第36話 catastrophe
「隠匿」の能力を使い、ヴィクトルはミシェルと共に行動していた。ヴィクトルの「隠匿」に加え、ミシェルの「狂乱」により感覚を乱されたからか、ヴィクトル達が「そこ」にいても人々は彼らを一切気にかけない。
とはいえ、その状態は気を抜けばすぐに解けてしまう。
「匂い」を意識して調整するのは、元よりコツがいる。他者のものと組み合わせ、なおかつ安定的に「望んだ結果」をもたらすとなれば、それなりに繊細な気配りが必要だ。
慎重に、慎重に。息を潜めながら、ヴィクトル達は廊下を進んでいく。この建物全体に「術」を仕掛ければ、伝七がすべてを観測する手筈になっていた。
行われている「事実」を記録し、公にすれば、それだけで痛手を与えられる。
信仰は他者の熱狂により支えられ大きな力となるが、醒めてしまえばそこで水泡に帰す代物だ。そこを突けば、少数でも十分太刀打ちできる。
大上家とヴァンパイアが手を組み、なおかつ暁十字の会内部に造反者が出たからこそ……そして、暁十字の会が「化け物」を抱えるからこそ可能となった作戦。
数多の要因が重なったからこそ得ることができた、絶好の機会。
ヴィクトルの足が震える。元より、ヴィクトルは争いが得意な性質ではない。その臆病さゆえに、同族からも失望や侮蔑の目を向けられてきた。
──良いんじゃねぇの。そういうのも「要る」んだろ
いつかの言葉が脳裏に蘇る。時にヴァンパイアを倒すほど強かった人間の言葉だ。ヴィクトルでは太刀打ちできないほどの力を持ちながら、男……光川龍吾は迷いを零した。
──俺もなァ、ガキどもを見て……ちっとばかし、思うことがある。……争いばっかの世界に放っぽりだす親父ってのは、ロクデナシに違ぇねぇ
続いて、友人の言葉が蘇る。ヴァンパイア界隈では能力の低さから不遇だった青年。不遇の立場でありながら、ロベールやシャルロットに寄り添い、陽岬に住む人間たちにも共感を示した……あまりにも心優しすぎた友人。
──そのままでいりゃいいさ。俺は、ヴィクトルみたいな考えのが好きだぜ?
クロードがそう言ったから、ヴィクトルは辛うじて責務を投げ出さずにいられた。
あまりに重く、あまりに厳しい立場を、どうにか背負っていられた。……そのクロードが死に至ったのは、アランが長の座に戻るためだ。
……ヴィクトルが、長の器であったなら。
狂気に堕ちたアランに頼らずとも、采配を振るえる器であったなら。
ヴィクトルは、かけがえのない友人を死なせずに済んだのだ。
「ヴィクトル」
ミシェルに呼びかけられ、ヴィクトルはハッと我に返る。
「終わったようです。無事、終わったようですよ。ええ。帰りましょう、帰りますよ。帰れるのです。準備はできていて?」
意識の外に追いやっていた喧騒が、一気に意識の内側へと滑り込む。
教祖の孫が殺人鬼だっただの、地下で非道な実験が行われていただの……暴こうとしていた情報が、噂話として実際に飛び交っている。
成功したのだと気付いた瞬間、膝が笑い、ヴィクトルはその場に崩れ落ちそうになった。
その時。
異質な血の香りに気付いたのは、彼が曲がりなりにも「吸血鬼」だったからだろうか。
「……?」
妙な胸騒ぎが、ヴィクトルの決断を迫る。
血臭の方へ向かうべきか、目を逸らすべきか。
直感は「向かうべきだ」と告げ、臆病な心は「逃げ出せ」と告げる。
「……僕は……」
震える足を奮い立たせ、ヴィクトルは先へ進んだ。
ミシェルはその様子を見、静かに問う。
「采配を」
たった一言、彼女は問うた。
「アランは、既に『死んだ』ものと同じ。あれは亡霊です。ねぇ、亡霊に縋り続けるの? いいえ、その先に未来はありません。だって亡霊は、だって死者は、土に還るべきだもの。貴方、あれを『美しい』と思える? 本当に、『美しい』と言える?」
執着のみで生にしがみついたアランを、ミシェルは「亡霊」と語る。
「それでも、あれはアランです。亡霊だとしても、アランです。ええ、アランはずっと『そう』だったもの。あれは自分のために生き、自分だけを愛する男。それでも、それで良かった。彼が『美しかった』頃は、それでも良かった。……お分かり?」
ミシェルの「狂乱」は、彼女がどれほど的確な指摘をしようが、狂った戯言に変えてしまう。
それでも、ヴィクトルは彼女の言葉を聞こうと努力してきた。彼女が何を伝えようとしているのか、懸命に読み解こうとしてきた。アンヌやクロードなら根を上げるような「対話」を、ヴィクトルは何度も繰り返してきた。
