雨、止みて後
その病院の玄関を潜ったのは、もう夜の8時を回ろうとする時刻だった。
開いていた傘を閉じ、軽く振るってから畳むと傍に備え付けてある傘入れに放り込む。寒さの所為か手元が狂い、二度ほど枠の外側を滑ってしまったが、三度目にしてようやく先端が四角い囲いの内側を通り、収まるべきところに収まった。
「すみません、面会を希望したいのですが」
乱れたコートの前面を整えつつ、受付に進んで手続きを申請する。まだ年若い女性の事務員が、愛想の良い営業スマイルを浮かべて応対してくれた。
「ご家族の方ですか?」
「ええ、まあ、そうです」
「身分証のご提示をお願いしても宜しいですか?」
「どうぞ、マイナンバーカードです」
「ありがとうございます。それでは、こちらの用紙にご記入をお願いします」
差し出された受付用紙に必要事項を書き込んでゆく。手が小刻みに震えて中々上手く書けない。多少歪んでしまった字を見ても、事務員は嫌な顔ひとつ見せずに「少々お待ち下さい」とだけ告げて、テキパキと処理を進める。私はその作業からなんとなく目を逸らしつつ、今しがた自分が通った玄関の外へ視線を動かす。
昼間から降り出した雨は、未だ勢いを弱めず今も続いている。この季節の雨は、ただでさえ寒い気温を更に下げてしまう。私の手の震えも、きっとその所為で引き起こされているに違いない。
「お待たせ致しました」
ぼんやりと益体もないことを考えている内に手続きが終わったようだ。私は振り返り、再び事務員と目を合わせる。
「面会時間は、21時までです」
歯切れの良い言葉と共に差し出された面会カードとマイナンバーカードを受け取って、私はお礼の言葉もおざなりにそそくさと受付を離れた。
薄暗い病棟の中を真っ直ぐ進み、階段を上って面会カードに記された病室を目指す。エレベーターで行こうかと思ったが、足は自然とこちらに向かっていた。一歩一歩階段を踏みしめる度に動悸がして、息が上がってゆく。運動不足だろうか? それとも、空調の効いた病院内の室温に当てられて、外との温度差に身体が参っているのだろうか?
どちらもありそうだが、恐らく違う。私の手は、まだ震え続けていた。コートの内側に手を差し込み、そこにある感触に触れて、どうにか鎮めようとする。
目的の階層に着いた時には、既に息も絶え絶えになっていた。それでも私は歯を食いしばり、きつく目線を上げて足を前に踏み出す。
目的の病室まで辿り着いた時には、不思議と動悸も息切れも手の震えも収まっていた。私は一度大きく深呼吸し、ドアをスライドさせて中へ足を踏み入れた。
そこにあったのは、6床のベッド。横たわる患者は2人。いずれもカーテンは引かれていないが、室内の電気は落とされている。両方とも眠っているのだろうか、穏やかな寝息が聴こえるばかりで入ってきた私を誰何する声は無い。
私はその内のひとりにそっと足音を忍ばせて近付いた。闇の中に浮かび上がったのは、痩せて枯れ枝のようになった腕とシワとシミに覆われた男の顔。
「父さん、来たよ」
呼び掛ける声に、答えはやはり無かった。
窓の外では、大粒の雨が今も降り続いている。ざあざあという音を奏でて、無数の雫が窓ガラスを流れていく。
「父さん、寝てるのか? いや、起きててもどうせ分からないんだろうけどさ」
すっかり小さく、弱々しくなってしまった父の姿に、私は無意味な言葉を投げつける。
遣る瀬無さで、胸が張り裂けそうだった。
物心ついた時から、私は父と2人きりだった。母は知らない。父は男でひとつで私を育て上げ、大人になるまで面倒を見てくれた。高校だけでなく、大学にまで行かせてくれたことにも感謝している。父が居なければ、今の私は無い。
