映画『国宝』を観た帰り道
先週、隣県の映画館で、『国宝』を観てきた。
今年なにかと話題を呼んだ『国宝』。僕もいたく気に入り、今回で二度目の鑑賞だった。二度目となると、作り手目線から落ち着いて観ることができた。
作中、歌舞伎当主である花井半二郎(渡辺謙)の跡取り――俊介(横浜流星)と、極道の息子にして実力だけでのし上がってきた吉沢亮演じる喜久雄とが激しくぶつかり合いながらも友情を育んでいく。
一人前の役者になるには、厳しい下積み時代を耐え抜かなくてはならない。
なにかの本で読んだことがある――演劇に係わる人たちにとって、芝居のことを『観る天国、やる地獄』と表現することを。まさにそれを体現した半生を描く。
そんなある日、事故で入院した半二郎は、自身の代役に俊介ではなく喜久雄を指名したことから、二人の立場は逆転する。
歌舞伎役者の世界にとって世襲制は絶対である。血には抗えない。
にもかかわらず、半二郎はなんと喜久雄に演目『曽根崎心中』のお初の役をやらせる。実力があるからこそ、異例中の異例の抜擢だった。
いざ本番。
見事な喜久雄の芸を見せつけられ、観客席の俊介はいたたまれなくなって席を立ち、泣きながら劇場を去るシーンがある。高畑光希扮する春江が後を追い、慰める。
あのシーンは涙を禁じ得ない。『国宝』には他にも涙腺の緩むシーンが目白押しだ。
中盤をすぎたころ、反対に喜久雄がドサ回りに落ちぶれ、酔客から暴行を受けるエピソードがある。そのあと酒に酔い、建物の屋上でやけっぱちで踊るシーンも忘れられない。
紆余曲折の年月を経て、ついに喜久雄が人間国宝となる。
演目『鷺娘』で舞う姿の美しさたるや圧巻である。後半はほぼセリフはない。それがいい。吉沢亮の演技力の面目躍如であろう。
そして芸の高みで、紙吹雪が舞うのを喜久雄は目の当たりにする。今までの辛苦が報われる瞬間であった。
――このビジョンこそ、昨年観たクリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』に通ずるものがあった。
作中、オッペンハイマーも時折ふとした拍子にビジョンを見た。粒子の衝突、星の爆発、閃光。これらは彼の量子物理学的な思考と、原爆による破壊の予感が混ざり合った『内なる宇宙』とも言えるだろう。
そして『国宝』のエンドロールで流れる嫋々たる歌声に痺れるのである。
◆◆◆◆◆
映画館を出たあと、余韻にひたりながら、車で帰途についた。
某町の裏道を走っていた。交通量はほとんどない。
両側に民家がまばらにある直線道路を進んでいると、向こうに中学校の校舎と、高いネットに囲まれたグラウンドが見えてきた。道はゆるやかに右へ曲がっている。
そのグラウンド沿いの歩道に、上下赤いジャージと青のジャージを着た二人組が佇んでいた。
青い方はギターを抱え、弾き語りをしているらしく、口をパクパクさせているのが見えた。
かたや赤いジャージ姿は腕と身体をグネグネさせている。
車の速度を落とした。どうせ後続車もなかったのだ。
二人組の近くに迫った。
なんてことはない。例の芸人ではなかった。女の子たちが恰好を真似ていたにすぎない。恐らくこの中学の生徒ではないか。赤い方は髪の毛を三つ編みにしたメガネっ子だった。青も剽軽そうな子だった。
たぶん彼女たちは芸人志望で、度胸試しで路上でやっていたんだろう。他に見物人はいなかった。
その前を通りすぎるとき、僕はにっこり笑ってやった。
彼女たちの姿が後方に流れ、遠ざかった。
ルームミラー越しに見ると、二人は演じる手を止め、腹を抱えて笑っていた。
――やった。道行く誰かの笑いをとったと勝ち誇ったようだった。
君たちの未来に幸あれ、と僕は思った。
了




