第9話 灯台写本庫――海の風に署名を
王都を発って三日、海の匂いが風に混じりはじめた。
岬の上に白い塔が立っている。台座は古い修道院の石積みで、上部は新しい白漆喰。
塔の窓は斜めに細く、磨り硝子の向こうで何かがゆっくりと脈動していた。
「ここが“灯台写本庫”」
港町の老女――灯守のカヤが杖を突きながら言う。
「昔はね、灯りに文章を混ぜて沖へ流した。船は反射板で“返事”を寄越す。遠い向こうの世界とも、希に手紙が通ったよ」
ミナが目を輝かせる。
「光で通信、しかも文脈まで載せるなんて……最高の遺産」
カヤは目尻を細くした。
「だが今は灯が痩せている。誰かが“効能だけ”を抜いてったのさ。夜、沖へ暗い穴が口をあける。船がそこへ落ちる」
アゾートだ。
俺は塔を見上げ、輪を薄く広げた。
「〈神域加護・現況読取〉」
光の脈動に式が浮く。送信/受信/転写。そして……収奪。
「下層に奪う祈りのパッチが貼られてる。灯りに“ありがとう”が乗るたび、どこかの孤児院が冷える構造だ」
ガイルが奥歯を軋ませた。
「ぶっ壊すぞ」
「いや、組み替える。灯りは止められない。ここは海の道標だ」
俺は塔の扉に掌を当てた。
「中へ入る。カヤ、港で人を集めてくれ。“署名”を説明しよう。海の風にも“分かち合い”を載せる」
* * *
灯台の内側は、螺旋の書庫だった。
壁一面に航海日誌が鎖で括り付けられ、古い灯火器の反射皿が鏡のように階段に沿って並んでいる。
最上部――光室には巨大なレンズと、琥珀色の灯心。灯心は確かに痩せ、呼吸が浅い。
「〈神域加護・灯修〉」
灯心の代償を分割し、燃料の循環を署名と結びつける。
“灯約第一条:未成年の署名は無効/灯約第二条:代償は同意者で分配/灯約第三条:返還要求は常時受理”
レンズの縁に式を刻む。ミナが拡張の術式で書体を整え、ノエルが祈り糸で署名面を織り込む。
外から港のざわめき。
「漁師衆、船大工、旅芸人、巡礼……ずいぶん来たわね」ミナが覗き窓から手を振る。
「説明は任せろ」
俺たちは塔をいったん降り、広場に臨時の署名所を設けた。
「聞いてくれ!」
海鳴りに負けない声で、俺は短く伝える。
「この灯は、海を渡る祈りを運んでいる。だが今は“ありがとう”の重さがどこかに押し付けられている。――取り戻す。代わりに、分け合う署名をここに。痛みは薄く、灯は太くなる」
ざわめきが一瞬だけ静まり、やがて小さな頷きが波のように連なった。
最初に名を書いたのは、片足を失った若い漁師だった。
「俺の舟は、灯がなきゃ戻れねぇ。だったら、灯のために半歩分、息を分ける」
次に大工が、旅芸人が、巡礼が。
ノエルが板に“未成年は風鈴に印を――署名は無効”と大きく書き、子どもたちに小さな風鈴を配る。
鈴が鳴るたび、海風がかすかに軽くなった。
「帆にも署名を載せて」
ミナが白布と墨を広げ、簡易の刻印術式を教える。
帆綱に結ばれた布がひるがえり、名前が風に読まれる。
「**署名帆**だな」ガイルが笑って帆柱に体重をかける。
「これで灯と風が繋がる」
夕暮れ。初点灯。
レンズが回り、灯心が深く息をついた。
光が海面へ走る――その瞬間、暗い影が水平線から伸びた。
「編集嵐」
風の層に薄い赤が混じり、波頭の行間が削られていく。
塔の足元が微かに傾いだ。
「来たな」
アゾートは姿を見せない。だが、外の刃が海の文を書き換えようとしている。
俺は輪を灯心の下へ重ねた。
「〈神域加護・灯輪〉――灯の回転そのものを“分かち合い”にする」
港の署名、帆の署名、風鈴の印、王都の広場――すべての署名が灯の脈に結びつき、光が文になる。
――・―― ・・-・・ ・-・-・・
ミナが息を呑む。「灯字……“共有・同意・返還可”をモールスで繰り返してる!」
ノエルが祈り糸でコードを和文に縫い直し、ガイルが塔の振動を肩で受ける。
嵐の縁で、編集師が現れた。定規と銀カッターを構え、海図の線を切り換える。
「航路最適化。不要な回り道を削除」
「回り道の余白に人が生きてるんだよ」
俺は輪を羅針に変える。
「〈神域加護・北極星の脚注〉――最短でないが最善の線に注を打つ」
灯輪が一度強く明滅し、海図の端に小さな星が点った。
編集師の刃が滑る。
切れない。**“注”**に刃は通らない。
その時、塔内の階段で靴音。
