第5話 沈黙の聖女、復讐の祈り
闇の王国ノル=ヴァルの霧が晴れて三日。
俺たちは北から流れる街道を南東へ折れ、小さな城塞都市ルーメへ入った。
復興の旗がいくつも翻り、広場には倒壊した家から運び出された木材の山。
子どもたちが瓦礫の上で陽の下を駆け回り、その影に、大人たちの深い疲労が伸びていた。
「……人が戻ってる」
ミナが呟く。
「霧が晴れたおかげだな」ガイルが肩の荷を下ろす。
「だが、顔つきはまだ戦のまんまだ」
その“顔つき”の中に、真珠のような白を見つけた。
青い外套で身を包み、純白のヴェールを目元まで垂らした女が、教会の段の上で人々の列に向き合っている。
彼女は一言も発さない。代わりに、右手を差し出し、左手で胸に十字形の印を切る。
差し出された掌から、淡い光が湧く。
触れた者の腫れが鎮まり、裂け目が閉じ、熱が引く。
“沈黙の祈り”だけで、人々の苦悩がほどけていく。
「……聖職者?」
「名を聞いたことがある」ガイルが小声で言った。
「“沈黙の聖女”ノエル。言葉を失った治癒の徒。王都じゃ伝説みてぇに囁かれてたが……ほんとにいるとはな」
彼女の視線が、ふとこちらを掠めた。
ヴェールの奥の瞳は、湖底みたいに静かで、どこか遠い。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
――知っている。
知らないはずの誰かを、知っているような感覚。
闇の王国で“原型の俺”に触れた後遺症か、それとも。
列の最後の男の傷が塞がり、聖女は静かに手を下ろした。
人々が感謝の言葉を投げるが、彼女は一礼するだけで、教会の奥へ消えようとする。
「待ってください」思わず声をかけた。
足が止まり、ヴェールが揺れる。
「あなたの祈り……どうして言葉を使わない?」
答えは、ない。
代わりに、聖女の左手がわずかに上がった。
――“ついて来い”。
そう告げる仕草に見えた。
ミナとガイルに目配せをして頷く。
俺たちは聖女の背を追い、教会の裏手――小さな中庭へ回った。
薄青の花が敷き詰められ、風鈴が静かに鳴る。
聖女は振り返り、胸元の小さな銀板を見せた。
そこには、細い刻印で短い文が彫られていた。
『わたしは声を持たない。祈りは手で話す。』
続くように、彼女は手を結び、ほどき、指でいくつかの形を作る。
言葉の代わりに、祈りが文法になる。
俺の視界に、また淡い文字が滲んだ。
〈祈り語――意味変換可能〉
〈“支援倍率×10”により、非音声信号の解読効率が上昇〉
――なるほど。
俺は頷き、彼女の手の動きに合わせてゆっくりと言葉に変換する。
「……『あなたの光は、世界に広がる。けれど、あなたの心は孤独のまま』」
聖女の肩が、ぴくりと動いた。
「『あなたが支える世界は、あなたの寿命を削る。……それを知ってまで、なぜ祈るの』」
ミナが息を飲む。ガイルは黙ったまま拳を握った。
俺は、笑ってしまった。
「――やっぱり、知ってるんだね」
聖女の指が、素早く動く。
『わたしは“代償”を知る。祈りは、いつも何かを削る。だから、祈ったことがない。』
「……治癒の祈りを捧げているのに?」
『それは“仕事”。わたしの祈りではない。』
言葉を失った理由を、俺は問わなかった。
彼女の仕草、そのわずかな震えの中に、問いの形はもう刻まれていたからだ。
沈黙は、盾。
あるいは、刃。
「ノエル」いつの間にか名前を口にしていた。
「あなたは、何を望む?」
聖女は手を止めた。
長い、長い沈黙。
やがて――彼女は右の袖をまくった。
白い肌に、焼け焦げた印。十字の形を歪めるように、黒い鎖が縫い付けられている。
『望みはひとつ。――“祈りを盗んだ者”への復讐。』
祈りを盗んだ者。
俺の背に、冷気が走った。
ミナが目を見開く。
「祈りって……盗めるの?」
『できる。“代償”だけを他人に押し付けて、果実だけを持ち去る術。
わたしの村は、その祈り泥棒に焼かれた。
父も、母も、弟も、祈ったあと倒れて、その温もりが戻らなかった。
わたしだけが、声を縫い合わされた。祈りが届かないように。』
風鈴の音が遠のいた。
俺の掌が汗ばむ。
