五話目【心という空っぽの器を満たしたのは君だった】
「あるよ、心は。例え邪神と言われるあなたにも心はある。あなたの心はいま空っぽなだけだ。」
心は器だ。心という空の器を満たすことで。ひとはきっと己というものを形作っていく。
元の世界で世界を動かす為の機構として自由を知らず、自我すらなく。ただそこにあるだけだったあなたは思わぬ形で自由を得て自我を獲得した。
「───心という空っぽな器を得たんだよ。」
「空の器か。それが満たされることなどないだろう。ましてや私は機構であったが故にひとを、生命を、愛を知らない。」
永劫の如き時間を地の底に築かれし王宮に。豪奢な檻に繋がれながら悪であれと願われた通りに諸々の悪の権化として悪に溺れ、堕落し、腐敗していく人間たちを。時には神を見てきた。
「私に許されたことがそれだけであったからだ。故に私は君のような温かな命に触れたことも、見たこともなかったのだ。ルゥ、私は打算しか知らない。打算でしか動けない。そんな私が君に好かれようなど分不相応というものだったのだろう。」
「···本当に打算しかなかったなら。私はあなたを好きになったりしなかった。私、沢山見てきたから分かるんです。打算で近付いて来るひとたちを。」
私の厄介な体質を利用しようとするひとたちは多かった。だから自然と下心を持ったひとは見抜けるようになっていた。
「どれだけ取り繕われていたとしても!!言葉に、態度に滲んだ悪意は分かる!!」
握り締められた手を握り返し。真っ直ぐに目の前の愛を知らず。孤独でいるしかなかったひとの目を見る。
アジ・ダハーグさん。初めて交わした言葉を思い出して。あの時、あなたの言葉に悪意はひとつの欠片もなかったことを。
「あなたが好きだよ。私は前までは愛せるなら誰でも良かった。きっと誰を愛しても歪ませてしまうし、何時か傷付くことになるってわかっていたから···!!」
でも今は傷付くならあなたが良いんだ。私はあなたを愛したい!!例え、歪めてしまうことになったとしても。私はあなたから離れられない、離れたくはない!
「私を、あなたの隣に居させて欲しい。」
「ルゥ、君は──。」
「何時かあなたは元の世界に戻る。泣きたくなるぐらい寂しいけど。笑って送り出す。だからそれまでは私に愛されることを、私を拒まないで。」
ひとを好きになるのって良いことばかりだと思っていた。想い、想われて笑いあうひとたちは幸せそうで。そこに葛藤や苦悶が付き物だってことを考えもしなかった。
好きなひとに幸せであって欲しい。笑っていて貰いたい。そう思えていた筈なのにアジ・ダハーグさんには私のせいで苦悩して苦しんでくれたらとも思う。
そうやって思い悩む間は私だけを見てくれる、考えてくれるからだ。そう思ってしまう私はきっとひとでなしの意気地無しだと手に持つ木製のカップになみなみと注がれた琥珀色の水面には情けない顔をした自分が居た。
「ルゥ、浮かない顔をしてるわよ。近頃は楽しそうだったのに···。悩み事なら私を頼んなさいな!伊達に人生経験積んでないわ。恋愛相談なら任せなさい。ルゥ、あんた。恋してるのよね。それも、本気の───。」
「え、」
仕事終わりに一杯付き合いなさいとローズさんに酒場《小竜公》に引っ張られて。
レモンとライムをあわせたようなリモレを搾って作られた果実水を渡されてちびちびと飲んで居るとローズさんは火酒を青い硝子のショットグラスで飲みながら優しい顔で微笑む。
本気の恋──。確かにこれまでの恋が色褪せてしまうほど。私は本気の恋をしているのだと思う。
「ローズさん。私、期間限定の恋をしてます。それが何時なのかわからないけれど。この恋心は手放さなきゃいけないと分かっているのに。私、手放したくないんです。」
邪神であることをぼかしてアジ・ダハーグさんのことを話すと。ローズさんは柔らかに笑って私の頬を軽く摘まんだ。
「ルゥ。もう答えは出ているじゃない。手放したくないなら手放さなくても良いの。」
だってあんたの恋はあんただけのものなんだから。この世にひとつきりのあんただけの宝物を捨てる必要はないのよ、ルゥ。
「それにどれだけ苦しくても。どれだけ重たくても。その恋をずっと胸に抱えて生きていきたいんでしょう?」
「良いのかな。ずっと好きなままで。この恋を抱えたまま生きていても良いんでしょうか。」
「当然よ。恋はね。心を持つ生き物すべての特権よ。」
苦くて甘くて。一度味わったら抜け出せないのが恋だわ。恋するが故にひとは悩み、誰かを傷付ける。けれども恋するからこそひとは誰かを許しもする。
