求婚を断るたびに幼なじみが爵位を上げて帰ってくる
「昔の約束を果たしに来ました。結婚しましょう」
まるで天気を告げるかのように。
六年ぶりに顔を合わせた幼なじみは、淡々とそう言った。
リディアは上げかけたカップをがちゃんと取り落とし、すぐさま我に返る。
「あ゛あ! カップが!」
滑らかな白磁で、縁に細い金彩が入った来客用のティーカップ。これが割れたらとんでもない。
リディアは慌ててカップを拾い上げ、割れや欠け、傷がないことを確かめる。
「大丈夫ですか」
「安心してちょうだい、アーヴィン。割れてないわ」
「あなたの方です」
淡々と返されて、リディアは思わず顔を上げた。
向かいのソファからわずかに身を乗り出していた青年──アーヴィンは、リディアに怪我がないと見るや静かに座り直す。
高く結い上げた彼の長い黒髪が幅広の肩に流れ落ち、丸みのあった輪郭はすっかり精悍さを増している。その中で、リディアをまっすぐに見つめる青の瞳だけが、かつて見慣れた落ち着きをそのまま宿していた。
六年前に屋敷を離れたはずの少年が、目の前にいる。
ぱちぱちとリディアが瞬きを繰り返していると、アーヴィンがおもむろに唇を開いた。
「……話を続けても?」
「話?」
思わず問い返してから、リディアはさきほどのとんでもない発言を思い出した。
「ま、待ってちょうだい。あなた、急になにを言っているの?」
「急でしょうか」
アーヴィンは平然と首を傾げた。
「ああ、先触れもしませんでしたし、確かに急でしたね。けれど俺とあなたは六年前に結婚を約束済ですから──」
「そうじゃなくて、急に結婚なんて言われても、って話をしてるのよ、私は!」
「なぜ」
「なぜって……あなただって、私の家の状況は知っているでしょう!?」
「はい。ベルナール子爵家の状況なら承知しています」
事もなげに頷かれて、自分から尋ねたくせにリディアはかっと顔が熱くなった。
王の剣であり、民の盾でなければ貴族に非ず──
この国では、魔獣討伐の功績がなによりも重視される。
しかし二年前、北方から大量の魔獣が押し寄せた災害の折、ベルナール家はなにもできなかった。
父は病床につき、子は四姉妹。兵を率いる者はいない。
領地は直前の洪水と飢饉で疲弊し、金も出せない。
今こそ武名を上げるとき、と他家が剣を取る中で、リディアたちができたのはただ屋敷で人々の無事を神に祈ることだけだった。
けれどそんなものは貴族の仕事ではない。
神父の仕事である。
そして、仕事をしなかった貴族に当然褒賞が与えられるわけもなく。
ベルナール子爵家は、没落に至る坂道を緩やかに下る真っ只中であった。
「……知っているなら、尚更だわ」
呟いて、リディアは大きく胸を張る。
ここでただ窮状を嘆いていては、アーヴィンが心を痛めてしまうから。
最後に会ったときはリディアとそう身長の変わらなかった少年は、すっかり立派な青年になっている。
仕立てのよい騎士服は彼の肩や胸もとに隙なく沿い、外套の留め金の下には鍛えられた身体つきが見て取れた。胸に光る銀の勲章は、先の魔獣災害で武功を挙げた者の証だ。
誇り高く国を護ったこのひとを、ベルナール家の事情に巻き込むわけにはいかない。
「あなたは爵位も領地もないただの騎士でしょう。我が家と関わる必要はないわ」
「ですが、約束が──」
言い募ろうとするアーヴィンを遮るように、リディアは冷たく翠眼を細めた。できるだけ高慢な貴族令嬢に見えるよう、緩やかな動きで長い栗毛を払ってみせる。
「言葉が足りなかったかしら。身分が違う、と言っているのよ」
そう告げる声がなんとか震えなかったことに、リディアは胸の裡で安堵した。
アーヴィンは言葉なくリディアをただ見つめていた。その時間が長引くほどにリディアの鼓動は早まっていくが、それを悟らせないよう澄ました顔でカップを口に運び続ける。
