雨と屋根の下
少年の気持ちは憂鬱だった。
その心に共鳴するかのように、今朝から雨が降り続いていた。今日は止みそうにない。
はあ、と少年は深く、重く息を吐く。その吐息には、絶望と、友人たちから離れることができたという安堵感の両方が含まれていた。
少年は今、ある公園の、屋根の下に居る。そこにはテーブルのような形のベンチがあり、そこに腰を下ろしていた。
少年の目の前で、屋根に溜まった雨水が大きな玉となって滴り落ちる。その様子をぼうっと眺めていた。それを眺めているだけで、小一時間くらいは潰せそうだった。そんなことをしたって意味がないことは分かっているが。
なんでこの公園を選んだのかは分からない。特に強い思い出はなかったはずだ。いや、無いからこそ、少年は少し落ち着く時間を獲得することができるのかもしれなかった。雨の日にこんな公園で雨宿りする人間が、少なくともクラスメートの中に居るとは思えない。そういう意味でも安心だった。
少年がなぜこんな場所に居るのか。できれば彼はそれすらも忘れたいとさえ思っているが、そういうわけにもいかなかった。現実と向き合わなければ。ただ、心の整理がついていなかった。
少年は高校生である。2年生で、地元の高校に通っている。その高校には、小学校や中学校からの友人も多く通っている。幼稚園から同じ奴まで居る。あいつもそうだった。
それなりにうまくやっていた。苦しいことがないわけではなかった。でも、少年にはこれくらいの生活が性に合っていた。不満や愚痴なども、日々の生活にはつきものだったし、それにちょっとした面白みも感じていた。それらも自分の気持ちや頑張り次第でどうにかなるものだった。ただ、今の心の傷は、そう簡単には癒えそうになかった。
少年の生活に最も幸福を与えていたのは、彼女の存在だった。いわゆるガールフレンドである。
小学校からの知り合いで、気づいたら恋人になっていた。いや、そんな適当な経緯ではなかった気がする。告白したのはどちらだったか、彼女か、それとも少年の方だったか。その少女が彼女となってからは、少年の人生は明るさを増した。白い紙に一滴だけ、桃色を垂らしたような、微々たるようで、しっかりとした変化。少年はその滲みゆく桃色を大事にした。
朗らかな少女だった。太陽やひまわりなどに比喩するのはさすがにやりすぎだし恥ずかしいが、少年にとってはそれくらいの重要さを持っていた。
ほんわかと明るい彼女。マイペースで、あまり人としゃべらない静かな人だった。まるで小説に出てくるような淑女だが、自分も割と変わり者と言われているようなので、案外お似合いだったのかもしれない。
少女のゆくところ、どこでも花が咲くように感じられた。その、少女の周りに広がる花畑を見て、少年も微笑むのだ。
そんな、ある意味で浮世離れしたような彼女であったが、照れるときは本当に顔を真っ赤にして慌てる。それがまたおかしくて、少年はよく、今思えば壁に頭を打ち付けたくなるくらいの甘い言葉を囁いていた。それでも彼女は少年の言葉に胸をときめかせた。やっぱり、お似合いだったのかもしれない。
彼女の笑顔を思い返すたび、少年の心は締め付けられる。
少年はうつむく。
彼女は、死んだのだ。
あっという間の出来事だった。
一台の車が、彼女に突っ込んだのだ。
ただ、それだけ。たった数秒の出来事。
悲しむ暇もないほど、暴力的なほどの刹那、彼女は死んでしまった。
それが、たった三日前のことだった。
三日前までは、彼女は少年の隣に居た。いつでも笑っていた。手を伸ばせば、その頬を撫でることができた。
でも、もう、彼女は居ない。会うことができない。その現実を認識するたびに、少年の目から涙がはらはらと零れ落ちるのだった。
また泣いている自分に気づき、少年は慌ててその雫を拭った。鼻水の混じった息を吐いた。