その一方で、幼少の頃から受けた理不尽な仕打ちも両手の指では足りないほどに存在する。
些細な切っ掛けで癇癪を起こし、酒に溺れては横暴に振る舞い、もう居ない母を罵倒し、私にも心無い暴言を吐き、時には故なく暴力を振るわれたりもした。感情が昂りすぎて取り乱し、泣きわめきながら自殺を図ったことさえある。
「お前の母親は最低の女だ、あんな奴は人間じゃねえ」
「お前なんか産まれなきゃ良かった、お前の所為で俺は自由に生きられねえんだ」
「お前、なんだその目は? 俺なんか死ねば良いと思ってんだろ。ああ、じゃあ死んでやるよ。死にゃあ良いんだろ、俺がよ」
このようなことを口走りながら、父は度々理解に苦しむ行動を起こしていたのだ。その一方で、感情に振り回されていない時の父は、非常に厳格だが真面目な常識家として生きてきた。職場等での評判も、決して悪いものでは無かったらしい。
だが子供だった私は、そんな父が持つ極端な二面性にほとほと苦しめられた。常に父の顔色を伺い、機嫌を損ねないよう注意を払う日々に疲れ切ってしまっていた。
高校を卒業し、遠くの大学に合格した時は、進学できる喜びよりも父と離れられる解放感の方が遥かに強かったくらいだ。
それから私はひとり暮らしを始め、以来父とは距離を置きつつ過ごしてきた。
父が倒れたと知らされたのは、一年前のことだった。
驚き、取るものも取り敢えず父が運び込まれた病院に駆けつけた時、私の顔を見た父は不思議そうにこう言い放ったのだ。
「お前さんは、誰だったかな?」
その言葉を聴いた時、私の中で何か大切な糸のようなものが、ぷっつりと切れてしまった気がした。父は、私が分からなくなってしまっていたのだ。
こうして一年、父の病室に通い続けているが、父が私を思い出したことは無い。いつも初めて見るような目で私を見つめ、決まって同じセリフを吐く。
「お前さんは、誰だったかな?」
あなたの息子だ、と何度も伝えた。その度に父は、「ほうほう、そうか」と興味なさげに頷いて黙ってしまう。気まずい沈黙に耐えかねてこちらから口を開くと、今初めて私が居ると気付いたような目で再び言うのだ。
「お前さんは、誰だったかな?」
何も覚えていないのか? 私を殴ったことも、私や母の人格を否定し続けたことも、しつけと称して私を夜通し家の外に追い出したことも、その他の理不尽な仕打ちも、何もかも全部。
それをはっきりと認識した時、私の中にあるひとつの決意が生まれた。
そして今夜、それは果たされるだろう。
私は敢えて、眠り続ける父の顔を凝視し続ける。
醜い顔だった。憎い顔だった。だがそれは、紛れもなく私の父に違いなかった。
窓の外で、ざあざあという音が太く、大きくなる。風雨が更に激しさを増したようだ。ふとそちらを見てみると、病室の頑丈な窓ガラスを大粒の飛沫がバシバシと叩いている。打ち付けられて下に垂れてゆく雫が、赤い色に染まっているような錯覚を、一瞬だけだが、確かに感じた。
私はゆっくりと父に顔を戻し、生ける屍のように横たわる姿を目に焼き付ける。
視線を固定したまま、そろそろと手をコートの内側に持っていく。そこにある硬い感触を二、三度指で確かめてから、しっかりと握り込む。
先程階段を上がった時のように手は震えだし、呼吸も大きくなる。激しい動悸も当然のように伴って。
頭の中で何度も繰り返した行程を、今一度シミュレートする。
――大丈夫だ。さあ、やるんだ。
「お見舞いの方ですかな?」
突如、背後から投げかけられた言葉が、燃焼しかけた私のメンタルに水を浴びせた。
ぎこちない動きで声がした方を振り返ると、病室に居たもう片方の住人が、いつのまにかむっくりと起き出して私達を見つめていた。
「もしや、そちらの方の息子さん?」
