第7話 境界の書庫――物語の外から来る影
王城の階段を上がって地上へ出ると、風の匂いが違っていた。
甘い腐臭は消え、代わりに乾いた土と焼きたてのパンの匂い。遠くの市場から子どもの笑い声。
――回路は働いている。
「分かち合い」の式は王都全域へと伸び、署名所が仮設で立ち始めていた。兵舎の前、教会の前、広場の片隅。
自ら代償に名を記す者、痛みを薄く分け合う者、迷う者に説明する書記。
痛みは消えない。けれど、独りではない痛みになっている。
「やることは山ほどあるな」
呟くと、ミナが胸を張った。
「署名の説明文を簡略化したよ。“三行で分かる分かち合い”。図解つき」
「助かる」
ガイルが肩で笑う。
「俺は署名台を運ぶ。重いもんは任せとけ」
ノエルは無言で小さく頷き、手元の板に素早く祈り文字を書いた。
『子ども優先。未成年の署名は無効――大きく』
ミナが「了解」と板に魔力で印刷術式を重ねる。
そこへ、勇者レオが歩いてきた。
「王は諸侯へ通達を出した。署名所は各都市にも設置される。……だが、敵も動くだろう」
「アゾートだな」
「やつは“外”を目指すと言った。国境の外ではない。“物語の外”だ」
レオは一瞬、口角を引き結んだ。
「王城記録庫を探らせた。“物語の縁”に関する古文書があった。――境界の書庫。世界と世界の間、祈りと祈りの継ぎ目にある場所。そこから、まれに“外”が覗くという」
ノエルが袖を引く。
『アゾートの袖から取った“座標のささくれ”、覚えている?』
「もちろんだ」
俺は彼女の掌に触れ、そこに残された黒い糸片を覗き込む。糸の表面に、微細な座標式。
「……合う。境界の書庫の“呼び出し座標”。やつはあそこへ逃げた」
レオの視線が強くなる。
「俺は王都を守る。お前たちは行ってくれ。外から来る影は、俺たちの剣では斬れない。――支援の輪を、外へも広げてこい」
「任せろ」
握手を交わすと、レオはわずかに笑った。
「戻ったら、一杯やろう」
「ああ。痛みを薄める水でな」
「それは水だ」
短い冗談が、戦友の温度を運んだ。
* * *
王都の北門から外へ出て、ゆるやかな丘陵を三つ越えた先に、古い石橋がある。
橋の欄干に、光の傷が細かく走っていた。
「ここだ」
座標の糸片をかざすと、空気が薄膜のように震え、川面にもうひとつの川が重なった。
水なのに、紙の匂い。
紙なのに、風のさざめき。
「よし」
俺は掌を輪にかざし、薄く支援を広げた。
「〈神域加護・縁結〉――輪を“向こう側”へも伸ばす。ミナ、熱の偏りに注意。ガイル、足元と上から来る圧力に対して肘を柔らかく。ノエル、輪の縁の言葉を読んで」
『任せて』
三歩、四歩――川面の上を歩くようにして、俺たちは世界の隙間に入った。
空が狭い。色が薄い。
歩くたび、足元で文字が砕ける音がした。
そこに、扉が立っていた。
木でも石でもない。薄い白紙を何百枚も重ねて圧したような質感。
扉の中央には、黒い栞。
「開けるぞ」
掌を当てると、紙束の繊維がほどけていく。
中は、書庫だった。
無数の書架が、空に向かって伸びている。
天井は見えないし、床も確かめようとすると遠ざかる。
棚板の一本一本に、祈りの文型、神話の断片、寓話の骨格、個人の日記、無名の落書きまで、あらゆる“言葉”が標本として刺さっていた。
気配は静謐だが、どこか寒い。
“ここには、生き物がいない”。
「ようこそ、境界へ」
声は背後からではなく、本の影からした。
振り向くと、白い長衣をまとった人物が、書架と書架の狭間に立っている。
髪は灰、瞳は薄い墨。性別も年齢も輪郭が曖昧だ。
「私は司書。名は、イグナ・リム」
ミナが囁く。
「“イグナ”って、点火(ignite)の……」
「言葉遊びは好きだよ」
司書は微笑んだ。
「あなた方の目的は“外”を目指す者の追跡。――アゾート、だね」
「居場所を知っているのか?」
「知っているとも。ここに来るものは、すべて痕跡を残す。彼は“物語外注の回廊”へ向かった」
「回廊?」
「物語を外に流し、外から編集を呼び込む抜け道。祈りだけじゃない。英雄譚も、悲劇も、都合よく書き換える術式の通り道だ」