やがて彼は、静かな声でこう言った。
「なるほど。よくわかりました」
それでは、と騎士流の礼をして、アーヴィンは応接室を出ていく。
リディアは遠ざかる背中を視線で追うことすらしない。パタンと軽い音を立てて扉が閉まってから、力なく顔を伏せる。悔しいのか、悲しいのか、よくわからないまま、ただ涙が出そうだった。
リディアは無人になった向かいのソファを一度見つめて、ただ瞳を伏せた。
きっと自分は彼を傷つけた。
だからこれで、もう終わり。
──そう、思っていたのだが。
「男爵になりました。結婚しましょう」
三ヶ月後。
まるで荷届け人のような口調で求婚されて、リディアは再びカップを取り落とした。
* * * * *
アーヴィンと出会ったのは十年前。
リディアは六歳で、アーヴィンが八歳の頃だった。
アーヴィンはベルナール家に仕えていた騎士の忘れ形見だった。父を魔獣討伐で亡くした彼は、騎士団へ入るまでの数年間、この屋敷で暮らし、リディアと同じ庭で遊び、同じ教師から文字を習った。
彼は初めから口数が少なく、表情もあまり変わらなかったが、リディアが振り返ると必ず少し後ろに立っていた。
高い枝に咲いた花が欲しいと言えば、黙って庭師を呼びに行った。
庭の端まで走りたいと言えば、転んだときにすぐ手を貸せる距離で隣を歩いた。
楽しいのかどうか、幼いリディアにはよくわからなかった。けれど差し出される手はいつも温かく、彼がそばにいることはすぐ当たり前になった。
十二歳になったアーヴィンが騎士学校に入ることが決まった夜、リディアの両親はとても喜んだ。
姉も喜んだ。妹ふたりも喜んだ。おめでとうアーヴィンと誰もが言祝ぐ中で、リディアだけは頑なに唇を引き結んでいた。口を開けば、行かないで、だなんて言ってしまいそうだったから。
幼いなりにアーヴィンが騎士になるのは正しいことだとわかっていた。
けれど正しさは、十歳の女の子の味方になんてならない。
ドレスを握りしめて俯くリディアに、アーヴィンは言った。
「リディア。俺は必ず立派な騎士になって、戻ってきます」
その声は祝いの席のざわめきの中でも、妙にはっきり耳に残った。
当初、アーヴィンはリディアを『お嬢様』と呼んでいた。
リディアと呼んでと頼んだら、きちんと名前を呼んでくれるようになった。それが身分に合った振舞いなのかはわからなかったけれど、リディアはアーヴィンが名前を呼んでくれるのが嬉しかった。
「……それじゃダメ」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
「私に相応しい騎士になって、帰って来るって約束して。ずっと、待っててあげるから」
馬鹿みたいなお願いだった。
けれど当時のリディアにとっては、それが精一杯の引き止め方だった。行かないで、と言えば困らせる。だから、帰ってきて、と形を変えた。
それでもアーヴィンは、いつものように迷いなく頷いた。
「ええ、リディア。約束します」
「きっとよ。アーヴィン」
そんな別れから六年。再会してから三ヶ月。
約束を交わしたかつての少年は、今や立派な騎士となり──何故か爵位を獲得していた。
「──なんでそうなるのよ!?」
頭の中を過去の記憶がめぐっていって、リディアは思わず声を上げた。
以前と同じく応接室で目の前に腰かけるアーヴィンは首を傾げた。心なしか身なりがよくなった姿で。
「なぜとは? 身分が違う、と断ったのはリディアでしょう」
「爵位って三ヶ月で用意できるものなの!?」
「遠征に参加し、王都の討伐台帳に名の載る魔獣を二体討ってきました。領地もなく一代限りではありますが、今の俺は男爵です」
顔色ひとつ変えずに言う。
そういえば、少し前に魔獣討伐遠征の報を新聞で目にした覚えがある。北方災害の残党を掃討するため、王都騎士団と各地の精鋭が組まれた大掛かりな遠征だ。