アランの「親愛」と違い、ヴィクトルの「隠匿」は対話の役になど立たないが、それでも、ヴィクトルは諦めなかった。
そこにあったのは、純粋な好意。
孤立への同情とも呼べるかもしれないが……裏も表もない、慈しみの感情だったことは間違いない。
「僕は……アランのやり方を正しいとは思えない」
利害の一致した大上家と手を組みはしたものの、その「先」はどうだろうか。
アランのやり方は、争いを是とするもの。生き残るために、仲間すら切り捨て、勝利の先に希望を繋ごうとするもの。
……だが、「暁十字の会」に勝利したところで、アランのやり方のままでは新たな争いが生まれることは目に見えている。
「大上家」とは、偶然利害が一致しただけだ。……今後も、味方でいられる保証はない。
第一、アランと手を組み、穏健派のクロードを始末する方向に動いた時点で、不穏な思惑を勘繰らざるを得ない。
「僕は行ってくる。ミシェル伯母さんは……先に、帰っていて」
「わかりました。……覚えていて。私は、貴方の味方。私はアラン・ルージュに限界を見、ヴィクトル・エカルラートに可能性を見たのです。……賭けますよ。信じますよ。貴方が歩む先にこそ、未来があるの」
その声に押されるまま、ヴィクトルは先へと向かう。
芳醇な香りが、ぞくりと本能を撫でる。
血だ。……「特殊」な……ヴィクトルの食欲をくすぐるほどの、血の香り……。
やがて、廊下の先に、その「影」が姿を現す。
「……ん?」
血まみれの男は胸を押さえたまま、くるりと振り返った。
「…………ああ! お前、あれか! ……えーと、だな」
「隠匿」が記憶に作用しているのか、男はなかなかヴィクトルの名を導き出せない。
「……僕は、ヴィクトル・エカルラート」
「そう! ヴィクトルだ! そんな名前だったな!」
「そういうあなたは……次郎左近さん、だね」
脚が震える。
目の前にいるのは、正真正銘の「人ならざる者」だ。彼らに比べれば、ヴィクトルなど「人間と扱われないだけの人間」でしかない。
「話があるんだ」
「話? いったい、どういう話だ?」
首を傾げる次郎に向かい、ヴィクトルは大きく深呼吸をする。
前髪に隠された瞳が、赤く煌めいた。
「これからも、共に生き残ろう」
「……それは……同盟の継続の申し入れ、か?」
「その通りだ。本当はお兄さんに言うべきなのかもしれないけど……」
「いや、別に俺でいい」
次郎は平然としているが、だからこそ真意が読み取れない。
ヴィクトルの脚の震えが、次第に大きくなっていく。
「意外だな」
「え?」
「お前達の方針だと……我らが大上の弱体化は、格好の機会であったはず」
後半の声は、「次郎」のものとは思えなかった。
「誰か」の思念が次郎の肉体を依代として、言葉を紡いだようにすら思えた。
金色の瞳が、煌々と光る。
……ああ、試されている。
そう悟ったヴィクトルは固唾を飲み込み、拳を強く握り締めた。
「アランは……もう、眠らせてやる。そして、僕の方針は『ルージュ』とは違う」
「眠らせる……? 殺す、ということか」
「…………。あいつは……もう、死んでたよ、とっくに……。アランは、自分勝手な奴ではあったけど……少なくとも、仲間想いだったはずなんだ」
セザールが死んだ時か。アンヌが心を壊した時か。
それとも……死の淵に立たされた時か。
彼がいつ変わってしまったのか、ヴィクトルにはわからない。
ただ、それでも理解できたことはある。
ミシェルが語ったように、今のアランは「亡霊」だ。……肉体ではなく、魂が、既に「限界」を迎えている。
「そうか」
大神の意思は、次郎の喉を伝い、「神託」を下す。
「ならば、ヴィクトル・エカルラート。その手で殺せ。アラン・ルージュを打ち倒し、自らが『長』であると示すが良い」
「……わかった」
ヴィクトルは、震える声で返答する。
もう、決めていたことだ。アラン自身がかつて、口にしていたことだ。
──正気を失ってたオレを殺しときゃあ、クロードは身代わりにならずに済んだ
──なんで狂ったオレを野放しにした?
「元より……僕が、やらなきゃいけなかったことだ」
いつか、クロードが「俺が殺る」と提案してきたこともあった。アランを慕っていたクロードでさえ覚悟を決めていたのに、ヴィクトルは「仲間が仲間を殺す」ことを躊躇った。「まだ、どうにかなるかもしれない」……そんなふうに決断を先送りにし続けた結果が、クロードの死だ。
「その言葉、忘れるな。我は陽岬の神。この眼からは、決して逃れられぬ」
金の瞳が静かに閉じられる。
かくして、神託は新たな犠牲を指し示し、ここに盟約が交わされた。