“祈りのシステム”――支援の系統に、そんな悪用があるのか。
頭の奥で、また微かな導線が火花を散らす。
〈支援体系:対概念を確認〉
〈“与える祈り”に対し、“奪う祈り”が存在〉
〈通称:収奪祈祷。対象の代償を代理負担させ、効能のみを抽出〉
胸の奥底が、熱くなった。
そんなものを、許せるはずがない。
俺は静かに息を吐き、ノエルに向き直る。
「その“祈り泥棒”の名は」
ヴェールの奥の瞳が、わずかに細まる。
指が刻む。
『“祈祷院”の院長、アゾート。王国の聖務院に席を持つ男。
わたしはここで人を癒す。彼は王都で、祈りを売る。
――“世界のためだ”と言いながら、祈りの代償を孤児たちに押し付けて。』
ガイルが低く唸った。
「てめぇ……」
ミナは拳を握ったまま、俺を見た。
「行くんだよね」
「行く」
迷いなど、どこにもなかった。
俺が支援で延ばす命が、どこかで誰かの命を削っている――そんな構造があるなら、壊さなければならない。
ノエルが一歩近づき、指が震えた。
『お願い。わたしの祈りを、返して。声はいらない。代わりに、彼らの命を。』
「……あなたも一緒に来てくれるか」
聖女は小さく頷き、ヴェールの奥で、唇だけが“はい”と動いた。
その声音は風鈴にも似て、儚く、強かった。
* * *
王都への道を急ぐ前に、俺は一仕事だけ片付けた。
ルーメの北に広がる病者の野営地。
長い咳、暗い瞳、痩せた頬。
戦の煙と霧の毒で肺を傷めた人々が、藁の上に横たわっている。
俺は中腰になり、一人ひとりの額に手を当てた。
「〈神域加護・局所展開〉」
風が逆巻く。
点の光が、線になり、面になってひろがる。
肺の内部に付着した黒い膜が剥がれ、血流の流れが澱みから透明へ変わる。
息を吸う音が、少しずつ深くなる。
俺は呼吸を合わせ、胸の奥で寿命が一片ずつ剥がれるのを受け止めた。
――また、削ったな。
内側のどこかで、冷静な声が言う。
だが、その冷静さを抱きしめるように、別の声が重なる。
“支援は、誰かのためにある”。
俺は立ち上がった。足がわずかに揺れる。
ミナがすかさず肩を支え、ノエルが静かに掌を重ねる。
温かさが、掌から掌へ渡っていく。
「ありがとう」
『こちらこそ』
ノエルの指が、ゆっくりと応える。
彼女の白い手が、ほんの僅かに震えていた。
それが、怒りなのか、哀しみなのか、俺にはまだ判別がつかない。
* * *
王都は、相変わらずの喧騒だった。
遠くから見ても尖塔が林のように立ち並び、王城の白壁が雲に刺さる。
石畳の匂い、露店の声、兵士の靴音。
すべてが整っているのに、鼻の奥に甘い腐臭が混じっている。
――祈りの匂いだ。
効能だけを磨き上げ、代償をどこかに隠した匂い。
聖務院は城に連なる行政区の奥、光の十字が掲げられた大庁舎にあった。
正面の扉には衛兵が二人、槍を交差させて立つ。
「ここは関係者以外は立ち入り――」
言い終わる前に、扉の上のステンドグラスが波打った。
ノエルが一歩前に出て、掌を掲げる。
色硝子がたわみ、内側の鍵が外れる音がした。
祈りは、鍵より深い。
扉は静かに開いた。
中は、白い。
壁も床も天井も、息苦しいほどに白い。
その中心に、黒い柱が一本。
柱の周囲に、子どもたちが座らされている。
瞳に光がない。
柱から伸びた細い銀線が、子どもたちの指先に絡みつき、ささやかな光を吸い上げていた。
「……これが、“祈祷院”かよ」
ガイルが低く唸る。
ミナは唇を噛み、魔力がこぼれそうな拳を両手で押さえた。
ノエルのヴェールが震える。
俺の胸の奥で、冷たいものがはっきりと形を持った。
許さない。
「歓迎しよう、特別補佐官殿」
奥から声がした。
白衣を纏った男が、笑っている。
髪は灰、肌は透明なほど白く、瞳は薄い琥珀。
笑っているのに、冷蔵庫の中身のように温度がない。
「私はアゾート。祈祷院の院長だ。王国のため、世界のために祈りを研究している」
「子どもから、祈りを?」
「純度の問題だよ」
男は肩をすくめる。
「汚れていない祈りほど、効能が高い。君も分かるだろう、支援の体系を齧ったなら」
「代償は、どこへ行く」
「均衡のために、どこかへ。――ここではない、どこかへ」