弱冠十八歳のアーヴィンが手柄を立てるには、そんな他の面々を押しのけねばならないわけだが──
彼はなんと二体を討った。
爵位を得る、そのためだけに。
「ど、どうしてそこまで……!?」
「約束ですから」
アーヴィンは即答してから、ふと声を落とした。
ただでさえ落ち着いた青の瞳がその静けさを増す。
「以前も言いましたが、この家の窮状は聞き及んでいます。当主のライアン様をはじめ、ベルナールの方々から受けた恩は計り知れません。今度は俺があなた方に御恩を返す番です」
「……」
すとん、とリディアの胸の中になにかが落ちた。
納得のような、落胆のような、よくわからないなにか。
結局彼は──真面目だからリディアとの約束を守り、この家に尽くそうとしているだけ。
「……あのね、アーヴィン。六年も前の約束なんて守らなくていいの」
リディアは静かな声でそう言った。
「あなたが約束を覚えていてくれたのは嬉しいわ。でも、あなたとの結婚は無理よ」
この家の苦労を一代爵位の彼に背負わせる必要はない。
家を建て直すためであれば、リディアは誰にだって嫁ぐ覚悟がある。だが現実問題として、アーヴィンと結婚したところでベルナール家に益はない。ただ彼に負担がかかる。
ベルナールの名は、今や祝いより先にため息と結びつく。
領地の収穫は戻りきらず、街道の荷もまだ細い。父の薬代も、屋敷の維持費も、帳簿の上ではひどく正直だった。
そんな家に、ようやく戻ってきた彼を繋ぎ止めることはできない。
「我が家には、もうロクに財産もないの。あるのは借財だけよ。それをあなたに背負わせる気はないわ」
ひとつ間を置いて、リディアはまっすぐに言った。
「だからあなたとは、結婚できません」
「……」
落ちた沈黙の中で、応接室の時計が小さく針を進める音が響く。
アーヴィンの表情は変わらない。怒ったのか、傷ついたのか、それともただ考えているのか、リディアには読めなかった。
だから背筋だけは伸ばしていた。
断る側にも、礼儀は要る。
「なるほど。わかりました」
そう言って、アーヴィンはすぐに立ち上がった。
あまりに迷いのない彼の動きに、リディアは一瞬だけ、あなたの気遣いは嬉しかったと言葉を重ねてしまいそうになった。けれど今それを吐いたところで本当に救われるのは、リディアの罪悪感だけだ。
それでは、と頭の上からひどく静かな声が降ってくる。
乱れのない足音が遠ざかるのを聞きながら、リディアはその音が完全に聞こえなくなるまでただ手元のカップを見つめていた。深い飴色をした水面が、白磁の中で小さく波を立たせていた。
「あら? アーヴィン、もう帰ってしまったの?」
不意に響いた明るい声が、沈黙を破った。
ゆっくりと扉を振り向けば、上の妹のアメリアが盆に茶菓子を乗せている。淡い黄色のドレスの裾を揺らしながら入ってくる様子は、重たく沈んだ応接室の空気にまったく似合ってない。
「帰らせたわ。求婚を受ける気はないもの」
努めて冷静に答えると、アメリアは茶菓子の盆を卓に置きながら首を傾げた。
「どうして? 討伐台帳に名が載る魔獣って、一体倒せば騎士団で五年は自慢できるやつでしょう?」
「どうしてって──」
反論しかけてから、半眼になる。
「……あなた、盗み聞きしてたの?」
「盗み聞きしてたのはエリーの方。私はエリーから聞いただけ」
そう言って、アメリアは応接室の扉に視線を向ける。つられるように目をやれば、末の妹のエリーが慌てて顔を引っ込めた。扉の影で隠しきれないリボンの影が揺れている。
思わずそちらを睨んでいると、アメリアがリディアの隣に腰を下ろした。
「求婚のために魔獣を狩って、爵位を取ってくるなんてね。アーヴィンって、昔からああよね。お姉様が『星が欲しい』と言ったときも、屋根に上ってたもの」
