第8話 消去層――書かれなかった祈りの底へ
境界の書庫からさらに下へ降りる方法は、たったひとつだけだと司書は言った。
「言葉を捨てること。ここより下は“未記述”の層。余計な語は重石になって沈む」
「何を捨てる?」ミナが眉を寄せた。
「自分を固定する定義の一部。たとえば“英雄”“聖女”“勇者の仲間”――肩書きの鎧だ」
司書は白紙の短冊を四枚、風に乗せて俺たちへ飛ばす。
「返札に“いま要らない言葉”を書いて置いていく。戻るときに拾える保証はない。それでも行くのかい?」
俺は迷わず短冊に書く。
『無能』
追放の日から胸のどこかに刺さっていた語。俺はそれを静かに短冊に置いた。
ミナは『天才魔術師』と書いて笑う。「調子に乗るから一度外す」
ガイルは『最強前衛』を線で消した。「肩書きじゃなくて、仲間でありたい」
ノエルは長く迷い、ゆっくり指先で書いた。
『声を失った女』
四枚の返札が、書庫の床に吸い込まれる。同時に空気が少し軽くなった。
司書が頷く。
「では、消去層へ――“沈黙井戸”を抜けなさい。底で、君たちの支援は定義ではなく現象になる」
* * *
落ちていく、というより、語彙が剝がれていく感覚だった。
色が減り、音が薄れ、輪郭が鉛筆の下描きみたいに頼りなくなる。
やがて、重い静けさの底に触れた。そこが“消去層”だ。
地面は灰の粉。歩くたび、足跡はすぐに無かったことになる。
遠くに黒い井戸が口を開けている。
縁には細い札が数え切れないほど結ばれていた。どれも文字が滲み、最後は白紙に戻っている。
ノエルがそっと札に触れる。
『ありがとう』――かすれた一語だけが残り、指先の熱で崩れて消えた。
彼女の肩が、わずかに震える。
「ここで祈りは沈む。言葉になる前の祈りも、言葉にできなかった祈りも」
俺は輪を広げる。
「〈神域加護・拾遺〉――消された痕跡だけを集める」
灰が舞い、微かな光点が輪の中に寄ってくる。息の音、布の擦れる音、名付けられなかった想い。
ミナが両手で受け皿を作り、ガイルが背で風を防ぐ。
ノエルは祈り糸をほどき、光点を一音の欠片に紡いだ。
そのとき、井戸の向こう側で、白衣が翻った。
アゾートだ。
「君たちも落ちてきたか。ここはいい。責任が沈む」
男は井戸の縁に札を投げ入れながら、涼しい声で続ける。
「分かち合いも、ここでは定義だ。定義は消える。現象だけが残る。つまり――結果だけが美しい」
井戸の底から黒い索引糸が伸び、札を絡め取って沈める。
ノエルの指が震えた。
『村の名を返して』
「名か」アゾートは目を細める。
「名は便利だ。名を切れば、物語から落ちる。君たちの輪も、名を失えば、ただの光だ」
空気が冷える。
灰の地平から、消去官が歩いてくる。
校閲者よりも古い。顔の中心に丸い穴が開き、指先は消しゴムの粉で白い。
彼らは無音で近づき、俺の輪に指を当てた。
消す、という動き。
輪の縁が粉になって落ちる。
「――っ!」
寿命の薄皮が、まとめて剝がれた感覚。歯を食いしばる。
ミナが叫ぶ。「輪の意味を現象へ!」
わかってる。
俺は輪に注釈ではなく実演を流し込む。
「〈神域加護・等呼吸〉――ここにいる全員の呼吸を、半歩だけ軽くする」
範囲が広がるほど代償は重い。だが、分け合えば薄くなる。
ガイルが斧を支えにし、ノエルが掌で俺の背を支える。ミナが輪の温度を体温と同じに保つ。
呼吸が通る。
“現象”は、消せない。
消去官の指が一度止まり、穴の奥で黒い光が瞬く。
「面白い」アゾートが拍手をひとつ。
「であれば、名を消そう。名は現象ではない。符号だ」
黒い索引糸が俺たちの胸元へ伸びる。
ノエルの“印”がふっと薄れ、ミナの名札がくすみ、ガイルの名の骨格が解けていく。
「させるか」
俺は右掌を胸に当てた。
「〈神域加護・名持/共同署名〉」
王都で刻んだ分かち合いの署名が、輪を介して呼応する。
広場の列、教会の前、兵舎の脇――名前を持つ人々の同意が、遠い鐘のように重なって響く。
“未成年の署名は無効”――子どもたちの名は守られ、代わりに大人の署名が楔になる。
索引糸は、署名に触れた瞬間、読み取り専用になって止まった。
アゾートの瞳がわずかに揺れる。
「君は本当に仕組みを作る……厄介だ」
消去官が指を替え、理由を消しにきた。
なぜ助ける? なぜ分け合う? なぜここにいる?