雨はまだ降り続いている。屋根の上で無数の粒が跳ねて地面に落ちる。少年は目を閉じて、その音に耳を傾けていた。なんの感情も意志もなくひたすら続く不規則なリズムは、なんでもないはずなのに、少年の心に優しくしみ込んだ。とっても近くに居て、それでいて少年のことをそっと一人にしてくれる、そんな雨の存在に、少年は癒された。
そのときだった。少年は、ん、と声を漏らした。
雨音に混じって、こちらに足音が聞こえてきた。誰だろうか。
雨水で柔らかくなった土をちゃぷちゃぷと踏み、こちらへと着実に向かっていく足音。その方角に目を向ける。
そこには、一人の少女が居た。
年齢は分からない。およそ小学生から中学生くらいの風貌だ。黄色い傘に、赤いレインコートを羽織っている。
少女はついに少年の目の前までやってきた。雨宿りする場所を探していたのだろうか。屋根の下で傘をたたみ、少年の横に腰を下ろした。
「……」
……そのまま、無言。両者、一言も喋らなかった。
あまり失礼にならないように、横目で少女を観察してみる。レインコートのフードに隠れて、少女の顔はよく見えない。明るい栗色の髪の毛がちらりと見える。年齢も、せいぜい自分よりは年下だろう、というくらいしかわからない。
自分の隣に座って、いったい彼女は何がしたいのだろう? 少年には理解ができなかった。
急に雨の音が強く少年の耳に届いた。それこそ耳障りなほどに。
中途半端に意識してしまって、けれども何か声をかけることもできなくて、少年は非常に居心地が悪くなった。
ああ、もういいや、帰ってしまおう。少年はそう思い、腰を上げかけた。そのときだった。となりの少女が、容姿通りの高い声で、少年を呼び止めた。
「――ねえ」
「……ん」
少女の声は、透き通っていた。明瞭で、心に溶け込むような音色。少年は短い言葉を返した。
「なに」
少年は少女の方を向いた。そこには少女の顔があった。さっきも見た通り明るい栗色で、染みの少ない綺麗な肌に、茶色い目。年齢はやはり推測ができない。
少女は少年に向かって口を開いた。
「お腹空かない」
優しい声だった。少年は面食らったように反応ができなかった。それに、こんな雨の中で食事とは。あまり気が進まない。しかし、彼女の誘いを断るのも気が引けた。……いや、そうではない、誘いを断りたくなかったのだ。
「まあ、少しは」
少年が答えると、少女は滑らかに、しかし子供らしい慌てた動作で鞄の中を漁った。なかから出てきたのは、プラスチックの細い取ってがついたキャンディーだった。二つ手に持ち、両方を見比べてから、少女は少年に尋ねた。
「ぶどうとみかん、どっちが好き」
うーん、と少年は腕を組んだ。正直どちらでも良かったのだが、わざわざ聞いてくるくらいだから、少女の友人などは結構気にする問題なのだろう。思い悩む必要もないのだが、真面目に考えたよさそうだ。とはいえ、少年に選り好みというものはなく、結局適当に選ぶことにした。
「じゃあ、ぶどう味で」
少年が言うと、少女は一つを右手に移し替え、それを少年に渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
少年と少女はキャンディーの包み紙を剥がして、それぞれ頬張った。スティックの端っこを持ってくるくると回して舐める。そのキャンディーの甘さは少年にとっては大きな安らぎとなった。他人から貰った甘さが、ここまで人の心を潤すとは。少年には驚きだった。
少女の方を見る。少女は前方、木々が無秩序に生えている空間を眺めていた。この少女はいったいなにものなのだろう。少年は知りたくなった。
「ねえ、そのフード、脱いでよ」
少年が言うと、少女は驚いて少年を見た。少年は、あ、失敗したかな、と後悔したが、少女はフードを脱ぐこと自体は別に抵抗はなかったらしく、
「わかった」
とひとこと言って、その髪の毛を露出させた。
やっと彼女の首から上の全体像を眺めることができた。少年は続けて訊いてみた。
「こんなところでなにやってるの」