「難解で複雑であり、奇々怪々。けれどもルゥ。あんたが素敵な恋をしているってアタシにはよーく分かるわ。」
だっていまのあんたはとびっきり可愛いんだものと。ローズさんは私を抱き締め。べそべそとアタシの可愛いルゥが取られちまったーっ!!だなんて。泣き真似をするものだから。
なんだか強張っていた肩から力が抜けて笑えてきた。ああ、今日はアジ・ダハーグさんが家で留守番をしていて本当に良かった。泣き言ばかりローズさんに話していたし情けない顔を沢山していたから。私は泣きべそを掻きながら笑う。
(───私、アジ・ダハーグさんを好きでいて良いんだ。彼を恋慕うこの想いをずっと抱えて良いというのならばそれは。それはきっとなによりも幸福なことだ。)
···きっとアジ・ダハーグさんは私を好きではないし。振り向いても貰えないかもしれない。けれども私はアジ・ダハーグさんが好きだ。その気持ちは絶対に変わらない。
(何時かアジ・ダハーグさんは元の世界に帰るけど。好きなままでいちゃいけない訳じゃない。想い続けても良いんだ。好きだって。)
何時か別れが来たとしても、この恋をずっと胸に抱えて生きていく覚悟を決めたところで酒場の扉が開く。
背が高いギュゼルバハルのひとにあわせた高さの扉を窮屈そうに潜り。そのひとは視線を走らせて私を見つけると帰りが遅かったので迎えに来たと言う。
「えっと。よく此処に居るって分かりましたねアジ・ダハーグさん。」
「匂いを辿ってきた。」
「え。辿れるぐらい匂うんですか。」
思わずスンと袖口の匂いを嗅ぐ。臭いのか、私とショックを受けているとアジ・ダハーグさんは革靴を鳴らしながら歩み寄り、名は知らないが。この花によく似ていると右手に携えていた陶酔をもたらすような甘い芳香を放つ白い花を私に渡す。
「ああ、夜来香ね。」
良い匂いがすると腕一杯の花束に私が目を丸くしているとローズさんが花束を覗き込み、白い花の名前を教えてくれた。
「夜来香?」
「大通りの花屋で買ったのかしら。あそこ、可惜夜の御子が先代の店主でね。珍しい花を世界中で見つけては店で売ってるの。」
この夜来香もそのひとつ。夕方から夜にかけて咲く香りが強い花を夜来香と呼ぶそうよ。
「可惜夜の乙女に夜来香の花を贈るなんて。貴方、なかなか趣味が良いわね。」
「···牽制になればよいと思ってな。」
ルゥ、帰るぞと手を差し出され席を立ちローズさんに別れの挨拶をする。そのとき、ローズさんはこっそりと夜来香の花言葉を耳打ちした。
夜来香の花言葉は危険な快楽。或いは官能的な愛なのだと。
アジ・ダハーグさんは花言葉を知っているのだろうかと。自宅までの帰り道、並んで歩く彼を横目で眺めてから。腕に抱えた夜来香の花束に目線を落とす。
そういえば夜来香の花束をアジ・ダハーグさんはどうやって手に入れたのだろうと聞いてみた。
「私には善からぬことを企む者の声が。何時、如何なる時も聞こえている。故に悪事を画策する輩を片っ端から捕らえて、自警団の詰め所に連れていき。謝礼金を得た。」
至極、真っ当な金だから安心してくれ。君に渡すものを汚れた金で購いはしない。まあ、石ころを金に変えても良かったのだが。日々、労働に励む君を私は見てきたからな。
「君を見倣うことにした。なかなか悪くはなかった。これでまた君に近付けたと思えばな。」
そう、楽しげに目を細めて笑うアジ・ダハーグさんに。思わず腕に抱えていた花束を押し潰してしまった。ふわりと漂う夜来香の香りになんだかそわそわする。
夜来香の花言葉を知ったせいでもあるし。アジ・ダハーグさんのせいでもある。ぎこちない私の態度に気付いて、アジ・ダハーグさんは私の額をじっと眺めたあと。花に意味があるのかと口端をつり上げた。
「この花を選んだのは君に似ていたからだ。」
その花が陶酔をもたらすような甘い芳香でひとを誘うように君は私を誘ってやまない。誘われるまま踏み込めば私がこれまで味わったことのない快楽が待つ。
「そして一度、その快楽を味わえば抜け出せぬ。まさに危険な快楽だ。やはりこの花は君にこそ相応しい。」
「なんだか魔性の女って言われてるように聞こえます。」
「魔性であるとも。悪の権化。凶つ竜たる私をこうまで掻き乱すのだからな。魔性と呼ばずしてなんと呼ぼう。君は私を蠱惑し、惑わせ。私らしからぬ言葉を紡がせる。」
アジ・ダハーグさんは私の抱えている花束から夜来香を一輪、摘まみ。躊躇うことなく口に運んで咀嚼し、飲み込む。