白衣がレンズの反射に揺れ、アゾートが光室の入口に現れた。
「灯は美しい。だからこそ、安く買いたい者が多い」
彼は懐から小瓶を取り出した。
瓶の中で子どもの笑い声が微かに弾ける。
「返せ」
俺の声は低かった。
「今は使わない。投資だよ」
アゾートは瓶を灯心の影へかざしかけ――
ノエルの祈り糸が瓶の首を絡め、止めた。
彼女の喉が震える。
「……やめて」
かすれた、半音の声。
アゾートの瞳がわずかに見開かれる。
「消去層で拾ったか。声の欠片を」
「拾ったのは――戻る場所です」
俺は輪を灯心の外縁まで押し出した。
「〈神域加護・返還路〉」
瓶の封が外側へ膨らむ。
ミナが印字術式で“差出人に返す”と刻み、ガイルが柄で瓶底を軽く打つ。
笑い声は海風に解け、港のどこかで風鈴が鳴った。
アゾートは肩をすくめ、白衣の裾を整えた。
「返す。その選択は美しい。だが、灯は海だけを照らすわけじゃない」
彼が指でレンズを叩く。
灯輪の文が外へ漏れ、水平線の先に薄い裂け目が開いた。
そこから、赤い筆の尾を引く巨影が現れる。
――赤鯨。
海面を一行で訂正できる、外部規則の化け物。
「編集嵐の本体、お出ましか」
ガイルが斧を握り直し、ミナが炎を細く長く伸ばす。
ノエルは灯心の側に立ち、風鈴を両手で包む。
「来るぞ!」
赤鯨の尾が一振りで、港の説明が一段削られた。
堤の石積みは「そこにある」という文を失い、傾ぐ。
俺は輪を港にまで拡張し、署名帆と風鈴を束ねた。
「〈神域加護・港契〉――この港は、互いに支える」
柱と梁、網と杭、舟と手。“互いに”という語が港を縫い、傾きは止まる。
赤鯨が低く唸り、海面に校正記号のような渦が走った。
「灯輪の出力、あと二段上げられる」ミナが額の汗を拭いながら叫ぶ。
「でも代償が――」
「分ける」
俺は短く答え、港の署名所へ視線を送る。
カヤが頷き、列の先頭から両手を広げた。
人々が肩を組み、手をつなぎ、風を渡す。
――等呼吸。
輪が太る。灯が深く息をする。
赤鯨の尾がもう一度振られた瞬間、俺たちは先に文を置いた。
「〈神域加護・潮正誤表〉――削る前に、誤りを先に示す」
海面に白い紙片のような光が浮かび、そこに注記が踊る。
『この回り道で救われる舟が三』『未成年の署名は無効』『返還経路は確保済』
赤鯨の筆が止まる。
“正誤表”は、外の規則でも先に読むものだ。
アゾートが片手を上げ、赤鯨の背で軽く指笛を鳴らした。
「……今日はここまでにしよう。灯台は並走層の縁だ。君らの“輪”はここでは強い」
「逃げるの?」ミナが火花を散らす。
「退く、だ。次は灯じゃない。受信のほうを書き換える。――灯が拾う物語を、選び直す」
彼は赤鯨の背へ跳び上がり、裂け目の向こうへ消えた。
嵐は少しずつ退き、赤の色が海に溶ける。
灯輪はなお回り、港の呼吸は落ち着いた。
カヤが塔の踊り場まで駆け上がり、手すりを叩く。
「見たかい、あんたら! 灯が重くなって、風が軽い!」
歓声。風鈴の音。署名帆が夕焼けを掬い、港はひとつ長い息をついた。
俺は灯心の脈を確かめ、輪を薄くする。
ノエルが喉に手を当て、小さく息を漏らした。
「……灯して」
二音。半音にもう半分が加わる。
ガイルが肩で笑い、ミナが目を潤ませる。
「次は受信だね」
「“向こう”から来る物語の選び直し。アゾートの狙いは、救いの証拠を減らすことだ」
俺は灯室の窓から、沖に浮かぶ黒いブイを指した。
「見えるか? 境界ブイ――外への受信路を束ねている。あれを書き換える気だ」
その夜、港は祝祭のように明るかった。
だが、灯台の下の波間で、見えない手がブイの係留索を撫でていた。
受信の心臓が、音もなく別の拍を覚えようとしている。
俺は皆を見渡す。
「二手に分かれる。ミナは塔に残って灯約の更新、ガイルは港の港契の巡回。ノエルと俺は夜明け前に境界ブイへ出る」
ノエルが頷き、掌に短く書く。
『迎える準備』
潮は満ち、星が低くなる。
海の向こうの未記述から、誰かの手紙が来る。
それを、誰の手に渡すか。
アゾートはそこで書き換えを仕掛けるはずだ。
灯は回る。港は息をする。風鈴が夜を縫う。
俺は輪を胸の奥で小さく灯しながら、眠らない海を見張った。
――最終章へ向けて、灯りは海図を描き直しはじめている。
(第10話「受信の改稿――境界ブイと赤鯨の罠」につづく)