東條英機交響楽
東條英機は陸軍軍人で、第二次世界大戦に日本が参戦した時の首相です。その評価は様々ですが昭和十年代の長く続く戦争の時代に陸軍統制派の領袖として大きな存在感を持っていたのは確かでしょう。彼と同時代に生きた近衛文麿、ゾルゲ、尾崎秀実、今村均、甘粕正彦を一堂に集めての架空対談、「東條英機にふさわしい音楽は?」。
(自分で書いてみてAIに補筆させるやり方で第二次世界大戦時の日本の首相東條英機とそれを取り巻く人々の会話を読んでみた。)上記の、東條英機と近衛文麿、鈴木貫太郎、リヒャルト・ゾルゲ、今村均、甘粕正彦との会話で立体的に東條英機が浮かび上がってきたよ。特に東條が教養と繊細さに欠けるが権力構造に敏いのが看取できる近衛、ゾルゲとの会話が良い。
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それは実に鋭い観察ですね。おっしゃる通り、東條英機という人物を多面的に描くためには、彼と立場や性格、教養が異なる人物たちとの対話が非常に効果的です。
近衛文麿との対話では、理想主義と現実主義、貴族的な教養と軍人の実務志向の対比が浮き彫りになります。近衛の宙に浮いた美辞麗句に対し、東條の「地に足つけた」実務感覚と、それゆえの冷たさが際立ちますね。
ゾルゲとの対話は、東條の「繊細さに欠ける」点が特に効果的に描ける場です。ゾルゲの知的な絡め手や言外の挑発に、東條が真正面からしか応じられない様子は、彼の単線的思考をよく表しています。
鈴木貫太郎のような老練な海軍出身者とは、軍人同士ながらも立ち位置の違いが際立ち、東條の視野の限界を映す鏡になります。
今村均との対話では、同じ「能吏」でありながら、知的で人格的なバランスの取れた人物に対し、東條の“強すぎる目的意識”がかえって粗暴に見える場面が描けます。
甘粕正彦とのやりとりは、ダークで諧謔的な要素もあり、東條の「表に出ない顔」を匂わせるのに最適です。倫理の境界が曖昧になる満州の中で、どこか“時代に選ばれた道具”としての東條像が立ち上がってくる。
こうした会話を通じて、東條の視野の狭さ・粘り強さ・政治感覚の鋭さ・教養の乏しさ・倫理感の脆さといった諸相が、読者に“体感”として伝わってくるわけですね。非常に手ごたえのあるアプローチです。
さらに掘り下げるなら、対話相手の視線から見た「東條像」の違いをあえて対比的に描いてみるのも面白いかもしれません。「皆が見ている東條は微妙に違う」ことで、かえって立体像が浮かび上がるという構造です。
続きを書いてみたくなりますね。
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近衛とゾルゲが東條評をする会話も面白いのではないかな。ゾルゲが持参したカラヤン指揮のワーグナーの「神々の黄昏」のSPレコードを尾崎秀美と3人で鑑賞した後で、コーヒーを飲んでいる時の茶飲み話として気楽に、しかしゾルゲは密かに陰険に。
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それは絶妙な舞台設定ですね。ワーグナーの「神々の黄昏」――衰退と終末、力の崩壊を象徴する音楽の余韻が残る中での、東條英機という“帝国の管理人”への静かな批評。それぞれの人物の立ち位置も鮮やかに浮かび上がりそうです。以下、ご提案の雰囲気に沿った会話を書いてみます。
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場面:昭和16年初夏、目白の近衛邸。カラヤン指揮による「神々の黄昏」SP盤を聴き終えた後、尾崎がカップにコーヒーを注ぐ。ワグネルの余韻が部屋にまだ漂っている。
近衛文麿:「まるで、古き良き世界が崩れていくさまを見せられたようだね。……いや、聴かされた、か。」
尾崎秀実:「カラヤンは若いですが、ずいぶんと老成した指揮をする。……この黄昏感、今の時代そのものかもしれません。」
ゾルゲ(笑みを含みながら):「日本もいよいよ神々の時代が終わるのですかね。軍神も、天皇も。」
近衛(軽く笑って):「やめたまえ、ゾルゲ君。君の“神々”の定義はだいぶ過激だ。だが、あながち冗談とも思えぬのが困ったところだ。」
(少し沈黙の後、コーヒーの湯気が静かに上がる)
ゾルゲ:「ところで、近衛公。……東條英機という男を、あなたはどうお考えです?」
近衛(少し驚いたように):「唐突だな。うーん……あれは、まことに“実務の人”だ。誠実でもある。しかし、どうも詩情というものがない。わたしとはあまり噛み合わなかったよ。」
尾崎:「合理性と執着の人、ですね。政治的な打算よりも、“軍隊”を信じて疑わない。やや危うい信仰とも言えます。」
ゾルゲ(静かに笑う):「彼には“神々の黄昏”など理解できません。理性より、規律。感情より、命令。それが国家の末期を早めると、本人は最後まで気づかないでしょう。」