これこのように。いっそ君を口に放り込み腹に納められたならば私はかくも苦悶せずに済むだろうにと目蓋を伏せたが口端を吊り上げて。アジ・ダハーグさんは微笑んだ。
「ルゥ、私は此の世界で君と生きると決めた。」
「え、」
「元の世界に戻ったところで自由などない。わざわざ自ら鎖に繋がれてやりに戻る理由などなかろう。」
「それは、はい。確かにそうですね。私も元の世界に戻りたいかって言われたら、嫌ですし。その気持ちはよくわかりますけど。ほ、本当に戻らなくても良いんですか?」
「ああ、恐らく元の世界は大混乱しているだろうが。私を不要、不必要と切り捨てたのは彼方なのだ。であれば尻拭いなどしてやるものか。せいぜい苦労するが良いさ。」
ニンマリと浮かべた笑顔は、まさに邪神。目の奥が冷えきってるな。そうか、アジ・ダハーグさんはこれまで与えられた役割を真面目にこなしてきた訳だから。
それを邪魔され。更には自分の存在は不要だ。用済みだと排斥されたようなものだから。実はかなり怒っていたんだなと。
「アジ・ダハーグさんはそれで後悔しない?」
アジ・ダハーグさんは是と頷き。君の助けを借りて取り戻した神としての力、権能、その全てを己を人間にする為に君たちを庇護する神に捧げたとアジ・ダハーグさんは語る。
私たちを庇護する神というと。私たち可惜夜の乙女や御子を此の世界に転移させたギュゼルバハルの夜を司る神のことだろう。
邪神故、門前払いをされるかとも思ったが随分と気さくな御仁だった。恋は心を持つ生き物全ての特権だと応援までされたからなとアジ・ダハーグさんは笑う。
私たち可惜夜の乙女と御子たちの総元締めみたいな神さまのことが私はすごく、すごーく気になるけれども。
アジ・ダハーグさんが神さまであることを辞めて人間になったという事実に驚き。どうして、そこまでと戸惑う私の手を取り。アジ・ダハーグさんは柔く笑う。
君が私の心を満たしたからだと。
「この心という空の器を満たしてくれたのは他ならぬ君だった。この心はどうせ満たされることはないのだと。そう、自分すらも見放していたというのに君は常に真っ正面から私に。私の心に向き合い温かな想いをたゆまず注いでくれていた。」
私は君のその瞳を通して私という生き物を理解した。世界を、人間を、生命を学び。
私は機械仕掛けの神ではいられなくなったのだ。
最早、私を魔王と呼称する者は居まい。ああ、そうだ。悪の権化、あらゆる罪咎の主と言われたアジ・ダハーグを。
凶ツ竜を君は人間に堕したのだ。卑小なり、蛮勇なりし。愚かくも懸命な小さき命にと。
「ああ、嗚呼──!!なんたる喜劇、なんたる偉業か!!世に名高き吟遊詩人すら。いまの私の高揚を、興奮を!!正確無比には歌えまい!!君に抱く、我が想いも。」
私は万能を失った代わりに自由を得た。心のままに欲するものに手を伸ばし、こうして触れる幸福を得た。その心地好さに喝采をあげたくなる。
私は機械仕掛けの神ではなくなった。君と同じ人間なのだと。
ならば私はこの心のままに君を欲しよう。
「────慈悲深き乙女よ、可惜夜の乙女よ。君に口付ける幸いを私に与えてくれ。」
私は肌を炙る眼差しに気圧されて。こくりと喉を鳴らした。後ずさりたくとも手はアジ・ダハーグさんに掴まれているから逃げたくとも逃げ出せない。
なんとはなしに逃げ出したらより事態が拗れるという予感めいたものもある。私は意を決して口を開いた。
「ま、前向きに!!検討させて頂いてもよろしいでしょうか···!!一先ず、あの。手を放して貰えると有り難いと言いますか!~~~自分の顔の良さをご理解下さい!アイム、ジャパニーズウーマン!!か、過度なスキンシップは御容赦を!」
「はは──!!私の顔はルゥの好みなのは知っている。遠慮せずとっくりと見てくれ。私もルゥの可惜夜の瞳を見詰めるとしよう。···ああ、真に。君は美しいな。」
顔が火照る。全身が酷く熱い。目をぐるぐるさせながら私は私を口説き始めたアジ・ダハーグさんに狼狽えた。
私が自分を好きだと疑うことなく。けれども私がアジ・ダハーグさんの想いを受け入れ。その腕に飛び込むよう仕向けるアジ・ダハーグさんに。
無駄な抵抗だと思いながらも自分がイケメンだと自覚してるイケメンなんてだいっきらいだー!!と半泣きで抗議する。軽率に中身三十路の喪女を口説かないで欲しい。
男なんてもう懲り懲りだった筈のに惚れてしまう。いや、まあ。とっくの昔にアジ・ダハーグさんに惚れてはいるけれども!!
