第6話 王城地下、祈りの心臓
王都の昼鐘が三度鳴り、影が最も短くなった頃、俺たちは王城の外周にある乾いた水路へ降りた。
古い石積みの隙間を、冷たい風が抜ける。苔はなく、代わりに細かい白い粉が目に付いた。祈祷院で嗅いだ甘い腐臭――その澱みだけが、ここにも沈んでいる。
「ここから下へ行ける」
ミナが指で壁の紋章をなぞると、石目がほどけるように開いた。
「王城の防御術式は光属性寄りだ。ノエル、お願い」
聖女は無言で頷き、掌を壁へ当てる。
音のない波が広がり、光の繊維がふっと緩む。
俺はその隙に、支援を薄く重ねた。
「〈神域加護・静域〉――外へ“気配”を漏らさない」
先頭はガイルだ。狭い梯子を降り、俺、ミナ、最後にノエル。
下は螺旋の回廊になっていた。壁には古い祈りの文字――“流す”“捧ぐ”“均す”――が刻まれている。どれも俺のスキル系統に近いが、わずかに酷薄な温度を含んでいた。
「嫌な感じだな」
「“祈り”が人を見てない書き方だ」ミナが眉をひそめる。
『器としての人体、効能としての祈り』
ノエルの指が即座に動き、胸がつめたくなる。
「……ここが中枢なら、アゾートの退路はこの先だ」
螺旋の終端に、黒い扉があった。
扉は木でも石でもない。ものすごく薄い夜――そんな質感だった。
俺は掌を置き、そっと押す。軽い。驚くほど軽く開いた。
そこは円形の大空洞だった。
天井は低い雲のように脈動し、床は透明な水面のようにわずかに揺れている。
中央には、心臓に似たもの――巨大な光の塊があった。
血管のような管が王城各所へ伸び、さらに遠く、街や祈祷院へと細く枝分かれしている。
管の中を、小さな灯が流れていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。あれは祈りだ。祈りそのものだ。
ただ、その色が悪い。淡く、乾いている。誰かの涙を脱色したあとみたいに。
「――“祈りの心臓”」
思わず口をついた言葉に、背後から足音。
「正解だ、特別補佐官殿」
アゾートの声だ。黒衣の祈祷師を数名従え、反対側の廊下から現れた。
「王城は老い、国は疲れている。ここは国家の人工心臓だよ。君が嫌う『収奪』は、その酸素吸入器みたいなものだ」
ガイルの斧が唸る前に、俺は手を上げた。
――怒りで視界を狭くするな。ここで間違えたら、街全体が倒れる。
「止めるだけじゃ、死ぬ。なら、組み替える」
自分に言い聞かせるように呟いて、心臓へ歩き出す。
「組み替える?」
アゾートが楽しげに片眉を上げた。
「祈りの回路を? 基礎関数を書き換えると?」
「祈りは『奪う』でも『流しっぱなし』でもない。
――『分かち合う』だ。代償は“選んだ者”同士で均し、効能は届くべき場所へ増幅して届ける」
俺は掌を心臓に当てる。
「〈神域加護・均衡再編〉」
光の表面に、細かな式が立ち上がる。
“入力(祈り)/出力(効能)/損耗(代償)”。
いまは損耗が入力から切り離され、回路の隅に投棄されている。そこに“孤児”や“病者”のタグ付け。
ふざけるな。
俺は式を掴み、骨組みからひっくり返した。
出力の前に“連結”の層を作る。
そこへ“同意”の記録、“共有者”の署名、“上限”の設定――
「やめろ」
アゾートの声が低く変わる。
「君は物語を書き換えている。世界はそんなに柔らかくない」
「やわらかくするのが支援職だ」
言い終えると同時に、黒衣たちが詠唱を開始した。
冷たい刃のような祈りの式がこちらへ飛ぶ。
俺は振り向かずに言った。
「ミナ、周域を焼いて“静電”を作ってくれ。ガイル、熱を刃に纏わせて近接封鎖」
「了解!」
「任せとけ!」
蒼白い炎が床を走り、冷気の祈りを空中で弾く。
ガイルが斧を振るい、式を刻んだ紙札ごと詠唱を叩き落とす。
そのわずかな時間――数秒だけで足りる。
俺は式の骨組みに、最後の一文を入れた。