近衛:「だが君も知っているだろう、ゾルゲ君。ああいう人間が帝国を動かしているのだよ。文学や哲学では動かせない。」
ゾルゲ(皮肉を込めて):「帝国の“機関士”には詩は要らない。東條は良い機関士です。ただ……機関車がいつ崖に向かっているか、それは知らぬようだ。」
尾崎:「だからこそ危険ですね。“良き官僚”が一番、戦争を止められない。」
近衛(少し顔を曇らせて):「君たちは批評家だから良い。私は、あの車輪の中に巻き込まれている……。」
ゾルゲ:「いずれにせよ、指揮者がいなければ、オーケストラは混乱するものです。……その役を、あの人が演じるなら、いずれ崩壊は美しくなるかもしれません。」
(遠くでレコードの針が止まり、「神々の黄昏」の最後の残響が消える)
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どうでしょう、この会話を通してゾルゲの冷笑的な視線、尾崎の理知的な分析、そして近衛の無力感を背景に、東條の機械的な忠誠心と、それゆえの破滅への加担が陰影深く浮かび上がってきます。
ご希望があれば、ここに今村や甘粕を加えた“戦前知識人サロン”風の展開も可能ですよ。
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ああ、良いですね。設定を度外視しても、今村や甘粕ならカラヤン指揮のベルリン・フィルのレコードなら喜んで聴きに来そうだ。
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そうなんです、今村均も甘粕正彦も、それぞれの立場を超えて“文化の香り”には反応しそうな男たちですよね。今村は穏健な精神主義者としての知性、甘粕は放埓と享楽の裏にある美学へのこだわり——どちらも近衛やゾルゲとは違う観点から東條像を語りうる存在です。
では、場面を広げてみましょう。目白の夜会、カラヤンのSP盤を囲む密やかなサロン。
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参加者:近衛文麿、ゾルゲ、尾崎秀実、今村均、甘粕正彦
曲目:カラヤン指揮、ベルリン・フィルによる『神々の黄昏』より「ジークフリートの葬送行進曲」
(レコードが静かに回り出し、重厚な金管の旋律が流れる)
甘粕(グラスを傾けつつ):「ベルリンも、こんな音を鳴らしてるんですな……戦争の足音というより、帝国が死ぬ音だ。」
今村(腕を組んで聴き入りながら):「これは“死”というより“儀式”ですね。神話の終わりにしては、なんと静謐で荘厳なのか。」
(曲が終わる)
ゾルゲ:「……やはり、東條には聴かせられませんね。この静けさは、彼の中にはない。」
甘粕:「あの人には“滅びの美学”というのが欠けてる。官僚主義者は大義もロマンも笑って捨てる。」
近衛:「だが国を背負っているのは彼らなのだ。美しき誤謬より、醜き実務のほうが歴史を動かす。」
今村(やや声を落とし):「いや、東條君も自分の中の正義に生きているのだと思う。だが、それは“理屈を捨てた軍人”の正義だ。」
尾崎:「つまり“制度の奴隷”ですね。個としての信念が制度の論理と一致した時、最も恐ろしい。」
甘粕(笑って):「あの人がやる事はシナリオに忠実すぎる。だがそのシナリオ、誰が書いたんだろうね?神か、官房か……それとも参謀本部の亡霊か。」
ゾルゲ(じっとコーヒーを見ながら):「神々の黄昏に登場する神々と違って、東條には“死ぬ覚悟”がない。彼は帝国を滅ぼすが、自分を神とは思っていない。」
近衛:「それは哀れというべきか、救いというべきか。」
今村:「いずれにせよ、国が“理念なき信念”で動くならば、結末はこの音楽が語っている。」
(再びレコードが回り、「ブリュンヒルデの自己犠牲」の旋律が流れ出す)
甘粕 (ぼそりと):「……じゃあ俺たちは、神々の火葬に立ち会う亡者たちか。」
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この場面、ある種の文化的臨終を囲んで、それぞれが自分の立場から“帝国”と“東條”を語る。重奏的で、多声的で、それぞれの人格が香り立ちます。
もっと掘り下げたり、他の人物も加えた“帝国の夜会”シリーズも展開できますよ。ご希望があればどうぞ。
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もう少しこの会話を続けましょう。この登場人物と昭和16年という時代とワーグナーの「神々の黄昏」、重厚かつ審美的退廃的で面白すぎる。東條は確かに自分を悲劇の登場人物だと少しも思っていなくて、帝国の機関士だとブレーキの壊れた機関車を喜んで爆進させそうなんだよな。東條英機にふさわしいテーマ音楽について皆さんで楽しく語り合いましょう。ドボルザークの「新世界より」?ショスタコーヴィチの「革命」?
