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DI[e]VE  作者: 武倉悠樹
奈落の開口
14/21

色とりどり、交差し絡まるイト‐福沢聖・倉瀬幸弘・湯島誠‐

 五時間目の日本史。私は黙々と黒板を写していた。


 三十代後半。口の悪い生徒達からは「行き遅れ」と陰口を叩かれるこの野村先生はひたすら板書をするタイプの先生だ。生徒を指名し質問を投げかけることも、逆に質問を受け付けることもしない。


 だから、不人気な評判が先行しがちだ。だけど、板書中赤のチョークで書かれたこと以外がテストに出たことは今までない事を、まじめにノートを取っている人だけは知っているから、実は支持する娘も少なくない。


 この日本史のためにわざわざ用意したゲルインクのオレンジ色のペンで重要な部分を書き留めていく。


 ふと、スカートのポケットで携帯が震えた。


 野村先生は黙々と板書をするため、教室内はカツカツと黒板にチョークが削られる音だけが響いている。


 そんな中携帯が振動する音と言うのは案外大きな音となってみんなの耳に留まる。


 誰からのメールか、モニターを見なくてもすぐわかる。誠くんだ。


 誠くん用の着信メロディーに連動して、誠くん用のリズムを刻みながらその身を震わせる携帯は、この静かな空間では少し目立ちすぎる。あわてて携帯のサイドボタンを押して、バイブを黙らせた。


 先生は。


 左手をポケットに入れたままの姿勢で数秒。先生の様子を伺うが、相変わらずカツカツという音だけが響く教室の様子に変わりはなく、先生も板書を止める様子は見せなかった。


 私は小さく安堵する。


「聖」


 小さな囁きが聞こえた。声が聞こえた方向に目をやれば隣の席の由樹ちゃんが、にこりと笑顔をこちらに向けてくれていた。


 私はその笑顔に笑顔を返すと、もう一度、先生の様子を窺ってから、携帯をそっと開く。


 本開きにすると、カチリとまた静かではない音を立ててしまうので、気を使って半開きにした隙間から誠くんのメールを読む。


 そこには「合言葉ゲットしたぞ!! 「カスパーゼ」だってさ!! へへへ、凄くね、俺? 褒めてもいいよ!」とあり、最後に笑顔の顔文字が添えられていた。


 合言葉。本当に見つかった。


 誠くんからのメールに私は衝撃を受けた。震える手が携帯を取り落としそうになり、慌ててしっかりと掴み直す。


 この合言葉が本当なら。


 心臓が高鳴るのを感じると同時に目頭に熱い物がこみあげてくるのがわかった。


 いけない。今は授業中だ。洟をすすり上げ、涙をこらえる。

 

 開くときと同様、音を立てないように注意深く携帯を閉じ、ポケットにしまう。


「聖、どうかした?」


 私のおかしな様子に気づいたのだろう。丸っこい可愛い字でそう書かれたノートの切れ端を私に投げてよこしたのは由樹ちゃんだ。


 慌てて由樹ちゃんを見るが、由樹ちゃんは何事もなかったように、前を見つめせわしなくシャーペンを走らせている。


 私は、もう一度静かに洟をすすり上げて、ノートの切れ端に返事を書いて由樹ちゃんに投げ返す。


「何でもないよ。ありがとう」


 それから、私は前を向いてノートを取る作業に戻る。横顔に由樹ちゃんの視線を感じたが、黒板から視線を動かさなかった。


 ノートに付けてしまった涙の染みは三滴分で済んだ。



  ※※※



「あぁ、いいよ。俺このまま帰るから。ゴミ捨てておくよ」


「え? いいの? ありがとうね、倉瀬くん。 それじゃ、また明日」


 そう言うと、中山さんはカバンを引っ掴んで教室を足早に後にした。部活の練習に急ぐらしい。


 当番だった化学準備室の掃除を終えた俺は、燃えるゴミがそこそこ詰まった三十リットルのゴミ袋を持ち上げ、帰ることにした。


 ゴミを持ったまま、靴を履き替え、正門のアーチをくぐらず右に折れる。こんな坂の上に建てられた学校にも関わらず、自転車を漕いで来る物好きな奴のための自転車置き場を抜け、校舎の裏へ。すぐに見えてきたゴミ集積場にゴミを放る。