“祈りの代償は、署名者間で自動分配される”。
“未成年者の署名は無効”。
“第三者の収奪はすべて拒否”。
心臓が――鼓動を、ひとつ止めた。
空洞の空気が揺れ、遠い街の屋根瓦がざわりと鳴った気がした。
次の鼓動。
色が変わる。淡く乾いた光が、ゆっくりと水を吸うように瑞々しさを取り戻す。
俺の胸の内側で、寿命がひと枚、またひと枚、剥がれた。
――持て。持て。あと二拍。
その時、ノエルの掌が俺の掌に重なった。
『半分、持つ』
震えが止まる。
彼女の祈りは静かで、湖の底にひそむ温度を持っている。
俺たちの指の間で、心臓の式が定着した。
「やった――」ミナが思わず呟く。
黒衣の祈祷師たちの詠唱が崩れた。効かない。式が通らない。
アゾートの顔色が初めて変わる。
「……本当に書き換えたのか。馬鹿な。君は神ではない」
「神じゃない。支援だ」
俺は息を吐き、アゾートを正面から見た。
「祈りは、奪う道具じゃない。届かせる手だ」
男は唇を歪めた。
「情緒の勝利だ。だが、算術はどうだ? 誰が代償の署名をする。誰が痛みを引き受ける。君か?」
「俺は引き受ける」
「君が死んだら?」
「――俺たちが分け合う」
ガイルが笑う。「もちろんだ」
ミナが頷く。「当然」
ノエルの指が動く。『わたしも』
アゾートは目を伏せ、肩を竦めた。
「綺麗だ。あまりに綺麗すぎて吐き気がする」
彼は白衣の中から黒い短杖を取り出し、床を軽く叩いた。
空洞の壁が波打ち、祈りの心臓の背後に、巨大な影が立ち上がる。
――“祈り像”。
祈りを積層して形にした、王城地下の守護機構だ。顔のない巨人が四体。
アゾートの声が低い熱を帯びる。
「君は回路を書き換えた。だから護りが君を外敵と判定した。
ここで、君をすり潰す。世界のために」
「世界のために、か」
俺は笑った。
「なら――世界ごと守る」
足を踏み出す。
「〈神域加護・広域展開〉――分かち合いの輪」
光が、丸く、やわらかく、空洞いっぱいに広がった。
輪の縁に、ミナとガイル、ノエルが立つ。
俺は輪の中心で、四体の巨人を見据えた。
「ミナ、輪の内側だけ温度上昇。外縁は維持」
「了解!」炎が薄い膜になり、輪の内側を撫でる。
「ガイル、縁に沿って一体ずつ足を落とせ。輪が力を渡す」
「おう!」斧が振り抜かれ、力が輪からガイルへ、ガイルから刃へ滑らかに移る。
「ノエル、輪の歪みを祈りで均して」
『任せて』
――これは俺一人の力じゃない。
輪を通して、三人の呼吸が、そのまま俺の支えになる。
四体の巨人が同時に腕を振り上げる。
瞬間、輪の縁がわずかに撓み、攻撃を受け止め、押し返した。
反動が来る。肺が焼ける。寿命が減る。
でも、薄い。
三つに、分かれている。
俺の口元へ、勝手に笑みが戻った。
「押し返す!」
輪が膨らみ、巨人を弾く。
ミナの炎が走り、ガイルの刃が膝を砕く。
ノエルの祈りが、輪の裂け目をすぐさま糸で縫う。
三度目の衝突で、一体が膝から崩れた。
四度目で、二体目の胸に亀裂。
アゾートが短杖を叩き、巨人たちの背へ祈りを流し込む。
だが、回路はもう俺が書いた。収奪の式は輪の縁で解ける。
「終わりだ、アゾート」
「終わり? ――始まりだよ」
男は口角を上げ、短杖を折った。
黒い破片が空中に溶け、心臓の上空に“穴”が生まれる。
穴はどこにも続かない暗闇だ。
「君の“輪”では届かない場所へ、私は逃げる。物語の外へ」
「逃げればいい。輪は広がる」
「では見せてみろ、支援の王。どこまで届く?」
男は穴へ身を投じた。
すべてが止まった瞬間、ノエルが一歩、前へ出た。
ヴェールが揺れ、白い喉が露わになる。
唇が、わずかに開いた。
――声帯は縫い合わされているはずだ。
彼女は輪の縁を両手で掴み、たった一音だけ、空へ放った。
「――返せ」
音にならない音が、輪の内側で震え、式の奥に届いた。
穴が波打ち、暗闇の縁がほどける。