「……それ、結局断られなかったかしら。無理ですって」
「ええ、だから『物理的には無理ですが、魔術師ならそういった魔術を会得できるかもしれません』とか言って、騎士じゃなくて魔術師を目指しかけたでしょ。お父様とお母様がアーヴィンに説教するの、あのとき初めて見たわ」
その言葉で、いつかの記憶が蘇る。リディアはアーヴィンを止めるどころか、それだわアーヴィン、と囃し立てたものだから、ふたりまとめて両親に怒られた。人生の進路を変えるのが必ずしも悪いとは言わないが、煽るな、煽りに軽率に応えるな、と懇々と説教されたのは何歳の頃だったか。
「……よく覚えてるわね、そんなこと」
「あまりに馬鹿馬鹿しすぎて忘れられなかったもの」
アメリアは盆から摘まんだ茶菓子をひょいと口に放り込み、リディアの顔を覗き込む。
「受けてあげればいいのに。お姉様だって、本当は嬉しかったんでしょう? うちのことだって、アーヴィンがいいって言ってるなら別にいいじゃない」
「馬鹿を言わないで。そういう話じゃないのよ」
「あら。じゃあ、一体どういう話なのかしら」
どこか含みのある口調に、リディアは思わず眉根を寄せた。
家族といえど、不躾な踏み込みに付き合う必要はない。会話を打ち切るように勢いよく顔を背けると、傍らからアメリアがため息交じりに言葉をこぼした。
「……次は、子爵になって戻ってきたりして」
「まさか」
リディアは即座に否定した。
さすがにもう帰ってくることはないだろう──そう、思っていたのだが。
更に三ヶ月後。
「伯爵になりました。結婚しましょう」
「だからなんでそうなるのよ!?」
三度現れた男を前に、リディアは思わず声を上げた。
* * * * *
目の前に座るアーヴィンの騎士服はさらに上等なものになり、胸元に増えた勲章はひとつではない。応接室の窓から差し込む午後の光を受けて、嫌になるほど眩く輝いていた。
「東の巨大魔獣の巣をひとつ潰してきました。本来なら子爵相当だったのですが、東方防衛線の責任者に任じられたため、伯爵位を賜りました」
淡々と告げられたあとで、さらにとんでもないことを言われる。
「その戦功報奨金と領地収益を前借りに、ライアン様の了承を得て、あなたの家の借財も整理済です」
「なんで!?」
「あなたが気にされていたので」
「人生を抵当に入れないでちょうだい!」
爵位とは、血筋だけでなくどれほど民の脅威を退けたかによっても測られる。おそらく今回のアーヴィンがそうであるように、討伐した魔獣の縄張りをそのまま領地として下賜されることもあった。だから、成り上がりの騎士が貴族に叙されること自体は珍しくない。
珍しくないが──求婚を断られるたびに爵位を上げて戻ってくる男は、さすがに聞いたことがなかった。
しかもアーヴィンに至っては、おそらく理想や功名心で爵位を目指したわけではない。
身分が違うと言われたから男爵位を得て、借財があると言えば借財を整理して。
まるで道に落ちた小石を拾うかのように淡々と、結婚の障害をどけてみせた。
借財が片付いたことは、ありがたくないはずがない。
けれどその救いが、嬉しいのかと聞かれるとよくわからない。
「アーヴィン、あなた──」
未だ混乱したまま、それでもなにかを言わなければと口を開いたところで、ふと彼の袖口に目が留まる。わずかに覗いた手首には白い包帯が巻かれていた。
途端に、全身が冷えていく。
アーヴィンは真面目な男だ。昔からずっとそうだった。
リディアが星が欲しいと言えば屋根に上がり、相応しい騎士になって迎えに来てと言えば六年越しに約束を果たしに来る。
このまま断れば、アーヴィンはまた魔獣狩りに文字通り東奔西走しかねない。
ベルナール家のために、リディアとの約束を果たすために、彼は自分の持つものをなにもかも使ってしまう。
その真面目さが愛しくて、嬉しかったはずなのに。