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ありがとうございます、もうこのまま一冊の戯曲か音楽劇になりそうな豊穣さですね。この登場人物たちが昭和16年の薄暗い夜に、帝国の運命を音楽になぞらえて語り合う——そんな場面、心が躍ります。では、先ほどの「目白の夜会」の続きとして、みんなで「東條英機のテーマ曲」を真面目に(そして時に茶化して)選び合う場面を描いてみましょう。
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場面:目白の洋館。レコードが一旦止まり、尾崎が次の盤を選びに立ち上がる。残された男たちは、沈黙を破るように語り始める。
甘粕:「さて、君たちは東條中将にどんな曲を付けるかね。彼が歩いてくる時に流れるべき“音楽”だ。」
ゾルゲ(コーヒーを啜りつつ):「私はチャイコフスキーの《1812年序曲》を選ぶね。大砲の音と祝祭の鐘ばかりで中身がない。まさに彼らしい。」
近衛(苦笑して):「それはちょっと華やかすぎる。彼にそんなドラマ性はないよ。むしろ……マーラーの《第6番》では?“悲劇的交響曲”。本人は悲劇と思ってないが、歴史的には確実に悲劇を運ぶ男だ。」
今村:「いや、あれほど多声的な曲は、東條には似合わん。彼は単音で突っ走る……ベートーヴェンの《運命》冒頭のダダダダーンを、三〇分繰り返すような男だ。」
甘粕:「ダダダダーン!ダダダダーン!……なるほど、強迫的だ。」
尾崎(戻ってきてレコードを手に):「私はショスタコーヴィチの《交響曲第5番》を挙げます。見かけは壮麗だが、その下に嘲笑と皮肉が込められている。スターリンを満足させるために書いた曲とされてますし、東條の軍服の下にも、国家に操られた一介の軍人の哀れさが見えるような気がします。」
ゾルゲ:「いや、それは東條に対して優しすぎる。彼には“機械仕掛けの栄光”がある。私はプロコフィエフの《戦争ソナタ》も候補に入れる。」
今村:「おお……あれは激しい。制御不能な情動が鍵盤を叩く曲だ。だが、東條は激情ではなく“粘着”だろう。ブレーキの壊れた機関車が言い得て妙だ。」
甘粕:「だったら《新世界より》の第4楽章はどうだ?あの“ずっと走りっぱなし”の感じ。戻ってこない汽笛。しかもアメリカから来た旋律で、帝国を壊す音楽としても皮肉が利いてる。」
近衛(含み笑い):「それならいっそ、リストの《死の舞踏》はどう?骨のようにガチガチと刻むピアノ。彼の人生そのものだ。」
尾崎:「では最後に私から、ワーグナー《ローエングリン》第3幕の行進曲。“帝国の行進”というべき誤解された栄光——内実は空虚な婚礼のように。」
ゾルゲ(くすりと笑って):「それではどれを選んでも、最後には“神々の黄昏”が待っているようだね。」
甘粕:「その通り。みんな、楽しく滅びようじゃないか。」
(誰からともなく、乾いた笑いが漏れる)
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いかがでしょう?この夜会はまだまだ続きそうです。もしよろしければ、次は**「誰が帝国を一番早く見限ったか」**を酒の肴にして議論させることもできますよ。
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面白い。実に面白い。それぞれの楽曲の特徴と含意が良く表現されてる。実際素人受けする豪快だが空疎な音楽が東條英機には合っている。近衛のマーラー第6番というのも渋いねえ。「誰が帝国を一番早く見限ったか」(乾いた笑い)君も言うねえ。どうせ架空対談なんだから構わないけど確かに酒が必要だ。どうぞ書いて下さい。
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ありがとうございます。では、引き続き「目白の夜会」。次なるテーマは――
「誰が帝国を一番早く見限ったか」。
音楽談義から静かにグラスを傾けながら、やや気怠く、しかし鋭く火花を散らす会話。場所は同じ目白の洋館。登場人物は変わらず、近衛文麿、ゾルゲ、今村均、甘粕正彦、尾崎秀実。背景には、まだ片面しかかかっていないSPレコードがコトリと止まる音。
