第35話 folie
運命の日は訪れた。
ヴィクトルの「隠匿」を持ってしても、暁十時の会内部で息を潜めるのには限界がある。
事を運ぶには、相応の血が流れることとなるだろう。
決戦の時は訪れた。
驚くほどに静かな空気が、アランの周囲に満ちていた。
アンヌの気配を手繰り、手探りで階段を下っていく。
何も恐れることはない。武器が脅威だったとして、それを行使するのは自分たちより膂力の劣った人間だ。……それも、まだ成人にすら至っていない青年だ。
そう、理解しているはずなのに、アランの足は自然と震えていた。
重く閉ざされた扉の先に、妹がいる。
早く救い出さなければ。……そして、敵を始末しなければ。
逸る感情を抑えつけ、アランは大きく息を吸い込んだ。
アランの能力は、「親愛」。どれほど堅牢に閉ざされた扉も、内側から開かれるなら鍵に意味などない。
はあ、は、と、息を乱しながらも、アランは呼び鈴に手を触れた。
「……はい。何でしょう」
穏やかな、まだあどけなさの残る声がする。
これがあの怪物の声か。……いや、年若いからこそ怪物なのだ。
アランはごくりと息を飲み……ありったけの憎悪を、すべて能力の行使に注ぎ込んだ。
ほとばしる敵意が、偽りの「親愛」に塗り替えられていく。
「教祖様が、お呼び……です」
アランは日本語の響きを「話す」こと自体はさほど上手くない。それでも、その短い言葉で、相手はあっさりと扉を開いた。
「おじい様が!? 本当ですか!?」
青年は嬉々として扉から顔を出す。
無邪気な笑顔に似つかわしくない、返り血に塗れた表情が現れる。
「どうしたんでしょうか。今日は、ここから出るなって散々……。でも、嬉しいなあ。きっと、必要としてくれ──」
鳴り響いた銃声が、亮太の言葉を途切れさせた。
「──え?」
目を見開いたまま、亮太は静かに崩れ落ちた。その視線の先に、見慣れた男の姿がある。
「……これでいいの?」
晃一は至って無感動な様子で、アランに尋ねた。
簡単な話だ。アランの「親愛」で警戒心を薄れさせ、馴染みの晃一の「声」があれば。扉は簡単に開く。
「言われた通り、『死なない程度』になってりゃいいけど」
亮太はぱちくりと目を瞬かせ、自らの身体から溢れ出る血液を見て……
うっとりと、笑った。
「わあ……綺麗ですねえ。見ましたか、晃一さん。僕にも、ちゃんとあるんですよ」
心底嬉しそうに、楽しそうに、亮太は語る。
「ちゃんと血が出て、痛いんですよ。だけど……自分のじゃ、『面白くない』んです」
「……そっか。お父さんとお母さんのは、面白かったんだ?」
晃一はあくまで、「知り合いの少年」に語り掛けるかのように言う。
自らの手で撃ち抜いた脚と、床を汚す血液など、目に入らないかのように。
晃一の言葉に、亮太は満面の笑みを浮かべた。
「はい! 二人とも……特にお母さんは、すっごくいい声で叫んでくれました」
まるで、遊園地やデパートでの思い出を語るかのように、亮太は、「両親を殺した思い出」を語る。
「……録画回してる?」
伝七が放った「影」に向けて、晃一は確認する。
犬の形をした影は、肯定するように一声「ワン」と鳴いた。
アランが扉の内側に足を踏み入れる。
噎せ返るような血臭を頼りに、彼は奥の方へと走る。
「ぅ、あ……あア……りょう、た、サン……?」
聞き覚えのある声が、近づいてくる。
ああ、生きていたのか。焼けただれたアランの顔は、安堵の表情すら象らない。目のない仮面に隠された瞳は、まともに景色を映すこともない。
アランは抱擁しようと手を伸ばし……その、肩に触れた。
「……お、にい……ちゃん……?」
……肩? これは、肩なのか? アランの指が、惑うように再び宙をさまよう。
「悪ぃな、アンヌ……オレ、今はほとんど見えなくてよぉ」
背後から、晃一の靴音が近づいてくる。
「いやぁ……見えなくてよかったんじゃない?」
「あ……?」
輪郭を、腕を……ともかく分かりやすい「形」をアランは探る。
……だが、「ない」。指に触れるのは、ぶよぶよとした「肉」の感触のみだ。
「りょうた……さん……は……?」
声の響きはかつてと変わらない。何より、「愛嬌」の匂い(ブーケ)がそこにある。
