になど立てるはずもない。
いくら泣いても枯れてくれない涙がまた溢れた。
泣くのは嫌いだ。自分が悲しんでるのだと気づいてしまうから。それに気づいた途端、そこは穴になる。心にポカンと開けてしまった穴を、悲しみは見逃してくれない。
悲しみはそこにどんどん押し寄せてきて、心の中はすぐに涙の基で一杯になる。泣けば泣くほど、止められない涙が私の頬を濡らせば濡らすほど、悲しみは大きくなる。
そうなったら、私はもうどうすることもできない。体が泣きつかれるまで、もう誰のものだかも分からない、大きくて暗くて重くて冷たいモノが、心の中で跳ね回るのをじっと我慢しなきゃいけない。
だから泣くのは嫌いだ。それでも私には泣くことしかできなかった。
泣くのが嫌で、悲しみがガンガンと魂を削るのをただ我慢してるのが嫌で、私は思いきって重い鋼鉄の扉に力を込める。
ガコン、と重厚な金属音とともに、その扉はいとも簡単に開いてしまった。
空調の切れた夏の夜の校舎のすこしむっとした暑さを、押し退けて入ってくる涼しげな夜気が、私を屋上へと迎えた。
私が学校まで来たときは、まだ薄雲を纏っていた下弦の月が、今やその姿をすべてさらし、その明るさで屋上を照らしていた。
私はその明るさと涼しさに吸い寄せられるように、屋上へ、一歩二歩と足を踏みだした。
頬を落ちる涙を、夏の夜の風がどこかへ連れ去っていく。
「随分と早いな」
私が屋上の中心辺りにまで歩を進めたところで、突序を背後から声が襲う。
「きゃぁあっ!」
想像だにしなかった何者かの存在に私は金切り声を上げ、その場にへたりこんでしまう。
「約束の時間は十時とメールにはあっただろう」
「は、はいっ!」
真夜中の無人の校舎で得体の知れない誰かとの遭遇。私の頭は先ほどまでの涙もどこへやら。一瞬にして全身を恐怖が支配していた。
パニックなった頭はなにも機能せず、只ひたすら自分のこれからを案じるばかり。
しかし、どれだけ経っても、言葉も暴力も、何一つ私に向かってこなかった。
少しだけ、冷静になって、問われた言葉の意味を思い出し考える。
この場にいること、約束のことを知ってること。よくよく考えれば、考えるまでもない答えが一つある。
「あの、自殺ネットの人ですか」
私は恐る恐る声の主に向き直った。
そこを何と言っていいのか。私が出てきた階段の踊り場部分と扉を覆う建物の上。屋上に突き出た立方体の構造物の上に、その男の人は座っていた。
目元が少し隠れるくらいの長さの髪で隠された表情は、月明かりを背にした陰になっていて窺うことはできない。イヤホンを手遊びのようにくるくると回しながら、その人は私を見下ろしていた。
「そうだ」
再び、その人が口を開いた。口数の少ないその言葉はなんだか威圧感を漂わせていて、私の恐怖は薄らぎこそしたものの、根本的には拭えなかった。
「あの、ごめんなさい。遅れちゃだめだと思って、早く来ちゃったんですけど。あのご迷惑だったらもうちょ」
「あー、別に良いよ。時間なんてそこまで重要じゃないし。何時間も早かったり遅かったりしたら困るけど、っと」
男が屋上の床に降り立った。
「じゃあ、早速始めようか。自殺」
まるでコンビニに立ち寄るような気軽さで、さらりと、男は衝撃的なことを口にする。
「え、あの、えっと」
「ん? どうかした?」
「いえ、あの」
「あれ、もしかして、君? 違う人かな? 名前は?」
「私は、」
ここで名乗ったら、私はもう後には引けない。そんな直感が浮かぶ。生と死の狭間に今まさに立っているのだ。裏を返せば私はまだ、生の側に逃げ込めるかもしれない。
逃げ腰なことばかりを考える私の背中を、夜風が押した。喉のすぐそこでつかえていた言葉が声となって漏れる。
「私は、福沢聖です」
それ以降言葉に詰まり俯くしかない私。
そんな私を無言のまま見つめていた男は、やがて口を開いた。
「そうか、福沢聖さんか、間違いないね」
男は頷着ながら続けた。
「それと、いいんじゃない直ぐじゃなくても。死ぬの。今直ぐ死ななきゃって訳でもないし。心の準備って奴がさ、必要だろうしね。好きにするといいよ、死ぬのは俺じゃない。死ぬのは君なんだから」
そう言われて指を差された。
「準備できたら、声かけて」
そう言い残すと、また階段上のスペースに登るべく梯子に男は梯子に手をかける。
「あ、そうそう。やっぱやめますってのだけは無しね。それやられると自殺ネットの仕組みが壊れちゃうから。まぁその場合は俺が突き落とすだけなんだけどさ」
またも衝撃的なことを口にする。こんな狂気の沙汰のような仕組みに関わる人にまともな人間性を求めてもしょうがないのかもしれないが、心の底からこの人のネジの飛び方に恐怖を覚える。
「それじゃ、ごゆっくり」
そういって手をひらひらと振ると、ポケットから音楽プレーヤーを、取り出しイヤホンをセットする。
手元でリモコンを弄る男に、私は声を絞り出した。
「あ、あの!!」
きょとんとした顔でイヤホンを外す男。
「ん?」
「あ、あの。話。……私の話! 聞いて貰えますか」
何故、こんなことを口にしたのか。
得体の知れない男と、とにもかくにも言葉を重ねて恐怖を払拭したいのかもしれない。死を前にした不安と緊張で沈黙に耐えられなかったのかもしれない。
それも間違いじゃない、と思う。
でも、たぶん。いやきっと。
私は誰でもいいから知ってほしかったんだと思う。本当に知ってほしい誠くんには、しかし、絶対に知ってほしくない真実を。
そのどす黒い固まりを独りで抱えてられるほど私は大人でも強くもない。私は悪くないんだ、ということを誰かに分かっていてほしかったのだ。
それがたとえ、人に死を運ぶ不吉な男でも。
男はしばし黙り、プレーヤーを操作している。
「駄目ですか?」
私がそう声をかけると、男はくるくるとイヤホンを巻き取り始め、私の顔を見据えて言った。
「いいよ。話してごらん」
男は立て膝に肘を乗っけると、私に話を促した。
私は意を決し口を開く。おぞましくぬぐい去りたい記憶を、語るために。