第2話 血
「吸血鬼、だと?」
翌朝、まだ眠りこけている少女を自宅に置いて仕事場に向かい、晃一は白衣の男に声をかけた。
「そうそう。俺とじろちゃんお友達でしょ? ちょーっと教えてもらいたくて」
「……悪いが、そういうのに詳しいのはお前の方じゃないのか」
仕事仲間の生物教師は、怪訝そうな様子で聞き返す。……どうやら、今日は不機嫌な日のようだ。
「連れないこと言うなって。ほら、殺すための情報って色々省かれてるものじゃん?」
「……なるほど」
晃一の「本業」を知る身として、なにか思うところがあったらしい。教師としての仕事仲間……大上次郎は渋々と頷き、「放課後に説明する」と告げた。
そして、放課後。
指定された教室で待つ晃一の前に、再び次郎が飛び込むように現れた。
「待たせたな晃一! 俺にレア生命体のことを聞いてくるとは、さてはさらなる交流を求めたくなったと見える!」
……昼間とは明らかにテンションが変わっているが、間違いなく次郎だ。
白衣を躍るように翻し、次郎は意気揚々と教壇に上がる。チョークを手に取り、黒板にでかでかと「課外授業」と書き始めた。
「まあじろちゃんって面白いしね。見てて飽きない」
「そうだろうそうだろう。俺達も監視対象として抜群のレア生命体だと自負しているからな!」
「あんまり大声で言ったらお兄ちゃんに怒られんぞ」
「そ、それは困るな……兄さんの身体に負荷をかけたくはない……」
青年の名は大上次郎。正式な名は大上次郎左近……もっと言えば、大神大上蒼牙守次郎左近孝継。母親はこの私立陽岬学園の理事をつとめ、そもそも「大上家」そのものがこの土地一帯の有力者と言える。
本人は生物教師として教鞭を取りつつ論文なども執筆している身だが、時折寝不足か、はたまた疲労からか、今日の昼間のように無愛想な態度をとる……と、学園内ではちょっとした噂になっている。
「よし、では俺が知っていることについて話すとするか! まず、ヴァンパイアはホモ・サピエンスからの派生人類ではないか……と俺は考えている。死者蘇生だの感染だのゾンビじみた伝承は、いわゆる差別的な感情が根源にあるのではないかと踏んでいてだな」
ガガガガガッ……と、チョークが粉を飛ばし、勢いよく黒板に文字が叩きつけられていく。
「ストップストップ。早いよじろちゃん。もうちょい落ち着いて話そ?」
大仰な血縁関係と奇怪な噂を持つ次郎だが、授業そのものは面白く、黒板に書く図式もわかりやすいことで、生徒からは一定の評価を得ている。もちろん、いわゆる「ハンサム」な顔立ちも好かれる原因の1つだ。
「そ、そうか。分かった。……ところで晃一。お前の仕事では、ヴァンパイアも対象なのか?」
「……教祖サマが「ダメ」って判断したら……だからねぇ。むしろ、後ろ盾があるじろちゃんとこより狩られてるかもよ?」
ピタ、とチョークが止まった。
瞳が鈍く煌めき、晃一を見据える。
「……そんな仕事、辞めてしまえばいいのに」
「こういうのはねー、簡単に足洗えないんだよ。小鳥遊組は龍さん死んじゃってから落ち目だし、麻ノ原会の鉄砲玉になるよか暁十字の会……宗教法人の用心棒のがマシってもん」
ヘラヘラと笑いながら、晃一は鉛筆をクルクルと回す。
晃一自身は暴力団や反社会組織に入った覚えはない。……が、傍目から見れば似たようなものだろう。
「……で、そのホモ・サピエンスからの派生人類ってのは、じろちゃんとことどう違う感じ? 推測でいいから」
伏し目がちになりながらも、次郎は再び言葉を連ねた。
「ヴァンパイアはヒトの血液を養分とし、人並外れた能力とヒトより多少長い寿命を持つ。デメリットとして日光にあまり強くなく、夜に生きることを基本とする……。そういった生活形態は、そこまでヒトと乖離しているようには思えない。……俺たち「大神」のような、変化の力はないらしいからな」
陽岬の地には、こんな伝説がある。
源平合戦の折、平家方について敗れ去ったとある豪族がいた。彼らは一族郎党を次々と失いつつも、日夜問わず歩きつめ、とある霊脈にたどり着く。
そこに偶然出向いていた、陽岬の暮越山に居を構える神霊と契約を交わし、彼らは再び日の目を見たのだという。
土地を与え、富を与え、繁栄を約束する。……生まれてくる異形の子が契約の証であり、一族隆盛の象徴である、と。