「ねぇ……りょうたさん……は、どこ……?」
アランは激情を抑えきれなかった。
弾かれたように立ち上がり、踵を返す。
「もう、充分でさ。殺るなら殺ってくだせえ」
どこからか、伝七の声がする。
その言葉を聞いてか聞かずか、アランは亮太の胸倉を掴み、その首筋に牙を突き立てた。
吸血や、捕食といった単語は似つかわしくない。
食い散らかす、または、切り刻む、といった表現がふさわしいのだろう。
「……おお……」
亮太は悲鳴を上げなかった。真っ黒な瞳は、ただただ興味深そうに自分を喰らうヴァンパイアを見つめていた。
晃一は思わず、その惨状から視線を逸らす。さすがの晃一でも、直視できる光景ではなかった。
だからこそ、晃一は……いや、おそらくはアランすらも、次の瞬間に何が起こったのか理解できなかった。
「あ……ガッ!? な、んだ……ッ」
苦悶の声を上げたのは、アランだった。
晃一が視線を戻すと、亮太に覆いかぶさっていたはずのアランの身体が消えている。
その代わり、瀕死の亮太の足元に、白い仮面が転がっていた。
「は……?」
引きずられたような赤い痕が、転々と奥まで続いている。
晃一は得体の知れない感覚に襲われながらも、ゆっくりと、その先へ向かった。
アランは、喰われていた。
赤黒い肉塊が……いや、肉塊と化したアンヌが、ボキボキと音を立て、アランの肉体を貪っていた。
「ひどい、ひどいよ、おにいちゃん。こんどは……こんどは、りょうたさんを、うばうんだ」
晃一に、そのセリフは聞き取れない。晃一にとってそれは、聞きなれない「言語」での呻き声でしかない。
「……なぁ……そこまで、おかしくなっちまったのか……?」
部屋の隅、胴体から離れたアランの首が、呆然と呟く。
アンヌは威嚇するような声を上げ、感情をほとばしらせた。
「おにいちゃんは、いつもじぶんかってだった」
「おにいちゃん、わたしがせざーるさんのことすきだってしってたのに、ゆかりさんとのかけおちをみとめた」
「おにいちゃん、わたしがくろーどのこときらいってしってたのに、ずっとくろーどをかわいがってた」
「おにいちゃんは、わたしにくろーどのことをゆるせっていった」
晃一には聞き取れない言葉も、アランにははっきりと聞こえた。
……その内容が怨嗟であることも含めて、はっきりと……。
「……アンヌよぉ……てめぇ、そこのクソ野郎にを吹き込まれた……?」
アンヌはアランの声に、一瞬だけ動きを止める。
そして……「黙れ」とでも言うかのように、何かの薬品の瓶をアランの首へ投げつけた。
「りょうたさんはひとりぼっちだった」
「りょうたさんはだれにもあいされなかった」
「だれもりょうたさんをみてなかった」
「わたしとおなじ」
「りょうたさんは、わたしとおなじ」
「りょうたさん、わたしのひめいがすきだって」
「ほかのだれよりもきれいなひめいだって、わらってくれた」
「わたしのこのからだ、すてきだって、よろこんでくれた」
「だから、だから、わたし……」
「りょうたさんの、そばにいたいの」
ぐちゃぐちゃに噛み砕かれたアランの胴体を投げ出し、アンヌはよろよろと亮太の方へと向かう。
四肢もすらない身体を器用に滑らせて、彼女は亮太に寄り添った。
「リょうたサン、りょウタさン、シなないで」
先ほどと違う言語で、心底慈しむような声で、アンヌは亮太の身体を包み込む。
「……僕……愛とか、恋とか、全然わかりません」
亮太はうつろな、絶命間際の瞳をアンヌに向ける。
「本当に、わかりません、けど……」
震える指先が、判別すらつかなくなった「顔」に確かに触れる。
「あなたといると、すごく、楽しいんです」
晃一は、その様子を黙って見つめるしかできなかった。
部屋の隅からアランの首を拾い上げ、脇に抱えて階段を上る。
瓶は割れなかったが、どちらにせよ、アランの顔は火傷に覆われていてどんな表情か判別できない。
「こっちはどうにかなりそうでさ」
伝七の声が、どこかの影から響く。
「こっちも終わったよ。それで……」
晃一は飄々とした笑みを貼り付け、
「俺は、いつ死ねばいいの?」
平然と、告げた。





