滴り
古びた小学校の校舎の裏手、校庭の隅にひっそりと佇む手洗い場があった。今はもう使われておらず、蛇口をひねっても錆びついた音を立てるだけで、水の一滴も出ない。しかし、その手洗い場には、まことしやかな噂がつきまとっていた。夜中、その蛇口をひねると、血のような真っ赤な水が流れ出すというのだ。
好奇心旺盛な小学生の康太は、その噂の真偽を確かめようと、ある夜、こっそりと学校に忍び込んだ。闇に包まれた校舎は、昼間の賑やかさとは打って変わって、不気味なほど静まり返っている。心臓の鼓動が耳元でうるさく響く中、康太は手洗い場へと近づいた。冷たい金属の蛇口を、震える指でゆっくりとひねる。しかし、何も起こらない。期待外れな現実に、康太は安堵と同時に、わずかな落胆を感じた。
その夜から、康太の日常は一変した。夜になると、どこからともなく水滴が落ちる音が聞こえるようになったのだ。
「ポタッ……ポタッ……」
最初は気のせいだと思った。だが、音は毎晩、康太の耳元で響き渡る。両親は康太の訴えを聞き、家中をくまなく調べたが、水漏れの痕跡はどこにも見当たらない。耳栓をして眠ろうとしたが、不思議なことに、その音は耳栓をすり抜けて聞こえてくるのだった。
毎晩続く水滴の音に、康太は次第に眠れなくなった。疲労と恐怖は彼の精神を蝕み、やがて彼は幻覚を見るようになった。壁に染み出す赤い液体、天井から滴る粘り気のある滴。康太の憔悴ぶりは日に日にひどくなり、ついに彼は精神病院に入院することになった。
しかし、病院の白い天井の下でも、あの音は康太を追いかけるように響き続けた。
「ポタッ……ポタッ……」
規則正しい滴りの音は、まるで彼の狂気を加速させるかのようだった。康太はまともに食事もとれなくなり、痩せ衰えていく。医師たちは彼の症状に首をひねるばかりで、誰も彼を救うことはできなかった。
ある日の深夜、康太は病室の窓から差し込む月の光を見つめていた。その時、ふと脳裏にあの手洗い場の光景が浮かんだ。
「すべてはあそこで始まった。ならば、すべてはあそこで終わらせるべきだ」
突然の衝動に駆られた康太は、病室に誰もいないわずかな隙を狙い、病院を抜け出した。ただ、この現実から逃れたい一心だった。
夜の闇の中を、康太はただひたすらに走り続けた。気がつけば、康太は学校の校庭の隅にある手洗い場の前に立っていた。錆びついた蛇口が、月明かりの下で鈍く光っている。
康太は手洗い場に寄りかかるように座り込んだ。冷たいコンクリートの感触が、彼の狂おしいまでの熱をわずかに冷ます。震える右手には、いつの間にか握りしめていたナイフがあった。左手をゆっくりと手洗い場の上へと伸ばす。
「ポタッ……ポタッ……」
微かに聞こえる水滴の音。それは、康太の耳にだけ聞こえる、狂気の調べ。康太は迷うことなく、右手のナイフで左手首を深く切り裂いた。
温かい血が、とめどなく溢れ出す。それは、康太の体から命が流れ出すかのようだった。血は左手を伝い、手洗い場へと滴り落ちる。
「ポタッ……ポタッ……」
あふれ出す血が滴る音が、いつも聞こえる水滴の音に重なって聞こえた。意識が遠のいていく中で、康太はすべてを悟った。
「ああ、この音だったのか……。ずっと聞こえていた、この音が今……」
手洗い場の中は、康太の血でみるみるうちに真っ赤に染まっていった。それこそ噂に聞く『血のような真っ赤な水』そのものだった。そして、水滴の音は、やがて途絶えた。手洗い場の底に溜まった血は、月明かりを反射して、不気味なほどに輝いていた。
その後、手洗い場の側で倒れているところを発見された康太は、病院へ搬送され何とか一命は取り留めた。事態を重く見た学校は、問題の手洗い場を即座に撤去した。
数日の入院後、元気になった康太には二度と、水滴の音が聞こえることは無かった。