司書はうなじに指を当て、軽く首を傾げた。
「君たちの“分かち合い”は、物語に重力を与えた。利得だけ吸って逃げる漂流者には重たくて、いやだろうね」
ガイルが一歩進む。
「案内してもらおうか」
「その前に、署名を」
司書が掌を差し出した。
薄い透明な板――署名版。
「ここで起こることはすべて“記録”される。記録は痛みを伴う。目撃の代償を支払う意思があるかどうか。――署名は“分かち合い”でもいい」
俺は迷わず名を書いた。
ミナ、ガイル、ノエルも続く。ノエルは印を描いた。声を持たない彼女の“名”は、祈りの形で示される。
「よろしい」
司書は袂から細い糸の束を取り出し、俺の掌に結んだ。
「“書庫紐”。迷ったら引けば戻れる。ただし――戻れるのは“ここ”までだ」
「その先は?」
「“外”に近い。戻る場所の概念が曖昧になる」
司書の瞳は、どこか遠い悲しみを湛えていた。
「では、案内しよう」
* * *
回廊は、余白だった。
本文の外、欄外、脚注と脚注の間。
白い壁に、薄灰の線が幾何学的に走り、時折、外側から編集の手がすっと差し込まれて、線の一部を消したり、別の線を引いたりする。
「気をつけろ」
司書の声が低くなる。
「“編集師”がいる。物語を切り貼りし、合わない部分は削除する。その刃は、祈りより速い」
その時だった。
空間の向こう側で、紙が破れる嫌な音がした。
黒い外衣が翻り、細身の影が回廊の角を曲がっていく――アゾートだ。
「追う!」
俺は輪を広げ、足元の摩擦を薄くし、滑るように走った。
ミナの炎が目印となる線を床に描き、ガイルが後方から迫る影を肩で弾く。
ノエルは掌を前に差し出し、白い糸を紡いで回廊の傷を仮繕いする。
回廊は呼吸するように伸び縮みし、方向感覚を奪おうとするが、手首の書庫紐が微かな熱で正しい向きを教えた。
角をもうひとつ曲がったところで、彼らに遭遇した。
編集師。
顔がない。口元だけがあり、刃のように薄い笑いだけが浮いている。
手には長い定規と、銀色のカッター。
「削除対象を確認」
声はがらんどうの箱の響き。
「支援輪、物語重力、非効率――削除」
「させるかよ」
ガイルが斧を構えると、編集師が定規を振った。
空間が二つに裂ける。
俺の目の前でミナが紙のように薄く引き延ばされ、次の瞬間、押し戻された。
「っつ……! 危ない、これ、物語の厚みを切ってる!」
ミナの声が遠く低く響く。
「リオン、輪を**“綴じ”に切り替えて!**」
「いける」
俺は掌を合わせ、輪の式を変更する。
「〈神域加護・綴環〉――切られたら、閉じる。分かたれたら、結ぶ」
光の輪が、紙の穴をホチキスの針のように綴じていく。
編集師が首を傾げた。
「非対応……追加関数……削除」
定規が再び振られ、今度は名前を狙ってきた。
見えない線がノエルの胸元へ。
――名を切られた者は、物語から滑り落ちる。
俺は躊躇なく寿命を一枚焼いた。
「〈神域加護・名持〉――名を輪で守る!」
ノエルの前に透明な札が立ち、彼女の“印”がそこへ写る。
編集師の線はすべり、床に浅い傷だけ残した。
「ミナ!」
「任せて!」
彼女は炎を極薄にし、インクの膜として空中に広げた。
編集師の定規が膜を撫でると、インクが削除線のベクトルを可視化する。
「右四十五度、長さ七!」
「ガイル!」
「うおおお!」
ガイルの斧が線の根元を叩き、編集師の手首を揺らす。
刃先から音のない火花。
編集師が後ろへにじる。
「非効率……非効率……」
声の奥で、別の低い声がした。
「退け。あれが来る」
空気が沈む。
回廊の向こう、アゾートが立ち止まり、こちらを振り返っていた。
男の背後、余白から黒い手が伸びる。
編集師たちの親。――校閲者。
白い手袋をした手が、回廊の一部を指でなぞる。
そこにあったはずの角、分岐、足跡、すべてが消える。
「……まずい」司書が蒼白になる。
「校閲者は存在の一貫性を保つために“矛盾”を消す。君たちの輪は、彼らから見れば矛盾だ。痛みが“分かち合われる”など、物語の外部規則には存在しない」
