異世界好きな少年はスマートフォンの夢を見る
「異世界って本当にあると思う?」
どこかで何度も聞いた事がある陳腐に成り果てた質問を、この十代の少年もご多分に漏れず俺に投げかけて来た。
「そんなものは物語の中だけの世界だ。実際にあってたまるものか。」
こうもつっけんどんに答えるのは、何も子供じみた話をまともに取り合うのが面倒くさいからではない。
この少年がこういう物言いを受け流して楽しめるだけの親しみを、俺に感じてくれているからに他ならない。
「もし、異世界があったなら、どんな世界だと思う?」
少年は放牧地を囲む柵に寄りかかって、西に傾いた淡い琥珀色の陽を全身に浴びている。
汗で湿った癖のある黒髪が、額に垂れて少し張り付いている。
そのあどけなさの残る整った顔立ちはさながら、神の園の穢れのない牧童を思わせる。
「考える気にもならん。お前もいつまでも夢みたいなことばかり言ってないで、もういい加減大人になれ。」
俺も腕を組んで柵に寄りかかり、遙かに広がる放牧地の、西陽に照らされて緑がいっそう濃く映える下草を眺めている。
一日の仕事を終えた、少し気が抜けたような穏やかなひと時。
せっかく、今日は少年もたまの学校の休みに、汗だくで、砂ぼこりにまみれながら、新参者のじゃじゃ馬の扱いに奮闘してくれたのだ。
からかって邪険にするのはこのくらいにして、彼の好きな空想にまつわるおしゃべりに、しばし付き合ってやるとするか。
「お前が考えている異世界とは、どんな所なんだ。」
少年は、うっすら微笑みながら、
「僕らと同じ姿をした人間がいて、似たような事を考えて、やっぱりこんな風に、めいめいの仕事を持って働いているんだけど……」
と言いかけたが、俺がすかさず、「お前の異世界は、ずいぶん夢のない場所なんだな。」と茶々を入れると、困ったように笑いながら、ちらっと俺の顔を見て、
「その世界には、魔法を使える人がいないんだ。」
と付け加えた。
「魔法も使えないんじゃあ、ますますつまらん世界だな。他には何がないんだ?」
「ドラゴンとか、グリフォンとか、ユニコーンもいない。」
「それから?」
「魔法学校もない。魔法が使えないから、当然だけど。それから、精霊もドワーフ族もいない。」
「ずいぶん寂しい世界じゃないか。まさか、人間しかいないんじゃなかろうな。」
「そんな事はないよ。犬や猫、牛や馬、野山には色んな獣だっているし。」
「それにしたって平凡じゃないか。少しは面白そうな事はないのか。」
「その世界の人間は、物を作るのが得意なんだ。」
「例えば?」
「彼らは、空を飛べるんだけど、魔法もドラゴンも使わずに、乗り物に乗って飛ぶんだ。」
俺はその謎かけのような説明に、にわかに興味が湧いて来た。
「魔法もドラゴンも使わずにどうやったら乗り物を空に浮かべられるんだ?」
金色に燃え始めた空を見上げると、薄桃色に染まった大小の綿雲が、西陽の光線を神々しく放射状に浮かび上がらせている。その綿雲の間を、小さな二つの飛影が、追いかけ合っているらしく、ゆるやかに飛び廻りながら複雑な弧を描いているのがかろうじて判る。
少年は俺が理解しやすいようにと、言葉を選び選び話を続ける。
「燃料を燃して、その力を歯車に伝えて、翼を動かしたり、羽を回して推進力を得たりするんだよ。」
俺はその機械を、大きな鳥のような形として想像してみた。そして、俺を乗せたその鳥は、太陽のそばまで昇りつめたところで、両翼が突然燃え始めて外れてしまい、放り出された俺は、身体を浮遊させる魔法も使えないまま、まっさかさまに地上に墜落してしまう。
「ずいぶん回りくどいやり方だな。それに、そんなんじゃ、飛んでいる間じゅう、乗り物が火事を起こす心配をしなくちゃいけないだろう。俺はそんなやっかいな代物は御免だぜ。」
少年は乗り物の欠陥を指摘されても、ひるんだりせず、かえって予期していたらしい落ち着いた調子で答えた。
「大丈夫だよ。効率よく力を取り出せるように、火は分厚い金属で厳重に包まれているんだから。」
「火は金属で包まれれば消えちまうよ。火が燃えるためには、空気がいるんだからな。」
異世界物の書物で仕入れた知識なのだろうが、所詮は子供向けの安直な内容だ。ちょっと突き詰めて考えただけで、とたんに綻びが露わになる。
「もちろん、空気の取り込み口もあるよ。その機械は、本当に巧みに、安全に作られているんだ。」
上手くやり込められた形になった俺は、平気を装って、
「まあずいぶん都合の良い事で。」と、皮肉を言ってみたが、これは少々大人げない響きになってしまったようだ。
いつも見かける白黒の小鳥が、気が付くと俺たちのそばに舞い降りていて、そこらを歩き回りながら、草の種か何かをのん気についばみ始めた。
少年はじっとその小鳥を見つめながら、構わずに話を続けた。
「それから、燃料よりももっと大事なのは、電気なんだ。」
「でんき?何だそれは。」