今は、どうしようもなく怖かった。
「わかった! わかったわよ、あなたからの求婚を受けるわ! だからこれ以上、身を削って爵位を上げるのはやめてちょうだい!」
「削っているつもりはありませんが……リディア?」
リディアの瞳に涙が溜まっていくのが見えたのか、アーヴィンは珍しく眉をひそめた。
再会してから初めてわずかに崩れた無表情は、遠き日の彼を思い起こさせる。
その顔を見た途端、胸の奥で張り詰めていたものがぷつりと途切れた。
「──結婚の約束なんて、しなければ良かった」
半ば無意識のうちに、唇からそんな言葉が滑り落ちる。
アーヴィンが微かに息を呑む気配がした。リディアはこぼれる涙を見られたくなくて、それ以上に彼の表情を見たくなくて、逃げるように応接室を飛び出した。
廊下を駆けるたび、涙が頬を伝って落ちていく。
裾が足に絡み、呼吸が乱れ、それでも立ち止まれない。
どうして泣いているのか自分でもわからなかった。
彼の傷ついた手首から目を逸らしたかった。
貴族なのに、魔獣を討った彼の功績を喜べなかった。
リディアは彼のことが好きなのに。
アーヴィンは、恩と約束ばかりを口にする。
そして、その責任を負わせたのはリディアだ。
帰ってきてなんて。
私に相応しい騎士になって、なんて。
馬鹿みたいな約束を──しなければよかった。
「リディア!」
庭の植え込みの陰で蹲って嗚咽を漏らしていると、アーヴィンが追ってきた。
近づいて来た足音はすぐそばで止まる。けれどアーヴィンは、リディアの隣に腰を下ろさなかった。触れれば逃げられると思ったのか、植え込みの前で片膝をついたまま指先だけが宙を彷徨う。
「……笑ってくれるとばかり、思っていました」
アーヴィンは小さくそう言った。
その声があまりに途方にくれていたものだから、リディアは思わず顔を上げてしまう。涙で滲んだ視界の向こうで、彼は瞳を揺らしていた。
魔獣の巣を潰して伯爵位まで得たひとが、たったひとつ、リディアの涙を前にどうしていいかわからずにいる。
「なにが、足りませんか? どうすればあなたを笑顔にできますか?」
何故か今になって焦燥するアーヴィンに、リディアは困惑してしまう。
足りないものがあるとか、ないとか、そういう話ではない。
「違うの、違うのアーヴィン。約束さえしなければ、あなたが責任感を覚える必要なんて、戦地に向かう必要なんてなかったのに、って」
「責任感?」
「だってそうでしょう、あの、あのとき私が、馬鹿な約束を──」
「それは違います」
アーヴィンはどこか慌ててそう言った。
いつもの淡々とした声ではない。わずかに早く、わずかに強かった。
「俺は、責任であなたに求婚したわけではありません」
「でも、約束だからって何度も、それに、恩だなんて言うし」
「恩もあります」
「ほら!」
「恩があるのは本当です。約束を守りたいのも本当です。けれど、それだけならあなたに断られた時点で、ベルナール家に援助をして終わりにしました」
言葉を重ねるうちに、アーヴィンの口調に熱がこもる。
「俺が欲しいのは、ベルナール家との縁ではありません。あなたです」
「……それって……」
リディアは数度瞳を瞬かせた。その拍子に、またひとつ涙が頬を滑り落ちていく。
彼の言葉がすぐには理解できなかった。
理解したいのに、期待してしまうのが怖かった。
「なんだか私のことを、好き、みたいな……」
「はい。そうです」
一切の迷いなく言われる。
「子どものころから、ずっと」
あまりにあっさりと、あまりに当然のように言われるものだから。
リディアは、思わず頭を抱えた。
「そういう大事なことを、最初に言いなさい!」
「最初に求婚しましたが」
「順番が違うの!」
叫んだ拍子に、また涙が落ちた。アーヴィンの手がリディアの頬に伸びてくる。