「君が望むのであれば私は女にもなれるが?」
「え。」
「私に雌雄という概念はない。そうだな。以前は相手の望む姿を取っていた。美姫を望めば国を傾ける程の妖艶なる婦。王を望むのならば勇ましき偉丈夫に──。ルゥ、君は私にどちらであって欲しい?私としては君の望む姿でありたい。」
「あ、えっと。どっちでも良いというか。あなたがあなたなら性別は特に拘りはないです。女性でも男性でもあなたであることに変わりはないですし。だから私としてはあなたはあなたのままで良いかな。」
「フハッ、ハハハ!!」
「え、まさかの爆笑。」
「ルゥ、私にそんな言葉をくれたのは君が初めてだ。」
女であろうと男であろうと。私は私だ。しかし、誰も彼もが虚像の私をその目に張り付けて私を見ていたのだ。
「君だけが私に私のままで良いのだと言ってくれた。端的に言って惚れ直した。是が非でも君が欲しい。」
あ、ダメだ。すごく墓穴を掘ったと悟る。私以外にも絶対アジ・ダハーグさんを認めて受け入れてくれるひとは居る。
結論を出すのは早計が過ぎますと最後の抵抗をする私に。アジ・ダハーグさんは愛しげに見詰め。私の頬に大きな手を添えた。
「ルゥ、私は君の言葉だからこそこうまで心動かされるのだ。些か性急ではあるだろう。だがそれは私に余裕がないが故の事。君が誰かのモノになる前に君を我が物としたい。私は君が欲しい、可惜夜の乙女よ。」
【尾張のうつけと】お悩み相談室(ギュゼルバハル新入り向け)【金柑頭の】part1582
990 好きなスイーツは金平糖な尾張のうつけがお悩みにお答えします。
まさかこのスレに邪神が降臨するとはな。何事かと思ったがプロポーズの相談とは儂も流石に驚いたが。なにはともあれ上手くいったようだな!!
991 好きなスイーツは干し柿な金柑頭がお悩みにお答えします。
ええ、うつけ様から花束を贈るという真っ当なプロポーズ案が出るとは思いませんでしたが。プロポーズが上手くいって本当によかった。
992 好きなスイーツは金平糖な尾張のうつけがお悩みにお答えします。
儂をなんだとおもっておるのだ。昔、帰蝶に言われたのだ。万の言葉よりも花一輪だとな。時に言葉より。たった一輪の花がひとの心を動かすと。
993 一般人がお悩みにお答えします。
うつけさん···。
994 好きなスイーツは干し柿な金柑頭がお悩みにお答えします。
ああ、どくだみを贈って帰蝶様に張り倒されてたのはそれが理由ですか。
995 一般人がお悩みにお答えします。
待って。よりにもよってどくだみ贈ったの!?
996 好きなスイーツは金平糖な尾張のうつけがお悩みにお答えします。
あの生命力の強さが美しかろうと思って···。
997 一般人がお悩みにお答えします。
尾張のうつけさんが面白すぎる。まだ面白エピあるでしょ、これ。
あ、でもそろそろスレが終わっちゃう!!
998 好きなスイーツは金平糖な尾張のうつけがお悩みにお答えします。
いや、儂のことよりもわらしと邪神であろう!?
999 好きなスイーツは干し柿な金柑頭がお悩みにお答えします。
その後どうなりました?
1000 邪神がお悩みを相談します。
【夜来香の花束を抱えて笑うギュゼルバハルの伝統的な花嫁装束姿の幼げな女性の画像】
私の妻になった。協力に感謝する。人となった私に如何程の力があるか分からぬが。己が全てを費やし彼女を幸せにしてみせるとも。必ずな──。