俺は最後の一押しを輪へ込めた。
「〈神域加護・縁結〉――繋がっている限り、届く」
穴が閉じる。
アゾートの姿は消えた。
だが、逃げ道の“座標のささくれ”だけが、ノエルの掌に引っかかった。
彼女はそれをそっと握りしめた。
『次は、追える』
四体の巨人は、順に崩れた。
祈りの心臓は静かに拍ち、回路は“分かち合い”を基本に組み替えられている。
俺の膝が笑い、視界が白くなる。
崩れかけた俺の肩を、ミナとノエルが左右から支えた。
ガイルが輪を抜け、崩落の危険がないか周囲を確かめる。
「持ちこたえたな」
「……ああ」
俺はかすかに笑い、心臓へと視線を戻した。
「もう誰の祈りも、勝手に奪えない」
その時、背後の廊下から新しい足音が近づいた。
鎧の擦れる重い響き――王の近衛。そして、ひときわ軽い、しかし沈んだ足取り。
現れたのは、勇者レオと、その後ろに金糸の裾を引く人物だった。
王だ。
歳は思ったより若い。だが、瞳は年輪のように深く疲れている。
レオが短く言う。
「俺が案内した」
王は心臓を見て、長い呼気を吐いた。
「これが――我が国の罪であり、支えであったものか」
沈黙が落ちる。
王はアゾートの姿を探すように周囲を見るが、そこには俺たちしかいない。
「彼は逃げました。けれど、仕組みは変えました」
俺は心臓を示し、短く伝えた。
「祈りは、分かち合うルールへ。未成年からの収奪は、完全に遮断」
王の瞳がかすかに揺れた。
「……王でありながら、私は何も知らなかったと言い訳できるほど愚かではない。
だが、見ないふりをした。国を保つために――と」
彼は膝をつき、額を床へ落とした。
「赦しを乞う言葉を、私は持たぬ」
ノエルが前へ進み、王の肩に掌を置いた。
『赦しは、行いで作るもの』
レオが目を伏せ、王が小さく頷いた。
「では、これからの“行い”を誓おう」
王は立ち上がり、心臓に右手を当てた。
「王国の祈りは奪わぬ。分かち合い、署名し、同意の上に立つ。
その痛みを、王として、まず私が負おう」
彼の掌に光が宿り、署名の式が心臓に刻まれる。
輪がわずかに温かくなった。
レオが、俺を見た。
かつての嘲りは、そこにはない。
「……すまなかった。そして、ありがとう」
「こちらこそ。あなたがここへ連れてきた」
「導いたのは、君の背だ」
短く笑い合う。
その笑いは、戦場で交わしたものと同じ熱を持っていた。
心臓が、穏やかに拍ち続ける。
俺の胸の薄皮は、確かに削れた。
だが――輪の温度が、俺を支えている。
分け合うという仕組みは、たった今この瞬間から現実になっている。
街のどこかで、軽く息が吸えるようになった誰かがいる。
祈祷院の檻から解かれた子どもたちの頬に、色が戻る。
それで十分だ。今は、それで。
ノエルが袖を引く。
『あなた、少し眠るべき』
「そうだな」
目を閉じかけた俺は、ふと口に出す。
「――アゾートは、戻る。物語の外を目指しているやつは、いつか“外から”壊しに来る」
ミナが炎を指先で消し、薄く微笑んだ。
「じゃあ、その外側にまで輪を広げればいい」
ガイルが斧を肩に担ぎ直す。
「届くまで、押すだけだ」
俺は頷き、心臓から手を離した。
「行こう。署名の仕組みを街へ広げる。『分かち合いの輪』を都市規模に――世界規模に」
王とレオが道を開ける。
俺たちは階段を上がり、白い光へ戻った。
地上の風は冷たいのに、頬を撫でる手つきは、やけに優しかった。
空に薄い雲。
王都の屋根瓦の向こうで、鐘がゆっくり鳴る。
祈りは奪わない。
支援は届く。
――そして、分かち合う。
“無能職”の物語は、世界の奥底で心臓を掴み、今、ようやく世界の表情を少し変えた。
次は、物語の縁だ。
外へ手を伸ばしてくる影を、こちらの輪へ招き入れて――一緒に変える。
俺は仲間たちと視線を交わし、静かに笑った。
「続けよう。俺たちの支援で、世界を軽くする」