「え、ええ、まあ」
内心で舌打ちしながらも、私はその患者に向き直る。暗くてはっきりとは分からないが、こちらも結構な高齢のようだ。
高齢の老患者は、顎に手を当てながら何やらうんうんと頷き、薄闇の中で私の顔をじっと凝視している。
「そうかあ、あんたさんがね。色々話は聴いとるよ。そこの彼、病気で頭の方がやられちまっとる上に普段から寡黙なんで最初は辟易したが、頑張って打ち解けてみるとこれが中々話せる人でねえ」
「はあ……」
私は曖昧に相槌を返した。どうもこの患者、やけに人懐っこい人のようだ。老人の陽キャだろうか。
「そんで、お互いに私生活のことも話すようになったんだが、彼と言えば一にも二にも息子さんのことばっかりでねえ」
「そうでしたか。父の話し相手になって下さって、ありがとうございます」
どうせ内容は悪口だろう。そう思って深く訊かないようにしたのだが、その老患者は勝手に続けた。
「息子は俺の自慢だ、ひとり親で苦労を掛けて申し訳ない。……そんな風にいつも言っとったな」
思わず、息をするのも忘れた。呆然と見つめる先で、老患者は感慨深そうに言葉を紡ぐ。
「自分は生来の癇癪持ちだ。その所為で感情をコントロール出来ずに息子に辛く当たってしまった。母親が居ないというだけでも、あの子にとってはきつい環境だった筈だ。自分はそんな息子を気にかけるどころか、度々ストレスのはけ口にしてきた。息子が自分を見捨てたのも当然だ。最近、あの子の顔が思い出せない。どんな声をしていたかも、分からない。それどころか、名前まで。けど、確かに居るんだ。自分には、大切な息子が。今頃、何処で何をしているんだろうか。お腹をすかせて、泣いていたりしていないだろうか。……とまあ、毎回こんな感じに懺悔しとったな。あまりに何回も聴かされたんで、すっかり覚えてしもうた」
私は父の顔を見た。病気で頭をやられ、記憶を壊されてしまった父。
父にとって、今の私は息子では無い。成長して、大人になった私は父を避けていた。父の思い出にあるのは、子供だった頃の私の姿。それももう、朧気になってしまっている。
それでも、息子に対する想いだけは、今もはっきり残っているというのか。
不意に、父と過ごした昔の記憶が蘇ってきた。
まだ未明の中、父の運転する車に乗って一緒に海へ魚釣りに出かけた記憶だ。
夜明け前の空気がもたらす冷たさに震え、上手く針に釣り餌を付けられないでいる私を、父は笑って手伝ってくれた。自分の釣り竿を使って手本を示した後、私の手を取って、優しく作業の仕方を手ほどきしてくれたのだ。
東の空が橙色の朝焼けに染まる中、父と肩を並べて釣り糸を垂らした。何時間も、ずっと。
初めて釣った魚は、小さいながらも活きの良いアジだった。その時の父は、普段の憑き物が落ちたかのような晴れやかな笑顔で、私を褒めてくれたのだ。
「おや、もうお帰りになるのかね?」
「はい、そろそろ面会時間も終わりますから」
私は老患者に会釈をし、振り返らずに病室を後にした。
臆病風に吹かれたわけでは無い。薄闇の中だったが老患者には顔を見られただろうし、そもそも受付で身分を明かしている。父に心を囚われて、これからの人生を棒に振るのは馬鹿らしい、と冷静な思考力が戻ってきたに過ぎない。
だというのに、足取りは自分でもびっくりするほど軽かった。
また、近い内に訪れるだろう。その時は、ちゃんとした差し入れでも添えて。
父が、私を思い出す日が、絶対に巡ってこないとは限らないのだから。
病院の玄関を潜り、傘立てから傘を取る。
あれほど強かった雨は、いつの間にかぴったりと止み、風も既に収まっている。
見上げた空には、黒々とした陰鬱な雲だけが、夜の闇に溶け込むようにして残っていた。