第16話 傷
セザールは自尊心の高い男だった。
……そして、届かない理想を愛する男だった。
届かない理想に心を奪われ命すら失った親友を、羨ましいとも、愚かだとも思った。……けれど、それ以上に唯一無二の友を奪った太陽が、人間が、とにかく恨めしかった。
──太陽よ、なぜ私を愛さない……!
そう告げ、セザールは死んだ。……自ら命を絶つことを選んだのだ。
その叫びが、まだ仮面のヴァンパイア……アラン・ルージュの耳から離れない。
***
「……あの、大丈夫ですか?」
愚かな餌が近寄ってくる。……男の声だ。
セザールの威圧なら、こうは行かないだろう。あれは、対象を動けなくする技だ。
「調子、悪そうですけど……」
こんな仮面をつけていても、人間は気にせず寄ってくる。……そして全身の血を吸い尽くされ、死んでいく。
己の親愛に惑わされ、向こうから勝手に飛び込んでくる。
血を奪い尽くし、足首を断ち、すべて俺のモノにしよう。……と、
歪んだ思考が牙を剥く。爛れた渇望が舌なめずりをする。
「見ぃつけた」
壁に飛び散った血飛沫は、アランのものだった。からんからん、と、仮面が地面に落ち、持ち主の血潮に染められていく。
「太郎右近殿は優しいお方がやき、ちっくと難しかったがろうけど……俺は仕事なら兄貴でも友達でも殺せるがじゃ」
声と足音が近づいてくる。……耳元でガリガリと、齧り付くような、貪るような音がする。
……黒い犬のような影が、視界の端に映る。
ひぃっ、と悲鳴を上げ、逃げ去っていく男にも、同じく影が飛びかかる。
「あー、すんません。ちょっと記憶消すだけなんで、そんな痛いことにはなりやせん。……たぶん!」
にかりと八重歯を見せて、犬上伝七は笑った。……直後、射抜くような獣の視線がアランにのみ向けられる。
背後には、まだ数十匹ほど犬の影が控えていた。
***
「お兄ちゃん」
記憶の奥底で、泣く少女に手が伸ばせない。
……やがてアランの妹は、アンヌはうっとりと笑って、血溜まりのほうへと、むしろ嬉嬉として走っていく。
「あの人は、私を愛してくれた。……いいえ、あの人だけが、私を愛してくれる」
アンヌは幼い頃より憧れた相手と夫婦になったが、夫は太陽に心を奪われ続けて死んだ。
息子を兄と助け合いながら育てても、心の歪みは治らなかった。
その愛がどれほど破滅的でも、痛みしかそこになくとも、彼女はそれを選んだ。……人を、心を、何もかもを愛せない研究者にその身を捧げた。
「……目が覚めたか」
その声は、どの仲間の声でもない。
カチリ、と鳴り響く金属の音が、死を感じさせる。
……ああ、もう、終わりか。足りねぇなぁ……。
ドロドロと、思念が血臭に塗り潰されていく。
まだ血が欲しい。まだ飲みたい。まだ味わいたい。まだ殺したい。まだ奪いたい。まだ、まだ、まだ、まだ、まだ……
まだ、終わらせるものか。
「……ふむ……私も未熟というわけか。……死の恐怖に克つことができようとも、これはやはり慣れぬ」
つい先日、自らを斬った男の声が、動かない身体に冷ややかに死を突きつけていく。
「この刃、友を傷つけるためには研いでおらぬゆえな」
アランを友だと、そう告げたわけではない。……能力について悟られたのだ。
アランの友は、セザールは、とうの昔に死んだ。
親友の自分すら振り切って絶望の元へ向かい、すべてを失った。
セザールも、アンヌも、……そして自分も多くを失ったというのに。太陽はさも正義のように天を照らし、人間はそれをさも当然のように享受する。
奪ってやる。
どこにそんな力があったのか、もはやアランにも分からない。
刃が閃くより早く、焼け爛れた腕は太郎右近の首元を掴み、押し倒していた。
「……ッ」
金の瞳がぎらりと光る。……やはり、太郎右近の刃は「敵を斬る」ものであった。
ごとりと、畳に異形の頭部が転がる。
肉体から離れてなお、赤い眼光は金の瞳を睨めつけていた。
「済まぬな。いくらまやかしで誤魔化そうと……私にも、負うた役目がある」
ふっと細められた瞳は、親愛のためか、それとも、また別の感慨か。
「……貴君には聞かねばならぬことがある。どうせ、その形でも死にはせぬのだろう」
転がった首に向け、太郎は静かに言葉を紡ぐ。
「仁藤亮太、という少年について……知らねばならぬことがある」
お兄ちゃん、私は亮太さんを愛しているの。
そう、屈託なく笑ったアンヌの姿を思い出す。
「……血を寄越せ」
アランはその要求を、返答の代わりとした。





