第19話 frères
「八重の姉上、いつからですか。人間が、人間であることに固執し始めたのは」
ザアザアと雨音が響く廊下に、セーラー服の少女が立っている。
障子の向こう、ビクリと震えた影は、「知りませぬ」と、やはり震える声で口にした。
「人間でなくなることは、そんなに恐ろしいことですか、姉上」
障子紙を穴が空くほど見つめ、少女は質問を続ける。
「やはり、四礼の兄上を殺めねばならぬほどの、恐怖でしたか」
黒髪の少女は微動だにせず、じっと、言葉を連ねる。
「もうやめてください」と、中で、叫びにも近い声が反響する。
「姉上。八重の姉上が、そうやって守ってもらえるのは、なぜかお分かりですか」
八重が守ってもらえるのは、引きこもり、外にも出ないことを許されるのは、「八番目」だからだ。……生まれた順番が末広がりで、縁起の良い数字だからだ。
「次、四礼の兄上のように殺されるのは、「九番目」の私です。姉上。……そして、伝七の兄上は、五厘……の、兄上のように……。……私を……」
かた、と、細い指が、障子にぷすりと穴を開ける。
黒ぐろとした瞳が、中を覗き込む。
ひぃ、と叫び声を上げ、八重は布団に潜り込んだ。
「九曜」
びく、と少女の肩が跳ねる。
ゆっくりと振り向いた先に、見飽きた兄の姿がある。
「八つ当たりがか?」
へらり、と、伝七は笑う。
……その表情が、その声音が、かつて大好きだった人によく似ていた。
***
朝には雨は止んだらしい。眩い陽の光がシャルロットの薄い瞼を突き刺し、起き抜けの人々の喧騒が鼓膜を震わせる。……また、上の部屋の夫婦喧嘩だろうか。
モゾモゾと布団に潜り込みつつ、壁にかけられた時計を見る。……まだ、学校の時間には間に合いそうだ。
……と、安堵したのも束の間だった。
「ちょっとちょっと、突然押しかけてきてドア蹴破ってくるって……お兄さん法律知ってる?器物破損とか不法侵入とか、そこら辺じゃないかな、これ?」
「申し訳ありません。ヒトの世界の法律にはまだあまり詳しくないのです」
蹴破られたドアが、無惨にも玄関で斜めに倒れている。
黒いシルクハットを被ったスーツの男が、逆光を背に浴びて佇んでいる。男は丁寧な口調の割に乱暴な足取りで、Tシャツ姿の晃一に詰め寄った。
「郷に入っては郷に従えって言うよ?土足で他人の家に上がるのはさすがにダメでしょ?」
晃一は飄々とした態度を崩さない。
「……ええ、そうですね。郷に従うなれば、私達はむしろ排斥されるべきなのでしょう」
シルクハットの下から、赤い瞳が爛々と輝き、晃一を射抜いている。……ヴァンパイアだ。
刹那、シルクハットが晃一の顔面に向けて投げつけられる。サラリと流れた1つ括りの銀髪に、シャルロットは見覚えがあった。
鋭い蹴りが、晃一の首に炸裂する。……が、
例えるのなら、歩いている時に自転車が走ってきたから避けた……というべきか。少なくとも、それは日常に有り触れた動きだった。
ゆらり、と、音を立てたかもわからない。ただただ、「何かやってきたから避けた」……それだけの、自然な動きだった。
「お兄さん、さすがに蹴るのは無し無し。宗教勧誘の人でもやらないよ?こんなの」
ヘラヘラと笑いながら、晃一は男にシルクハットを返す。……その瞳は、笑っていなかった。
「……やるじゃねぇか」
冷や汗とともに漏れ出た「素」の呟きは、やはり、シャルロットにとっては懐かしい響きだった。
「クロードさん……?」
ようやく覚醒してきた頭が、その名を呼ぶ。
「おうよ、久しぶりだなシャルロット。……助けに来てやったぜ」
ニヤリと小気味よく笑い、クロードは晃一の手からシルクハットを奪い返した。
「……ついでに、日本語で喋ってくれると助かるかな。フランス語はシャルちゃんにしか通じないから」
語調に初めて不機嫌さを滲ませ、晃一は呟くように告げた。
「……で、見捨てたくせに助けに来たって、どういうこと?」
ちゃぶ台に向かい、ニコニコと笑って話す晃一が、シャルロットにはいつもと違って見える。……端的に言うなれば、「怖い」。
ちら、と時計を見ると、そろそろ準備をしなければならない時刻に近づいている。
クロードの方に視線を移すが、こちらはシャルロットが出した麦茶を平然と飲んでいた。
「まず、見捨てた……というのには、語弊がありますね。こちらにも色々と事情があったのです」
カン、とグラスをちゃぶ台に置き、クロードもわざとらしく笑った。……殺気を隠さないままに。
「ムシュー・トウゴウでしたか……そちらこそ、どういう目的で彼女を保護しているのでしょうか?」
シャルロットは再び時計を見た。
……おかしい。針が全然進んでいない。
「そりゃあ俺だって血も涙もないワケじゃないし?こんなに可愛い女のコなら温情もかけちゃうよ」
「本当に、それが温情……ならば良いのですがね……」
ちら、と、クロードはシャルロットの方を見る。
「彼女は若い女性です。そして……私は、あなたをろくでなしと評価している……なにが言いたいのかお分かりですね?」
ギロリと、赤い視線が晃一を睨めつける。……見透かしているぞ、と、告げるように。
「えー?オジサン、不安だけ植え付けて1人でほったらかすより酷いことした覚えはないけど?」
晃一の笑みが、確かに引きつっている。……こめかみに血管が浮いているのが、シャルロットからはよく見えた。
「あ、あの……」
震える声が、シャルロットから上がる。
「安心しろシャルロット。お前さんは俺にとっちゃ娘みたいなもんだ。助けてやるからな」
「シャルちゃん、大丈夫だよ。通学時間までには帰ってもらうから、お風呂場とかで着替えて来たら?」
フランス語と日本語で、言葉が同時に紡がれる。
「く、クロードさんも、晃一さんも……その……どっちも時々怖い人だけど、どっちも、優しい人なので……あと、その……えっと……クロードさんだって女癖がいいわけじゃないですし……」
「えっ、シャルちゃん、俺時々怖い?嘘?そんなとこ見せたっけ?」
「おま、俺の恋愛遍歴は今関係ねぇだろ!?」
涙目で震える少女に慌てふためきながら、大の男2人は「しばらく休戦な」と、視線を交わした。





