「妹には俺しかいない」と私の誕生日を忘れた婚約者様――では妹君の十五歳のお誕生日も、お一人でご準備して下さいね
「ローゼ、悪いんだが・・・今日の予定は取りやめにしてくれないか?」
十八歳の誕生日に婚約者から最初に贈られた言葉がそれだった。
ローゼ・ベルンシュタインは、待ち合わせ場所となっていた王都の劇場前で目を瞬かせた。
今日のために取った席は、半年先まで予約が埋まる人気の劇団のものだ。観劇の後には、大貴族ですら簡単には席を取れないレストランで夕食をする予定になっていた。
もっとも、それらを手配したのはすべてローゼだったが・・・
「取りやめ、ですか?」
「ああ。セレフィーナが、十五歳の誕生日に着ける髪飾りを今日見に行きたいと言い出してね・・・」
ルシアン・ヴァルクロワは、困った妹に頼られて仕方がないとでも言いたげに肩をすくめた。
来月十五歳になる彼の妹セレフィーナは、その誕生日に社交界へ正式にデビューする。確かに貴族令嬢にとって十五歳の誕生日は特別だ。
初めて一人前の令嬢として社交界へ紹介され、家によってはそこで将来の婚約者候補と顔を合わせることすらある。
だから15歳を迎える誕生日の準備が大切なのは、ローゼもよく分かっていた。
「ですが、髪飾りでしたら明日でも――」
「・・・わざわざ言わせないでくれ!十五歳の誕生日は一度しかないだろう?」
ルシアンは当然のようにローゼの言葉を遮る。
「あの子には俺しかいないんだ!」
また・・・その言葉だった。
幼い頃から妹を溺愛してきたルシアンは、何かにつけてそう口にする。
ローゼが彼との予定を変更されたときもセレフィーナへの贈り物について相談されたときも妹が困っているのだから仕方がない。
「あの子には俺しかいない!」
そして最後には決まって・・・
「君は・・・しっかりしているから、一人でも大丈夫だろ?」
今日も結局いつもと同じだった。
「……そうですわね」
「やっと分かってくれたのか・・・まあ助かるよ。埋め合わせは必ずするから!」
ルシアンがほっと笑う。
「ああ、それと」
「まだ何か?」
「今日予約していたレストランなんだけど、キャンセルするくらいなら俺とセレフィーナで使ってもいいか? あの子、前から行ってみたいと言っていただろう?」
ルシアンは何も答えないローゼの様子にも気づかず、懐中時計へ目を落とす。
「そろそろ行かないと。本当に今度埋め合わせをするから、機嫌は直してくれよ。」
「ルシアン様・・・一つお聞きしたいことがあるのですが・・・」
「ん?なんだい?ボクは急いでいるんだけど・・・」
「今日が何の日か、ご存じですか?」
足を止めたルシアンは、少し考えた。
「何の日?」
それで十分だった。
「……いいえ。なんでもありません」
「そうか!じゃあまた!」
そのまま歩いていく彼をローゼは追わなかった。
劇場前には、華やかな衣装をまとった人々が次々と吸い込まれていく。
手元には二枚の観劇券と鞄の中には、二人分のディナーの予約証・・・そして今日は、ローゼが十八年前に生まれた日だった。
「私の誕生日は、どうでもいいとでも思っていらっしゃるのかしら・・・」
口に出してみると、不思議なほど悲しくはなかった。
代わりに胸の中で、何かがすとんと落ちて今まで何度も引っかかっていたものが、ようやく正しい場所に収まったような感覚だった。
――あの子には俺しかいない。
ルシアンはそう言うけれど、本当にそうだっただろうか?