約束だの、爵位だの、借財だの、遠回りにもほどがあるものばかりを差し出してきた指先が、躊躇いがちに、けれど優しく涙をぬぐった。
「その、リディア。ですから、俺と──」
「……それじゃ、ダメ」
子どものころ、彼を引きとめるために口にした言葉を今再びなぞる。
「私を好きって、ちゃんと言って。信じてあげるから」
「……ええ、リディア」
アーヴィンは、かつてのように迷いなく頷いた。
無骨な手がリディアの手をすくい取り、包み込む。戦場で剣を握ってきた手は硬く、けれど触れ方だけはひどく慎重だった。
アーヴィンの親指が、リディアの指先を一度だけなぞる。
確かにそこにいることを確かめるように。
「俺はあなたが好きです。結婚してください」
まっすぐな声だった。
今まで差し出されてきたどんなものよりも、不器用で、飾り気がなくて、だからこそ胸の深いところまで落ちていく。
返事をしたいのに、喉の奥が詰まってうまく声にならない。
代わりに、リディアは大きく頷いた。
その拍子に涙がひと粒、頬を伝って落ちていった。
* * * * *
手を取り合いながら屋敷へ戻る道すがら、リディアは隣を歩くアーヴィンを見上げた。
「……でも、本当に私でいいの? その、今のあなたなら引く手あまたでしょう」
口にしてから、リディアは少しだけ後悔した。彼の好意を嬉しく思うのに、まだそんなことを尋ねてしまう自分が情けない。
けれどアーヴィンは怒るでも呆れるでもなく、ただリディアの手を握る力をひとつ強くした。
「あなたが、帰ってきて、と言ってくれたので」
「え?」
「俺にはもう、帰る家がありませんでした。騎士学校へ入るときも、皆が快く送り出してくれた。厚意だとはわかっていましたし、感謝もしています」
そこで一度、彼は言葉を切った。
ふたりの間の沈黙を埋めるように、風が庭木の葉を小さく揺らす。
リディアが飛び出してきた屋敷の玄関は、もうすぐそこに見えていた。
「けれど、あなたは俺に『帰ってきて』と言ってくれた。待っていると、そう約束してくれました」
どこか遠くを見つめていた瞳が、リディアへ向けられる。
「そのとき思ったんです。リディアのいる場所へ帰りたい。あなたと、家族になりたい、と」
「………………」
なんだか、とんでもない告白をされている気がする。
いや、実際とんでもない告白だった。それでいてアーヴィンの瞳は一切の羞恥も揺らぎもなく、ただリディアを見つめている。
頬が熱くなるのを自覚しながら、彼の視線から逃れるようにリディアは俯いた。
「どうしてそれをもっと早く言わないの……」
「すみません。俺の気持ちはどうでもいいか、と」
「そんなわけないでしょう」
初めにそう言ってくれていたなら、リディアだってもう少し答えを悩んだに違いない。
もちろん、家が傾いているのは間違いないため、すぐ頷いたとまでは言わない。けれど少なくとも、彼の想いを恩や責任だと決めつけたりはしなかった。
結局は、その理由さえ彼の手で片付けられてしまったのだけれど。
リディアと結婚する。ただそれだけのために、爵位も、借財も、立ちはだかるものをすべてどかして。
呆れるほど真面目で。
ちょっと怖いほど一途で。
どうしようもなく、愛しい人。
「──そういえば、まだ言っていなかったわね」
戻ってきた屋敷の玄関前で、リディアは一歩、歩み出た。
栗色の髪を翻しながら振り向くと、アーヴィンに微笑みかける。
「おかえりなさい、アーヴィン」
アーヴィンが青い瞳を見開いた。
整った青年の顔から、騎士の礼儀も、貴族の威厳も、ほんの一瞬だけ抜け落ちる。
残ったのは、六年前にこの屋敷を出ていった少年の面影だった。
「……ただいま、リディア」
そう答える声は、凪いだ湖面のように静かで。
けれどリディアの手を握り返す指先は、温かくて強かった。
ふたりは手と手を重ね合い、屋敷の中へと戻っていった。