「ヤラガーの背中をなでると、時々ビリッと来ることがあるだろう?あれが電気だよ。」
「ああ、カシリの事か。しかし、あんなもので何ができるんだ?」
「何でもさ。火の代わりにも、氷の代わりにも、風の代わりにもなる。僕らが使っている魔法と似た力なんだ。でも、彼らはそれを自分の力で生み出したり操ったりすることができない。だから、電気を工場で生み出して、それを各家庭に分配して、それで色んな機械を動かす事で、僕らが魔法を使って生活しているのと同じような便利さを手に入れているんだ。」
カシリの力を機械で変換して火や氷や風を生じさせる、という事か。
しかし、雷を頻繁に手に入れる手段でもない限り、多くの家庭に魔法と同等の力を配分し続ける事などできそうもない。
「そんな他力本願な文明は、大して発達しないし、何かの異変で電気が無くなればすぐに滅びてしまうだろうよ。」
少年は、少し顔をこちらに傾けて、しかし俺の顔は見ずに、
「ところがね、その世界は、僕らの世界よりも発達して栄えているんだよ。何しろ、物を作るのが得意だから、天に届くくらい大きな建物や、燃料や電気をいっぱいに積めば何百ギロルも休みなく走れる乗り物や、何千ギロルも離れた場所の景色を映したり、そこにいる人と話したりできる、持ち運び可能な小さな機械など、僕らの世界にはない立派で便利な物がたくさんあるんだ。確かに、電気がないと、すごく困る事にはなるだろうけどね。」と、俺の顔を立てるように、控えめな態度で説明してくれた。
彼の言う燃料や電気とは、どうやら機械の中に貯めることができて、好きな時に機械を動かす力にできる代物らしい。
この世界には、魔法の力を人から分離して蓄積する手法に成功した魔法使いは、まだいない。
その点では、少年の言う異世界の文明の方が、利便性の面ではるかに優れていると言えるのかもしれない。
俺は少年の思考力への侮りを、改めなければいけないと思い、
「じゃあ、そんな発達した世界にお前が行っても、活躍するどころか、かえって未開人扱いされて肩身の狭い思いをするだけじゃないか。」と言ってみた。
少年は、空想にきちんと向き合ってくれたことが嬉しかったようで、
「そんな事はないよ。だって、彼らは空飛ぶドラゴンを持っていないし、何より、誰一人魔法が使えないんだからね。」と言って、初めて自信たっぷりに微笑んだ。
しかし、俺はそこで、彼の言い分の問題点に気が付いたので、ようやく形勢逆転だとばかりに、説教たらしく突っ込んでやった。
「そういう事はな、いっぱしのドラゴン乗りになって、初級の魔法を完璧に使いこなせるようになってから言うもんだ。」
少年は、肩をすくめて、
「まあね。」と、あっさり自分の未熟さを認めた。少し残念そうなところは、異世界に行くという空想が、本当に実現したらいいのにという気持ちを、どこかに持っているからなのだろう。
ちょうどその時、俺たちの頭上を、大きな灰色の影が、せわしい羽音と突風を起しながら通り過ぎた。
放竜していたドラゴンが、自由飛行から帰って来たのだ。頭上近くを飛んで驚かせたのは、数日前に本格的な乗竜の調教を始めたばかりの新参者で、いたずら盛りなツノナシシロドラゴンの、ウルパだ。
続いてもう一頭、ウルパの後を追うように、赤と茶のまだらなドラゴンが、俺たちの背後から斜めに牧草地に舞い降りて来た。大人しく利口で面倒見のいい、乗竜歴十八年目の、アカマダラツリードラゴンのワーリャだ。
「見ろ、遊び足りなくて帰るのを渋っていたウルパを、ワーリャがせっついて連れ戻してくれたぞ。」
少年は俺の言葉を背に受けながら、着地したウルパの方へ勢いよく駆け寄って行った。
ウルパも「オルルルルルルゥ!」と機嫌良く鳴きながら、少年の方に歩み寄ると、少年の胸に下げた頭を親しげに押し付けた。
ドラゴンの調教は相性が最も重要だ。
普段から愛嬌のあるウルパだが、初対面の人間にこれほど打ち解けるのは、何か特別な親近感を感じているからなのだろう。
ウルパの最初の乗り手は、やはり少年に任せるのが適任なようだ。
手綱をつけられて、少年に引かれて来たウルパは、まだ息が荒かったが、青い両の瞳はきらきらした満足げな色を湛えていた。
俺は歩み寄ってきたワーリャに手綱を持って近付きながら、柵を出て竜舎に戻る少年を振り返って声をかけた。
「ウルパは手前の竜房につないでサナへを食べさせてくれ。この前みたいに、柵の横木を戻すのも忘れるなよ。」
「はぁい。」
少年の幼さが抜けない返事に苦笑しながら、俺は再び大きな声で呼びかけた。
「テリウス。」
「何?」
振り向いた少年、テリウスは、同じく立ち止まって振り向いたウルパと一緒に、俺の次の言葉を待った。
「お前、転生者じゃないのか?」
少し間があって、テリウスは満面に笑みを浮かべると、
「ホロドスさんだって夢みたいな事考えてるじゃない!」
と、後ろ向きに歩き出しながら叫んだ。
ウルパも、そう思うと言うように、「フウゥ!」と少しだけ大げさに息をついた。
了