ローゼは帰宅すると、自室の机の引き出しから一冊の帳面を取り出した。
表紙には几帳面な文字で、
『セレフィーナ様 十五歳社交界デビュー準備一覧』
と書かれている。
開けば、予定がびっしりと並んでいた。
ドレスの仮縫い
ダンス教師との最終確認
招待客への挨拶順
誕生日当日の髪型
宝飾店との打ち合わせ
好きな花と、苦手な香り
好んで口にする菓子
食べられない果物
ルシアンからセレフィーナへ贈る予定の髪飾りについても、候補となる店と意匠をまとめてある。
今日彼が妹を連れて買い物へ行けたのも、先日ローゼが、
『セレフィーナ様は最近、真珠よりも淡い金色の石がお好きなようです』
と伝えていたからだ。思い返せば、これだけではなかった。
去年の誕生日にルシアンが贈った香水もその前に贈った菓子もセレフィーナが喜んでいた花束も・・・相談されるたび、ローゼが調べ、本人との会話から好みを聞き出し、ルシアンへ伝えてきた。
彼はそれを買って渡していただけだ。
『さすがお兄様! 私のことなら何でも知っているのね!』
そう喜ぶセレフィーナに、ルシアンはいつも満足そうに笑っていた。
『まあな!兄だから当然だろう』
ローゼは帳面へ視線を落とした。
「……まあ」
思わず、小さな笑いが漏れた。
「セレフィーナ様には、ルシアン様しかいらっしゃらないのですね」
ルシアンが妹思いの兄でいられたのは、ローゼがいたからだ。それなのに彼は、ローゼなら大丈夫だと言った。
自分の誕生日を忘れ、その日の予定まで妹へ譲らせようとした。
「でしたら、本当にお任せしましょう」
翌日、ローゼは帳面と数通の書類を持ってヴァルクロワ邸を訪れた。
「これはなんだい?」
机の上に置かれた束を見て、ルシアンが眉をひそめる。
「セレフィーナ様の社交界デビューに関するご助言をと思いまして」
「こんなにあるのか?」
「ええ。こちらが今後の日程、こちらが各店への連絡先。ドレスの仮縫いは十三日、髪飾りの最終確認は十六日です。それから当日の――」
「待ってくれ」
ルシアンが苦笑した。
「そこまで細かく説明しなくても大丈夫だよ」
「そうですか?」
「ああ。妹のことなら俺が一番よく分かっている。君は少し心配しすぎなんだ!」
ローゼは一瞬だけ黙り、それから微笑む。
「承知いたしました」
帳面を彼の前へ押し出した。
「では、今後はすべてルシアン様へお任せいたします」
「え?それはどういう」
「セレフィーナ様にはルシアン様しかいらっしゃらないのでしょう?」
「まあ……そうだけど」
「でしたら、私が口を挟む必要はございませんもの」
ルシアンは少し意外そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「それもそうだな。今までありがとう」
「いいえ」
ローゼは立ち上がった。
「ああ、ローゼ。昨日の埋め合わせだけど――」
「お気になさらず」
「いや、でも・・・」
「本当に・・・もう結構ですわ」
誕生日を忘れられたことについて、それ以上話す気はなかった。代わりにローゼは屋敷へ戻ると、父へ婚約の見直しを申し出た。
事情を尋ねられ、起きたことだけを説明する。
十八歳の誕生日を忘れら妹の十五歳の誕生日準備を優先された。これまで将来の義妹だからと担ってきた雑務も、今後はヴァルクロワ家へ返す。
このまま結婚すれば自分は妻ではなく、ルシアンが「優しい兄」でいるための世話係になる。
それが分かってしまった・・・ただそれだけのことだ。
父は短く息を吐き、娘の申し出を受け入れた。
その後の一か月を、ローゼは驚くほど穏やかに過ごした。
ルシアンから何度か手紙が届いた。
『セレフィーナのドレスを仕立ててくれる店はどこだった?』
『ダンス教師との約束の日を知っているか?』
『すまない・・・髪飾りはどの店がいいと言っていた?結局前は観劇の時間の都合で選べなくてね・・・』