理屈が削られ始める。
ミナが青ざめた。「理由が薄くなる……頭が空白に――」
「理屈が消えるなら、約束で繋ぐ」
俺は輪の中心に、短く書いた。
『戻る場所は、わたしたち』
ノエルの“印”がそれを囲い、ガイルが「おう」と笑って斧の柄で句点のように床を叩いた。
約束は理屈の外側にある。
消去官の穴がわずかに縮む。
「終わらせようか」アゾートが井戸の縁へ片足をかける。
「ここで国の名を半分ほど沈めれば、君らの輪は支える対象を失う。美しい“現象”は成立しない」
井戸の中で、黒い渦が逆巻く。
沈むのは“名前のつかなかった災厄”、呼吸の最後のひと掠れ、言いそびれたごめんとありがとう。
俺は輪を深化させる。
「〈神域加護・拾遺照〉――沈む前の欠片に印をつけ、浮力を与える」
輪の下縁から柔い灯が揺れ、渦の縁に手すりができる。
ノエルが糸で手すりを縫い、ミナが明滅のリズムを整え、ガイルが倒れかける札を肩で受け止める。
いくつかの祈りが沈まず、輪の中に残った。
『見つけてくれて、ありがとう』『間に合わなかったけど、好きだった』『次は助ける』――
短い文が、灰の空気に灯る。
アゾートが息を吐いた。
「君は“消去”を否定しないのだな」
「必要な忘却はある。だが、奪う忘却は要らない」
俺は視線を上げる。
「返せるものは返す。沈むものは、選んで沈める。選ぶのは加害者じゃない――持ち主だ」
男は肩を竦め、白衣の内側から薄い刃を出した。
刃は紙のように白く、切るというより無に合わせる道具だ。
「では、君の輪を君自身に合わせよう。君の寿命の深さに」
刃が振られ、輪の内側に穴が開く。
温度が下がる。世界が遠くなる。
――ここだ。
俺は自分の恐れに気づいた。
輪が広がるほど、俺は薄くなる。
その薄さを、誰にも見せたくなかった。弱さとして。
ノエルが袖を引き、掌を重ねた。
『弱さを分けて』
ミナが笑い、輪の温度を上げる。
「弱いの、順番だよ」
ガイルが斧で俺の背をどんと押した。
「頼れ。いつも頼られてっからよ」
視界が戻る。
俺はうなずき、輪に最後の式を刻んだ。
「〈神域加護・弱さ共有〉――痛みと同じく、弱さも分かち合う」
輪の光が和らぎ、人肌の温度になる。
消去官の指が止まり、穴の奥で黒い光が揺らいだ。
“弱さ”は消しにくい。消す規則のほうが、弱さを材料に立っているからだ。
アゾートは刃を下ろし、ため息をついた。
「君はやはり詩人だ。ここまで来てなお、分けるほうを選ぶ」
井戸の渦が静まり、灰の地平に薄い道が現れる。
「次は境界の下でも上でもなく、並走して会おう。消去でも改稿でもない、競合として」
男は白衣を翻し、灰の向こうへ歩き去る。
索引糸が道に沿って伸び、彼の影を隠した。
沈黙が落ちた。
俺は膝に手をついて息を吐く。
ノエルが掌を重ね、短くお礼を描いた。
『ありがとう』
ミナが肩を叩く。「帰ろう。返札、拾えるといいけど」
ガイルが笑う。「拾えなきゃ、新しいのを皆で書きゃいい」
来た道へ引き返す途中、灰の中で小さな音がした。
振り向くと、白い札が半分だけ顔を出している。
ノエルが拾い上げる。
そこには、震える字でたった一語。
『声』
彼女は唇を開き、音にならない息を一度だけ漏らした。
輪がやわらかく震え、彼女の喉にかすかな温度が戻る。
司書の声が遠くで響いた。
「拾えたね。全部じゃないが、半音」
灰の空が薄く割れ、境界の書庫の光が差す。
俺たちは階段を上がるように、光へ戻った。
* * *
書庫で司書は短く拍手した。
「消去層で“現象”に輪を変えた。戻ってこられたのは、輪が戻り道の概念になったからだ」
「返札は?」
司書は棚から四つの封筒を取り出し、ひとつずつ渡した。
ミナとガイルのはそのまま。俺の『無能』は、封筒の中で灰になっていた。
ノエルの封筒には――『声を失った女』の語尾だけが消され、**『声を失っ――』**で止まっている。
「続きは自分で書け、ということさ」
司書は最後に一枚の地図を広げた。
王都から北西へ伸びる詩の街道。その外れに、古い灯台が記されている。
「灯台(ビacon)写本庫。海の向こうの世界と祈りを灯でやり取りしていた場所。いまは並走層に沈みかけている。アゾートは次、そこを書き換えに来る」
地図の端に、手書きの注記。
『最終章は海で』
ミナが息を弾ませる。「最高の舞台じゃない」
ガイルが肩を回す。「潮風はうまい」
ノエルは掌に『行こう』と書いて見せた。
俺は頷き、輪を軽く開いた。
「分かち合いを海にまで。――行こう」
書庫の扉が風に鳴り、紙の匂いが背中を押した。
外の世界は、夕暮れの手前。朱色の光が尖塔の影を長くする。
俺たちは王都へ一度戻り、レオと王に報告を入れる。署名は順調に増え、代償は薄く分かち合われ、街路に深い呼吸が広がっていた。
レオが言った。
「海だな」
「ああ。最後の三章を、そこから始める」
手を握り、短い笑いを交わす。
分かち合いの輪は、世界の呼吸へと変わりつつあった。
――次は、灯台。
未記述の余白にも、消去の底にも、脚注は届く。
それなら、海の風にも。
(第9話「灯台写本庫――海の風に署名を」につづく)