少女は少年の目を見て答える。
「お兄ちゃんこそ、なにしてるの」
質問に質問で返された。少年は仕方なく、自分の身の上話を少しすることにした。
「ちょっと、悲しいことがあってね。誰とも会いたくなくて、気づいたらこんな場所に居た」
「悲しいこと?」
「そう。心が重く沈むような、悲しいこと」
「どんなこと」
「その前に、君の話を聞かせてよ」
少年が言うと、少女は小さく頷いて、それから地面へと視線を向けながら言った。
「……どうしようか、迷ってた」
少女の声のトーンが落ちた。少年はそれに気付いたが、止めはしなかった。
「わたし、好きな人がいるの。でも、その人に告白しようか迷ってる。フラれたら、もう、友達でいられないかもしれないから」
「わかる」少年は思わず声を出してしまった。「すごいわかるよ、それ」
少女が少年に訊いた。
「お兄ちゃんの悲しいことって、なに」
「……好きな人がいたんだ、僕。その人とは恋人同士だった。……でも、その人、死んじゃったんだ」
「なんで」
「事故が起きたんだ。飲酒運転で、歩道に突っ込んだ。僕は、最初、何が起きているのか分からなかった。あの人が僕を突き飛ばしたのは覚えてる。確か、話に夢中だったんじゃないかな。気づいたら、そう、本当に、瞬く間に彼女はいなくなった。血だらけで、倒れていたんだ」
「……」
「あの日のことは凄いショックだったし、後悔してる。もしかしたら、あの子が死ななくてもいい、そんな運命もあったのかもしれない。……でも、現実、あの子は死んじゃったんだ。それはもう戻せないし、変えられない。でもね、やっぱりね、あの時のことを思い出すとね……」
少年の胸は、張り裂けそうだった。それでも、語らずにはいられなかった。辛さを共有したいのかもしれなかった。それが結局、気休めでしかない、ということを少年は悟っていた。しかし、話さずにはいられなかった。共感を求めていた。同情してほしかった。さらに傲慢なことに、自分の行動を認めてほしかった。そして、それらがどれも問題の解決にはならないことを少年は知っていた。つまりは、どうしようもなかった。
気づいたら、涙がズボンを濡らしていた。雨の染みとは違う、少年自身の雫。少年はまたもやふさぎ込んだ。そんな少年の頭を、少女は優しく撫でた。
……こんなにも小さく、頼りない手なのに、少年の心を優しくすくいあげた。
少年の悲しみは収まらなかったが、気持ちは少し落ち着いた。
少年は頭を上げた。少女の、優しさに満ちた顔がそこにあった。少年はなんだか恥ずかしくなった。年下に慰められるなんて面目丸つぶれだ。だが、周りにだれも見る人がいないことで、少年の心は軽くなった。
「……ありがとう」
最大限の気持ちを込めて、少年は少女に礼を言った。それから、少女に言った。
「君の話を、聞かせてくれないか。君が好きなのはどんな人なの」
少女は少し黙った。どうやら恥ずかしいようだ。当たり前の反応だが、少年にはその反応が意外だった。ややあって、少女はしゃべり始めた。雨音とワルツを踊るように、少女の声は響いていく。
「わたしの好きな人。同じクラスの人。他の人とはずれているようで、自分なりの日々を謳歌している」
少女の歌に少年の低音が交じる。
「どんなところが好きなの」
「あの人は柔らかい。ふんわりと暖かくて、わたしを包み込んでくれる。あの人にはそんなつもりはないのかもしれないけど、あの人がわたしに話しかけてくれるだけで、わたしの心も暖かくなる。すごいんだよ。たった一言で、私を幸せにできる人」
「それはすごい」本気でそう思った。「あの人もそうだったなあ」
「でも……」少女は口ごもった。「けれども、いや、だからこそ、告白するのが怖い。フラれて、あの声が聴けなくなってしまうのが怖い。わたしのことを見てもらえなくなっちゃうんじゃないかって、そんなことばかり考えてしまう」
「けど……、その人のこと、好きなんだろう」