そのたびにローゼは同じ返事をした。
『お渡しした資料に記載しております』
やがて、セレフィーナの十五歳の誕生日が訪れた。ヴァルクロワ邸の大広間は、彼女の社交界デビューを祝うため華やかに飾られていた。
ローゼも婚約者の家の祝いという立場上、正式な招待を受けていた。
会場へ入ってすぐ、彼女は足を止めた。
「ローゼ様!」
セレフィーナが駆け寄ってくる。
十五歳になったばかりの少女は美しく着飾っていた。
けれど表情は、晴れの日には似つかわしくないほど曇っている。
「お誕生日おめでとうございます、セレフィーナ様」
「ありがとうございます……」
ローゼは彼女の胸元を見た。そこには美しい大粒の青い宝石が飾られている。
「あら・・・?・・・その青い首飾りは?」
「ああ、これは・・・お兄様が選んでくださったの・・・」
セレフィーナは口を尖らせた。
「……でも私、青はあまり好きじゃないの」
ローゼは何も言わなかった。
「それにお花も・・・」
会場いっぱいに飾られているのは、香りの強い白百合だった。
「私、百合の香りは苦手なの。お兄様には前にも言ったはずなのに!」
そこでルシアンがやってきた。
「セレフィーナ、こんなところにいたのか。みんな君を待ってるぞ」
「お兄様」
「ん?どうしたんだ?本当にいそがな・・・」
「どうして百合なの?」
ルシアンがきょとんとする。
「綺麗だろう?誕生日なんだから豪華なほうがいいと思って!」
「私、百合は苦手って言ったでしょう?」
「……そうだったか?」
セレフィーナの表情が固まった。
「首飾りも青ですわ」
「似合ってるじゃないか」
「私は青が苦手なの・・・これも前に言いましたわ!」
「でも、前に青いドレスを――」
「あれはお母様に勧められて着ただけよ」
「そうなのか?」
ルシアンの顔から、少しずつ笑みが消えていく。
セレフィーナはじっと兄を見た。
「ねえ、お兄様」
「な、なんだ?」
「私の一番好きな花は?」
「花?た、たしか……百合、い、いや薔薇、かな」
「違うわ」
「じゃあ……好きなお菓子は?分かる?」
「・・・・・・?え、えっと・・・」
「一番好きな色は?」
ルシアンは答えられなかった。答えられるはずもなかった。なぜなら彼はただローゼから勧められるままにセレフィーナと接してきたのだから。
広間のざわめきが、妙に遠く聞こえた。
そのざわめきに合わせるようにセレフィーナの瞳が揺れる。
「お兄様は、いつも私の好きなものを贈ってくださったじゃない」
「あ、ああ」
「去年の香水も。その前のお菓子も。お花も」
「っそ、そうだろう?僕はセレフィーナの兄だからね!」
「だったら、どうして分からないの?」
ルシアンの視線が泳いだ。
そしてローゼを見た。
「ローゼ」
その一言で、セレフィーナも振り返る。
「ローゼ様?」
ローゼは隠す理由もなかった。
「以前は、私がセレフィーナ様のお好きなものやご要望をお伝えしておりましたから」
「……え?」
「ルシアン様から相談を受けて、セレフィーナ様のお好みをお教えしていたのです」
セレフィーナが瞬きをする。
「きょ、今日のために用意した金色の髪飾りは……?」
「先月、候補をいくつかまとめてルシアン様へお渡ししました」
セレフィーナはゆっくりと兄を見るとルシアンが慌てて口を開いた。
「いや、それは……ローゼが詳しいから少し相談していただけで――セレフィーナ」
「では、ドレスの仮縫いの日を忘れたのは?」
「それは忙しくて」
「ダンスの先生との最終確認も忘れていたわ」
「だから、それは――」
「今日のお花も、首飾りも」
「ぼ、ぼくだって一生懸命選んだんだ!」
ルシアンの声が大きくなる。
けれど、その言葉でセレフィーナの顔はかえって悲しそうに歪んだ。
「……一生懸命選んで、私の嫌いなものばかり選んだのね」
「違う、セレフィーナ」