 さて帰ろうかと、きびすを返すと、ふとゴミ集積場の柵に止まるカラスが目についた。俺は数秒間、カラスと目を合わせる。


「カァーー」


 興味を失ったようにそっぽを向いたカラスに一声かけて、こんどこそ本当に帰るべく正門へと戻った。


 朝あんなにも気も足も重くさせてくれる坂道も、帰路の時だけは多少ありがたく感じる。一日の半分にも及ぶ拘束時間から解放された気の軽さと相まって坂を下る道のりは足取りも軽い。


 帰宅部のメンツを中心にした人の波。そこに時折交じるジャージ姿でグラウンドへ駆けていく運動部の連中が、間を縫って行く。いつもの下校時間の風景。チャカチャカ、と耳障りな音をあげて俺の脇を抜けたのはサッカー部か。


「トレーニングシューズ痛むだろうに」


 誰だか知りもしない相手への、どうでもいい心配が一瞬脳裏をよぎるが、すぐに忘れる。どうでもいいことを感じて、すぐに忘れたという事実もすべてひっくるめて。


 鞄から音楽プレーヤーを取り出し音楽を聞きながら坂を下る。駅を臨む段になり、勾配が緩くなったところで、携帯を開き、メール機能を立ち上げた。


 幾度かボタンを操作し、メール画面がモニター表示された。


 そこに踊る文字を俺は注意深く再確認していく。希望日時は今夜の十時。その案内が続き、並ぶのは料金の話。合言葉である「カスパーゼ」の文字列に小さな興奮を覚えた。


 自然と口端が吊り上がりそうになるのを堪える。メールの中身を頭に刻み込み、消去する。


 駅への道を歩きながら、胸の奥で静かに、冷たく沸き上がる情動を感じていた。


 決行は今夜。


 夜が待ちきれなかった。



  ※※※



 聖にメールを送った後、保健室のベッドのサラサラとしたシーツの気持よさに俺はすっかり眠りに落ちてしまっていた。


目を覚ましたのは、五限の終了を告げる鐘の音でだ。


 変に睡眠を取ってしまったために、重くなった頭を振り払って六限に出たが、耳に飛び込んでくる数式が、良い子守歌になってしまった。


 ひとしきり寝汗をかき、大げさに船を漕いだ反動で起きた。その様子を後ろの席の三宅がひそめ笑いであげつらい、俺は反撃に消しゴムのカスを三宅の机の上に振らせてやる。そうこうしてる間に六限も終わり、一日が終わった。


 二度も仮眠を取った俺の頭はさすがにすっきりしていた。寝汗をかき、多少肌がべた付いていたのが気になっていたのだが、俺の心に澱となって沈殿していた関口の呪文はすっかり消え去っていた。


 ホームルームを三宅からの反撃を交わして過ごし、一日の義務を終える。


「三宅、湯島、今日この後は? 軽音の金やんの所でも行ってカラオケしない?」


 じゃれ合う俺と三宅に声をかけてきたのは伏見だ。


 それを受けた三宅は頭を掻きながら答える。


「悪かないけど、俺その前に運動部棟行きたい」


 運動部棟。その名の通り、運動部の部室が立ち並ぶ校舎だ。各クラスの教室がある新校舎からはずいぶん距離があり、第一第二第三のグラウンドの並びと体育館の中間に位置している。正門前の坂を半ばまで下り、そこからわき道に入り、少しばかり登ったところの広い台地に、それらの運動施設は乱立してる。