「なら、外部規則の側へ輪を伸ばす」
俺は輪に注釈を加えた。
“この輪は、脚注として存在する”。
“本文を壊さず、意味を補う”。
“矛盾ではなく、補遺”。
校閲者の指が輪の縁に触れた瞬間、すべらされた。
手袋の表面に薄い注釈が貼りつき、指が輪郭を掴めない。
「規則外……脚注処理……」
声が遠ざかる。
その隙に、アゾートが走る。
男の白衣の裂け目から、ささくれの座標がちらりとのぞく。
ノエルが跳び、掌の祈り糸を投げた。
糸はアゾートの袖の記録を掠め、座標の片鱗を引き抜く。
アゾートが一歩、足を踏み外す。
「……相変わらず厄介だな、沈黙の聖女」
彼は微笑んだ。
「分かち合いは美しい。だが、美しさは高くつく。君はどれだけ払える?」
「分け合う」
俺が答えるより早く、ノエルの指が動いた。
『四人で』
ミナがうなずき、ガイルが斧を握り直す。
輪が密になり、俺の寿命の剥離は四分の一に薄らぐ。
――いける。
「司書!」
俺は振り返る。
「この回廊の“出口”は?」
「目次だ」
司書は袖の中から薄い紙片を出して風へ解かせた。
空中に、章の羅列。
“導入”“試練”“喪失”“再会”“選択”“再編”“外部への手紙”――
「彼は“外部への手紙”へ向かっている。外へ援軍を求め、こちらを書き換えさせるつもりだ」
「させない」
俺は輪の前縁を矢の形に整えた。
「〈神域加護・文脈加速〉――僕らの“次”を先に読む」
足元の回廊が前倒しで畳まれ、俺たちはアゾートの前へ回り込む。
男の眉がわずかに上がる。
「読者ごっこは好きじゃないが、面白い手だ」
彼は懐から封筒を取り出した。
宛先は空白。差出人は“物語の外”。
「ここで別れよう。続きを外で読む」
封筒が開き、紙の風が吹く。
回廊の碑文がめくれ、世界がひとつ、裏返る。
――輪が滑る。
外の風は、輪を想定していない。
このままでは、輪が切れる。
「ノエル!」
彼女は躊躇なく書庫紐を俺の手首からほどき、自分の腕に巻き直した。
『私が留める。あなたは“外”へ届かせて』
「でも――」
『戻る場所は、わたしでいい』
その手の動きは、静かで、恐ろしく強かった。
俺は答えず、輪へ脚注をもう一枚差し込む。
“この支援は、往復する”。
“外からも、戻れる”。
ミナが炎で栞を描き、ガイルがそれを楔にする。
司書が最後の忠告を置いた。
「外では因果が鈍い。助けてから理由を探すことになる。――あなたには向いてる」
「上等だ」
アゾートが風の向こうに溶ける。
俺たちは輪の前縁を槍にし、紙の風へ踏み込んだ。
世界の継ぎ目が、音もなく割ける。
* * *
――落ちたのは、書きかけの世界だった。
空は途中で途切れ、街は透過している。
人々の輪郭は鉛筆の下描きのように薄く、台詞は空白。
向こうから、書き手が歩いてくる。
顔がない。手だけがある。長い筆を持ち、地面に文を描いていく。
描かれた文は、すぐに消える。
「試筆世界か」ミナが息を呑む。
「物語が外側から試される場所」
アゾートは書き手のそばに立ち、何事か囁いた。
書き手の筆がこちらを向く。
「――あなたたちは、“設定上、不要”」
音が空気を書き換える。
ガイルの足元から地面の説明が消え、膝が沈む。
ノエルの“印”が薄くなる。
俺は輪を全開にし、脚注を乱打した。
“不要の定義の再検討”、“代替不可の関係性”、“証拠:分かち合いの実施例”。
空気が粘り、筆先が滑る。
書き手は首を傾げ、筆の色を変えた。
「――じゃあ、証明して」
「証明なら、得意だ」
俺は輪の中心に立ち、四人を見渡す。
「ここで一つ、物語をやる。外でも通る、たったひとつの物語だ」
輪の縁に、三つの名前を書いた。
“救われるべき子”。“傷だらけの町”。“疲れ切った書き手”。
そこに、たったひとつ“手を伸ばす者”の名。
――俺ではない。四人の輪だ。
「〈神域加護・簡素劇〉――今ここで、現実を一枚軽くする」
輪の光が試筆世界へ薄く流れ込み、近くの路地の影が少しだけ薄くなった。
泣いていた子の肩が、わずかに楽になる。
空白の台詞に、一行だけ文字が現れる。