「お兄様は私のことなら何でも知っているって、ずっと思っていたのに」
ぽつりと少女が言った言葉が記念すべき誕生日会場に響く。
「……お兄様、私のこと、本当は何も知らないのね」
ローゼは静かにその様子を見ていた。胸がすっとするような歓喜は、不思議となかった。ただ、やはりそうだったのだと納得しただけだ。
ルシアンが愛していたのは、私でも妹でもない。
妹に頼られる自分、妹のことなら何でも分かる自分、誰より優しい兄である自分、その姿を愛していたのだろう。
そして、それを支える仕事はローゼへ任せきりだった。
「ローゼ!」
しばらくしてルシアンが彼女の腕へ手を伸ばした。
ローゼはその手を半歩下がってかわす。
「何でしょう?」
「少し手伝ってくれ。今日の進行もまだ確認できていないんだ。セレフィーナも混乱しているし、君なら――」
「どうして私が?」
ルシアンが固まった。
「ど、どうしてって……今日はセレフィーナの大事な日なんだぞ?」
「もちろんそのことは存じておりますわ?」
「なら!手伝ってくれ!こ、このままでは・・・ぼ、ぼくが恥をかくじゃないか!!!」
ローゼは微笑んだ。
「愛しい妹君には、あなたしかいないのでしょう?」
「ロ……ローゼ?」
「あなた様はしっかりしておりますから、一人でも大丈夫ですわ」
かつて彼から何度も聞いた言葉を、そのまま返した。
ルシアンの顔色が変わる。
「待ってくれ。それは……」
「それに、ちょうどお伝えしたいことがございました」
ローゼは鞄から一通の封書を取り出した。
「本日、我がベルンシュタイン家より正式に婚約解消の申し入れをいたしました」
「……は?」
「もう、私がルシアン様の妹君のお世話をする理由もございません」
「婚約解消って……ま、まさか誕生日を忘れたことを怒っているのか?」
ローゼは首を横へ振った。
「私の誕生日を忘れて、妹君の誕生日を優先されたこと自体は、きっかけにすぎません」
「だったら――」
「あの日、ようやく分かったのです」
ローゼはまっすぐ彼を見る。
「あなたが必要としていたのは妻ではありません。あなたが良いお兄様でいるために、妹君のことを調べ、予定を整え、あなたの代わりに気を配る人間です」
「そんなつもりじゃ……」
「ええ。なかったのでしょうね・・・でも」
だからこそ、もう十分だった。
「私は、あなたと結婚してセレフィーナ様のお世話係になるために生きているのではございません」
「ローゼ、待ってくれ。今からでも――」
「私の十八歳の誕生日は、もう戻りません」
ルシアンの口が閉じる。
ローゼは一度だけ、セレフィーナへ目を向けた。
「セレフィーナ様。本日は本当に、お誕生日おめでとうございます。どうか、良い一日を」
「ローゼ様……」
セレフィーナは少し迷ってから、小さく頭を下げた。
「……今まで、ありがとうございました」
ローゼは踵を返す。
「ローゼ!」
背後からルシアンの声が追ってきた。
「お、おい!本当に行くのか? これから俺はどうすればいい?」
ローゼは一度だけ振り返った。
「まあ」
本気で不思議そうに首を傾げる。
「何をお困りになることがございますの?」
そして、微笑んだ。
「だって妹君には、あなたしかいないのでしょう?」
ルシアンは答えられない。
「でしたら今後は本当に、お一人で妹君のお世話をなさってくださいませ」
今度こそローゼは振り返らなかった。自分の誕生日を忘れた男のために、これ以上時間を使うつもりはない。
十八歳になったばかりなのだ。
これから先、自分自身のために祝える誕生日は、きっといくつもある。
けれどルシアンにとって妹のことなら何でも知っている優しい兄でいられた最後の日は――奇しくも、最愛の妹が十五歳になった、その誕生日だった。
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