「なんで、そんなとこいくんだよ?」


 俺は疑問を素直に口に出す。


「て・め・え・が!! 俺の頭に消しカス降らせたからだろうが!! 取れねぇんだよ、これ!!」


「三宅、天パだからね」


 伏見はさらりと酷いことを言う。


「天パ関係ないし!!」


「あるよ、よくからまるじゃん」


「んなことないし!」


「なくないよ」


 三宅と伏見の漫才を見ながら俺はぼーっと考えていた。


 軽音のとこに遊びに行くのも良い。三宅につきあってシャワーを浴びるのも良いかもしれない。寝汗を流したいとも思う。


 でも、俺は。俺はなんだか。


「悪い、俺は先帰るわ。待たしてるんでな」


 待たしているのは嘘だ。約束はしていない。でも俺は聖に会いたかった。 


 伏見に食ってかかっていた、三宅が俺の言葉に矛先を変える。


「おいぃぃ! それはどういう意味だね湯島君! 君は僕らとの友情を蔑ろにして聖ちゃんを取るのか」


 胸ぐらを掴もうと突進してくる三宅の頭を押さえる。リーチの差で俺が負けることはない。


「悔しかったら、おまえも彼女作れば、いいじゃん」


「湯島も酷なことを言うね」


 伏見はまた酷い。


「そして、それはどう意味だね伏見貴久くん!! 友情を篤く重んじるこの三宅夕成に、そんなことを、という意味なら僕は君を許そう。しかし、もし、万が一にこの三宅ゆ」


「そんじゃな、伏見」


「うん、また明日」


「Hey! Guys!!」


 三宅が突っ込みを求めてわめき散らす。六回も授業を受けた後だというのに、なんとも元気な奴だ。たぶん授業を理解するという方向に一ミクロンもエネルギーを割いてないに違いない。


「三宅」


「なんだい! 湯島君!!」


 喜色満面の表情を向けてきた三宅に俺は言い放つ。アイアンクローをがっしりと決めながらだ。


「聖ちゃんと呼ぶなといったろう? な!?」


「はい」


「わかればいい。じゃな、三宅」


「まったく。明日はバスケつき合えよ! 三宅くん寂しくて死んじゃうぞ!」


 三宅の軽口を背中で受け、俺は教室を後にする。


 教室を出て一旦ロッカーに寄る。ノートをバインディングしてあるファイルを取り出し、鞄に詰める。


 鞄のチャックを締め、ロッカーを閉じようとしたところでそれが目に入った。


「あ。…………。やっば。俺としたことが痛恨のミス」


 そこには一限の前に幸弘から借りてそのままの辞書が置いてあった。


 たしかそういえば二限で使うから返してくれと、そう言ってたような気がする。


 辞書を片手に途方にくれる。今からではタイムマシンでも使わない限り、二限に間に合わない。


 言い訳が高速で頭の中を飛び交い、形に成らずに消えていく。本当に必要なら俺が返しに来なくたって、自分で取りに来ればいいと逆ギレしかけるも、それも駄目だ。教室から出てふらふらと合言葉を求めて彷徨っていたのは俺の方で、もしかしたら幸弘はしびれを切らし俺のクラスに来てたかもしれない。


 完全な失態に呆然としてると、窓の外、校舎の脇を抜ける、正門坂を下っていく人影を捉える。幸弘だ。


 この偶然を逃す手はない。謝ろう。そう直感した。言い訳をするでもなく、おちゃらけるでもなく。こればっかりは百パーセント俺の非だ。


「おぉーい!! 幸弘!! 辞書!! 悪かった!!!」


 俺は声張り上げ、辞書を握った手を窓から振る。


 しかし、幸弘はこちらを向かない。怒って無視されてるのかもしれない。元々愛想のいい奴ではないのに、さらに怒らせて態度を硬化させてしまったか。


「おぉーい!! 幸弘!!」

 

 何度か声を上げて、俺は諦めた。無視されてるのではないことに気づいたからだ。

 

 幸弘の耳にはイヤホン。視線は手に持った携帯に注がれている。これでは、俺がいくら呼びかけようと、無駄だ。


 仕方がない、明日、朝一番で謝ろう。帰っていく幸弘の姿を見送りながら、そう思い直す。


 幸弘は手にした携帯を覗き込みニヤニヤと笑みを浮かべている。なぜか一瞬その笑顔が酷く昏く歪んだものに見えた。辞書を返し忘れた罪悪感も忘れるくらいに。

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