「……うん」少女は小さくうなずいた。
「だったら、……自分の思い、伝えようよ」少年は、三日前のことを思い、必死で訴えた。「大切な人が生きているって、とても幸せなことなんだ。もし死んじゃったら、その想いを伝えることすらできなくなってしまう」
まるで、過去の自分に語り掛けているようであった。少年自身、そんな気持ちを込めている気は無かったが、そんな気迫彼の口調から伝わってきた。
「後悔してからじゃ遅いんだよ。その人が明日も生きているなんて保障、どこにもないんだから」
少年の気持ちに、少女は相槌を打った。それから、少年に問う。
「お兄ちゃん、いま、悲しい?」
「……うん。悲しい。あの人にもう一度会いたいって思ってる」
「一度? 一度でいいの」
「本当はずっと一緒に居たいんだけどね。でも、お別れの言葉さえ言えずに死んじゃったから」少年はまた、あの日を思い返していた。「君と一緒にいれて本当に幸せだった。守れなくてごめんね。って、そう言いたい。そんなこと、あの人は思ってないのかもしれないけど、もし、いま、あの人がここに居たら、もしかしたら、僕のことを殴るかもしれない。お前のせいで私は死んだんだって。僕の気持ちは、自分のことしか考えてない、本当に自分勝手な思いなのかもしれない」
「そんなことない!」
……少女が、吠えた。少年には、何が起こったのか分からなかった。いきなり、両手の平で鍵盤を叩いたようだった。遅れて、その静寂の中、雨音が聞こえてきた。少年は唖然として少女を見ていた。
「……もし、私がその人だったら、たぶん、こういうと思う。
私の分まで、精一杯生きて
って。少なくとも、お兄ちゃんのこと好きだった人が、お兄ちゃんのこと恨むわけがないよ」
「……そうかな」
少年には、心の分別がいまだにできなかった。
結局、彼女がいま言ったことだって、彼女の想定に過ぎない。だけど、この少女のいうことももっともな気がした。過去を悔やんだって、あの人を求めたって何ができる。何が叶う。そうは思っても、目を閉じて頭に浮かぶのは、彼女の悲しみに暮れた表情だった。
死んだ人に、何を訊こうとも何も返ってこない。だから、自分で想像するしかない。あの人が今の自分に、何を求めているのか。
「お兄ちゃん」少女が尋ねた。「もし、死んだのがその人じゃなくて、お兄ちゃんだったらどうする。その人のこと恨むの」
「それは……」
「その人がなにもやる気が起きないくらい悲しんでいたとして、お兄ちゃんはその人に、自分の死の恨みを押し付ける」
「そんなことするわけがない」
少年は叫んだが、しかし、少女の表情は崩れなかった。それで、少年は少女の気持ちを悟った。もしかしたら、少女は自分を気遣ってくれているのかもしれない、そんなことすら感じた。
少年は涙をぬぐった。鼻を啜った。空を見上げた。
いつしか、雨は止んでいた。
「……晴れたね」
少女は、空を見てつぶやいた。
「……そうだな」
少年も、空を見上げた。
光が差し、地面を照らした。雲がじわじわと晴れて行き、その合間から青空が顔を覗かせた。少女は屋根の外へ出た。
「お兄ちゃん」
「なに」
「顔、明るくなったね」
少年は頬を掻いて言う。
「そうかな」
「うん」と少女はうなずいた。それから、ひとこと。
「じゃあ、わたし、行くね」
「ああ、元気でな」
少女は、にこりと笑った。
「あなたと会えてよかった」
その言葉を最後に、少女は彼方へと歩いて行ってしまった。
ついに姿が見えなくなった。少年は鞄を担いだ。
雲が流れて行く。空は少しずつ、その青さを取り戻していった。
急にしんみりとした話が書きたくなったので書きました。
あと文章を書いた時間よりも絵を描いた時間のほうが長いというなんじゃそりゃな現象が起こりました。けっこうラフな感じで描いたのですが……。
次は笑える話を書きたいと思います。
批判・助言・感想などなんでもコメントしちゃってください。