『ありがとう。理由は知らない。でも、息がしやすい』
書き手が立ち止まった。
筆の先から、ためらいが落ちる。
「外の規則にも、ありがとうはあるのか」
「どこにでもある」
俺は答えた。
「それが言えない世界なら――書き直せ」
アゾートが肩を竦め、笑った。
「詩人め。だが、面白い。続きを外で読もう」
彼はまた封筒を開こうとした。
その袖を、白い糸が掴む。
ノエルだ。
『祈りを返して』
男は目を細めた。
「復讐の順番は“あと”だろう」
『順番は、わたしたちが決める』
ミナが手を伸ばし、輪の縁をノエルの糸に重ねる。
ガイルが斧の背で封筒を打ち、紙の風を逸らす。
俺はアゾートの胸元――記録に手を当てた。
「〈神域加護・記憶返還〉」
男の白衣の下から、祈りの残渣がほどけて出る。
小さな祈り、かすかな祈り、薄れゆく祈り。
輪の中で、それらはもとの持ち主の方向へふわりと流れた。
アゾートの顔から笑みが消えた。
「……本当に“返す”のか。無駄だ」
「無駄かどうかは、返された側が決める」
俺は手を離す。
男は一歩、下がった。
書き手が筆を下ろし、こちらを見ている。
「――あなたたちは必要。理由は後から書く」
筆先が空へひと文字だけ描いた。
縁。
「ここから先は、私の領分だ。あなたたちは帰りなさい」
書き手の声は、疲れていた。けれど、少しだけ軽かった。
アゾートは封筒を胸に抱え、薄く会釈した。
「今日のところは退く。だが、物語は競合する。美しさ vs. 効率。次は、外ではなく――**境界の“下”**で会おう」
男は紙の影へと溶け、消えた。
世界が折りたたまれ、輪が元の回廊へ戻る。
司書がひとつ息をついた。
「……よくやった。ここまで来て“返す”選択をする者は少ない」
「返せるうちは、返す」
俺は笑った。
「そのほうが、輪が広がる」
ノエルがふらついた。
寿命の剥離が、彼女の指先を薄く冷たくしている。
俺は彼女の手を包み、輪を分厚くして温度を戻した。
『ありがとう』
短い手話。
ミナが肩を貸し、ガイルが背負う荷を増やした。
「戻ろう」
司書が書庫紐を引く。
回廊の余白が狭まり、書架と書架の間に王都の光がのぞく。
「最後に、伝えておく」司書は足を止め、静かに言った。
「**境界の“下”**とは、消去層。書かれなかった祈り、言葉にされなかった痛み、届かなかった“ありがとう”が沈む場所。
アゾートがそこへ向かえば、彼は“消去”の名で多くを奪うだろう。――次は、もっと冷たい」
「行くさ」
俺は頷く。
「下へも輪を持っていく。脚注では足りないなら、正誤表ごと持ち込む」
司書の唇が、わずかに笑みの形になった。
「読者がいる限り、物語は直る。――君たちは良い読者だ」
* * *
王都に戻ると、夕陽が尖塔を朱に染めていた。
広場では署名所の列がゆっくり伸び、誰かが痛みの薄まりに小さく息を吐く。
その一呼吸の軽さが、空の色をほんの少し変える。
レオが待っていた。
「戻ったか」
「ああ。外は、思ったよりも人間的だった」
「人が書くからな」
短い会話の後、レオはノエルの手の冷たさに気づき、眉を寄せた。
「無理はするな」
ノエルは微笑みだけで答え、書板に一行を書いた。
『続ける』
俺は空を見上げ、掌を開いた。
輪の光を、夕暮れに薄く混ぜる。
鐘が鳴る。
祈りは奪わない。
支援は届く。
――そして、分かち合う。
外へも、下へも、届く限り。
「行こう」
ミナが頷き、ガイルが斧を担ぎ、ノエルが歩幅を合わせる。
俺たちは王城の影を抜け、夜のはじまりに向かって歩き出した。
次の行き先は――消去層。
書かれなかった言葉たちの底。
そこで、アゾートが待っている。
“無能職”は、もうどこにもいない。
世界の縁を綴じる支援者として、俺は輪を広げる。
届かないと思ったところに、脚注を入れる。
孤独だと思ったところに、署名を重ねる。
奪われた祈りの隣に、返されたありがとうを書く。
風が頬を撫で、遠くの屋根の上で星が一つ、灯った。
物語は続く。
輪は、いつでも開いている。
(第8話「消去層――書かれなかった祈りの底へ」につづく)