「……それで、どうしてそんなことを聞く?」
「仕事について興味持たなきゃ、そろそろ早苗ちゃんに怒られちゃうから」
そうか、と、頭の後ろで結わえた黒髪を揺らし、次郎は黒板消しを手に取った。
「そういえば、兄さんから伝言があった」
「ありゃ、そう。直接言いに来りゃいいのに」
「……。……『我ら大神はヒトに屈した覚えなどない。いずれは喰い殺される覚悟を持て』……とのことだ」
金色の瞳が煌めき、晃一の背後の影を映す。次郎よりも小綺麗な白衣、わずかに高い位置で結えられた黒髪、……次郎とそっくりそのまま、同じ顔。
大上太郎。正式な名は大神大上紅牙守太郎右近忠成。……次郎の双子の兄だ。
「……望み通り、直接参った」
「昼間からいたくせに……」
えっ、すごいな晃一、やっぱり晃一には分かるんだな!! エスパーみたいだ! ……などとはしゃぐ次郎を尻目に、太郎は軽く眉間を押さえる。
「……左様。私は大上の当主にて、次郎の戯れを諌めねばならぬ」
昼間よりもさらに凍てついた声音で、太郎も次郎に呼応するよう、金色の瞳を輝かせる。
「次郎、臭うか」
「うん? ……ああ、匂うぞ。素敵な香りだ。きっと、素晴らしい逸材だな。移った匂いだけで晃一に恋ができる」
「…………左様か。其れはさておき、東郷晃一。……私はそろそろ、貴君を見定めねばならぬ。我が弟の友を名乗るのであらば、尚更というもの」
教室に差し込む夕陽が、太郎の白衣を染めあげる。それがはらりと床に舞い落ちたと同時に、抜き身の刃が紅を照り返していた。
「……あ、そうそう。誤解してるっぽいけど、ひとついい?」
ジャージのポケットに手を突っ込んだまま、晃一は構える様子すら見せない。
「誤解とは、如何様なものか。貴君が吸血鬼を捕らえたは事実」
「捕らえたんじゃねぇよ。保護だって、保護。……たろちゃんに聞きたいのはね、吸血鬼についてじゃないし」
ほう? と、太郎の片眉が上がる。
「たろちゃんのお母さん、ここの理事してんだよね? ……ちょっと融通効かせて、一人入学させてあげてくんない?」
ポケットから出された手は、お願い!と前で合わせられた。武器を隠し持った様子もない。
「……読めぬ男よ」
刀を納め、太郎は苦々しく呟いた。
「だが……ふむ。母上にその折、しかと伝えておこう。……その義を裏切らぬ男であらば、次郎の友として不足はあるまいて」
黒く戻った瞳を細め、太郎は白衣を次郎に投げ渡す。そのままひらりと窓の外に身を投げ、悠然と歩き去っていった。
「……晃一、どういうつもりだ?」
「……じろちゃんさ、生きてていいんですね……って、生き物に言わせちゃうの、ちょっと気持ち悪いと思わねぇ?」
次郎は唐突な言葉に首をかしげつつも、
「確かに生命は、生きてこその生命だからな。だからこそ面白いし、だからこそ探求の意味がある」
うんうん、と、しまい損ねた黒板消しと予備の白衣を持ったまま腕を組んだ。
「そういうこと」
「なるほど。さっぱり分からないな!」
堂々と胸を張った返答に、晃一は曖昧な笑顔で応じる。とりあえず頭を撫でて誤魔化しておいた。
晃一が自宅に戻ると、少女は困ったように俯き、そわそわと行動に迷っていた。
「名前、なんて言うの?」
「えっ」
突然投げかけられた問いに狼狽え、あたりを見渡し、そそくさとソファに鎮座する。
「……え、ええと……久住シャルロット、です」
「クズミ……か。漢字どう書くの? 書類に必要だから教えて」
「……しょ、書類、ですか? なんの……?」
すたすたとソファの前に歩み寄り、晃一はシャルロットの前に屈んだ。
「学校の。君が無害かどうか……って、やっぱ人間社会の中じゃなきゃわかんないわけよ」
記憶の蓋は、一晩で既に開き切っていた。
……晃一にとって、それは失った過去の続きであり、贖罪であり、やり直しだった。
シャルロットが何よりも待ち望んだものへの始まりを与えたことすら知らず、……初めての情熱を奪うのにふさわしい行為とも知らず。
「あ、俺の名前教えてなかったね。東郷晃一。年は36歳。好きなものは……えー……まあ、シャルちゃんにはまだ早いアレとかソレ。……あれ? どうかした?」
思わず零れ落ちた涙の意味を、
「ありがとう、ございます……」
溢れ出した感謝の意味を、晃一はまだ知らない。