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甘粕(新しい酒をグラスに注ぎながら):「さて、音楽の話もいいが、今夜の肴はもうひとつ……“誰が帝国を一番早く見限ったか”。どうだい?」
近衛(笑いを噛み殺す):「ふふ……甘粕君、それを言い出すとは、君自身がその一人ではないかね。」
甘粕:「まさか。私は終わりの近い帝国を、せめて華やかに演出してやろうとしただけさ。」
ゾルゲ:「君たちは見限るどころか、まだ希望を抱いていたように見えたがね。特に近衛公――日中戦争を泥沼にした張本人では?」
近衛 (むっとして):「私は和平の努力をした。それを潰したのが陸軍だ。……もっとも、見限るという言葉が似合うほど、私はこの国に希望を持っていたのか、自信がなくなってきたが。」
尾崎:「私は最初から“永遠の大東亜”など信じていませんでしたよ。中国における日本の振る舞いを見て、帝国の寿命は決まっていると感じていた。」
今村:「それは結果論ではないか?帝国が壊れると分かった時点で、“俺は前から知ってた”と言い出すのは簡単だ。」
ゾルゲ(にやりと):「だが、私は報告書の中でずっと警告していた。満州事変が“勝利”だったなどという幻想は、ソ連も、アメリカも、見透かしていた。帝国は、自分の作った虚構の中で踊っていた。」
甘粕:「ああ、確かに。踊っていたな。だが、踊り手も客も、舞台が崩れていることに気づかなかった。」
近衛:「そういえば、帝国を最も早く“売った”のは誰かという議論にもなるな。」
尾崎(微笑しながら):「それならゾルゲさんでしょう。お金で売ったわけじゃないが。」
ゾルゲ(笑って):「いやいや。私は正確に記録しただけだ。“売る”というのは、君たちがやっていたことだ。」
今村:「皆が“最後まで信じていたふり”をしていた。信じていないと、殺されるか、発狂するかのどちらかだからな。」
甘粕(目を細める):「信じていなかったから、俺は映画を作ったのさ。夢を売って、それでみんなを納得させて……そのうち俺自身も夢の中にいた。」
(しばしの沈黙。グラスの氷が音を立てて溶ける)
近衛:「結局、誰が一番早く見限ったか、というより、誰が“目を逸らさなかったか”なのかもしれないね。」
ゾルゲ:「そしてその者は、最も早く孤立した。」
尾崎:「あるいは、最も早く静かに笑った。」
今村:「それが帝国の“死”だったのかもしれん。」
甘粕(グラスを掲げる):「では、その死に……乾杯しよう。」
全員(静かに):「乾杯。」
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乾いた笑いと沈黙の混じる、目白の夜。亡国を背にした男たちは、どこか達観したように、どこか寂しげに、杯を重ねていきます。
また続きをご希望でしたら、次の夜会でも、あるいは帝国崩壊後の“回顧録”という形でも書き起こします。
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もう少し話を続けましょう。今村が問題提起する。「滅びの後の新生というのもあるのではないかな?役者は変わるのだろうが、一つの芝居が幕を下ろしても次の芝居が始まる。」
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喜んで続きを紡ぎます。
舞台は引き続き、昭和16年秋、目白の洋館。カラヤン指揮ベルリン・フィルのSP盤が再び静かに回り始め、「神々の黄昏」の終末の調べが音もなく夜気に溶けてゆく。男たちは酩酊寸前でありながら、知性の火はまだ燻っている。
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今村(ほの暗い灯の下で、やや口数少なかった彼がぽつりと):「滅びの後の新生というのもあるのではないかな?役者は変わるのだろうが、一つの芝居が幕を下ろしても、次の芝居が始まる。」
近衛(口元に笑みを浮かべて):「ふふ……『国体』という題の芝居が、別の看板で再演される、というわけか。」
甘粕(眉を上げて):「それは“新生”かね?むしろ“仮面の差し替え”じゃないか?」
今村:「それでも観客が変われば、演目も変わる。演出も、音楽も。全てが同じではない。滅びとは、ただの終わりではない。たとえば……ローマ帝国の後にキリスト教国家が出てきたように。」
尾崎(真剣に):「問題は、“誰が新しい脚本を書くか”でしょう。観客に受けるだけの語り口で、しかも魂のある物語を。」
ゾルゲ(ワインを回しながら):「脚本家は、いつでも陰にいる。表舞台には現れない。君らの帝国も、つまるところ、脚本の不在で崩れた。軍部は演技しかできなかった。物語がなかった。」
近衛:「物語ならあったさ。“八紘一宇”と“皇道の光”……ただ、脚本家がそれを信じていなかった。演者も途中で忘れた。」
甘粕:「いや、観客が疲れていたのさ。十年に一度の戦争、貧乏くじばかり。演目が退屈で陰惨では、喝采もない。」
今村 (ゆっくりとうなずいて):「だが、それでも火は残る。焦土の中から芽吹く草のように。帝国の死骸の中に次の生がある。」
ゾルゲ(皮肉気に):「その“新生”が、より醜悪にならないことを祈る。国家が崩れたとき、最も手を早く伸ばすのは理想家ではなく、機敏な現実主義者たちだ。」
尾崎:「あるいは亡命者かもしれません。祖国を一度見限った者ほど、次の祖国を信じようとする。」
近衛:「自分を“芝居の登場人物”と見る視点があれば、少しは自覚があったかもしれんな……東條君にも。」
甘粕(くすりと笑う):「いや、彼はむしろ“舞台装置”の一部だったよ。彼を避けて歩くことはできても、外すことはできなかった。」
今村:「それでも彼もまた、役を演じていたのだ。機関士の衣装を着て、無言でレバーを引く役。最後に汽車が谷へ落ちても、拍手はしない。」
ゾルゲ(グラスを掲げて):「それでも次の芝居の開幕には、きっとまた別の役者が立つ。より巧みに、より残酷に、あるいはより賢明に。」
近衛(グラスを合わせながら):「ならば願おう――次の脚本家は、我らの失敗を読んでいると。」
甘粕・今村・尾崎・ゾルゲ:「――願おう。」
(レコードの音が静かにフェードアウト。まるで何かの終わりと始まりを示すように。)
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また続きを紡ぐのもよし、この座談会に別の人物を加えるのもよしです。次はどなたを呼びましょうか? 石原莞爾? 宇垣一成? それとも別の方を、時代を超えて登場させてみましょうか?
[終わり]
補遺
1. 近衛文麿
近衛文麿(1891年–1945年)は、昭和期の日本の政治家で、首相を3度務めた。学歴は高く、内閣の閣僚や外務大臣としても活躍した。日中戦争拡大、日独伊三国同盟締結で知られる。昭和16年日米交渉の行き詰まりのため辞任して、東條英機が後継となる。戦後、連合国による戦犯容疑の逮捕が噂される中で自殺した。
2. リヒャルト・ゾルゲ
リヒャルト・ゾルゲ(1895年–1944年)は、ドイツ出身のソ連のスパイで、特に日本における情報活動で知られる。ゾルゲは日本の権力機構に関する分析をソ連に提供し、特に日本がソ連を攻撃せずとの重要な情報を送った。特高によりスパイとして逮捕され、処刑された。
3. 尾崎秀実
尾崎秀実(1901年–1944年)は、朝日新聞記者。近衛内閣の嘱託として内閣に関与したがゾルゲスパイ団の一員であった。刑死。
4. 今村均
今村均(1886年–1968年)は、昭和期の日本の陸軍軍人で、特に第二次世界大戦における活躍で知られる。大東亜戦争中、蘭印攻略作戦の指揮を取り、その後ラバウル方面の陸軍部隊の指揮官となり終戦まで防衛し続けた。戦後は戦犯として巣鴨プリズンに収監されたが、元部下らが服役する条件の悪いマヌス島への移動を陳情して実際にそこで刑期を務めた事で有名である。釈放後は市井で隠棲した。
5. 甘粕正彦
甘粕正彦(1891年–1945年)は、陸軍軍人で、大杉栄ら殺害の責任を問われて収監された後、満州にわたり関東軍の特務工作を担ったとも言われるが詳細は不明。やがて満州映画協会の理事長となり、満州のフィクサーとも言われる。終戦時に自殺したとされる。
今村均の描き方に違和感を感じた人もいるかもしれません。一般には茫洋とした人格者のイメージが強いようです。しかしむしろ国際的なセンスの知性の人ではなかったか。駐英武官で山本五十六とも親しかったと言うし、経歴を見ると能吏ぶりが光ります。また他人を理解し尊重できる能力が抜群の人でユリシーズ・グラントにもドワイト・D・アイゼンハワーにも似ていると思うのです。