穏やかな口調のなかに、微かな嘲りが混じった。
「君が背負うのと同じさ、リオン・アークウェル。違うのは――君は自分で選んだが、彼らは選べないというだけ」
「それが問題だ」
俺は一歩踏み出した。
足元で、白い床が軋む。
アゾートの瞳が、楽しいものを見る子供のように輝いた。
「君は面白い。支援の“原型”に触れた者の匂いがする」
「祈りを売るなら、まず自分の寿命を値札にしろ」
「うん、詩的だ」
彼は指を鳴らした。
黒い柱が低く唸り、銀線が蠢く。
子どもたちの肩が揺れ、口元から白い息が漏れた。
ノエルが前に出る。
ヴェールの奥で、唇が固く結ばれた。
『わたしの祈りを返して。』
アゾートは目を細めた。
「沈黙の聖女。……お前の祈りは良かった。純度が高い。声を縫い付けられてなお、祈りが流れ出る。あれは芸術だ」
「――黙れ」
俺の声が、知らないほど低くなった。
掌を掲げる。
「〈神域加護・汎域反転〉」
白い空間が、色づいた。
床を走る模様が立ち上がり、空間に秘匿されていた“祈りの配管”が露出する。
銀線は血管のように壁を這い、黒柱の中心に祈りの流束を注ぎ込む。
見える。
この施設全体の“回路”が、見える。
そして、抜くべきピンも。
「ミナ、右壁の第四列、下から二本目!」
「了解!」
ミナの炎が糸のように伸び、銀線を焼き切る。
子ども一人の指から光が戻り、頬に赤みが差す。
アゾートが舌打ちをした。
「やめろ。均衡が崩れる」
「崩してやる」
「愚か者が。祈りはどこかで代償を払う。今ここで切れば、君か、君の仲間か、世界のどこかが――」
「俺が払う」
言葉が先に出た。
ミナとガイル、そしてノエルの視線が焼けるように刺さる。
俺は一瞬だけ目を閉じ、息を整えた。
――わかってる。
これは、俺一人の決断ではない。
だが、今は理屈より先に、救う必要がある。
ノエルの手が、そっと俺の袖を握った。
『半分、わたしが持つ』
「――ありがとう」
俺とノエルは同時に掌を掲げた。
「〈神域加護・分割受苦〉」
「〈沈黙祈・受苦分担〉」
空気が裂け、黒柱の唸りが悲鳴に変わる。
銀線が一斉に弾け、吸い上げられていた祈りが逆流した。
子どもたちの胸に光が戻り、瞳に水が湧く。
代わりに、俺の胸は焼けるように熱く、ノエルの肩が強く震えた。
寿命の薄皮が、紙を裂くように剥がれていく。
それでも、立っていられた。
彼女の掌が、隣で確かに支えてくれていたから。
アゾートの顔から笑いが消えた。
「……美しい。だが、愚かだ。君らは“今”を救って“未来”を殺す」
「未来を語るなら、まず今ここで手を離せ」
ガイルが吠え、黒柱へ突進した。
斧が唸り、柱の根元に食い込む。
ミナの炎が走り、刃を白く焼く。
「砕け!」
「燃え尽きろ!」
亀裂が走り、黒柱が崩れ落ちた。
祈祷院の白が、粉を被ったようにくすみ、空気の甘い腐臭が消えた。
静寂。
やがて、子どもたちのすすり泣きが、部屋を満たした。
アゾートは白衣の裾を払って一歩退いた。
「感情の勝利、というやつだな。……だが、君らは祈りの“仕組み”を壊しただけだ。別の場所で、別の柱が立つ。世界は均衡を求め、誰かが代償を払う」
「なら、俺はその“仕組み”そのものを書き換える」
アゾートの瞳が、初めて揺れた。
「書き換える?」
「支援は、誰かを犠牲にする前提から出発しない。
届ける側の覚悟で“重さ”を引き受け、受け取る側の生を“増やす”。
――代償は、共有されるべきだ。選んだ者同士で。奪うんじゃない。分け合うんだ」
ノエルの掌が、俺の掌に重なった。
『わたしは、その覚悟を持つ』
ミナが頷く。
「私も」
ガイルが笑う。
「当然だろ」
アゾートは肩をすくめ、白衣のポケットから細い笛を取り出した。
「議論は楽しい。だが、私は忙しい」
笛が鳴る。
床の白が溶け、影が立ち上がる。
黒い衣の祈祷師たちが、壁の隙間から現れた。
十五。
同時詠唱。
部屋の温度が二十度は下がった。
「君らに祈りの“裁き”を」
「来るぞ!」
俺は掌を広げる。
「〈神域加護・多重遮断〉!」
透明な層がいくつも重なり、黒衣の詠唱を吸い込んでは溶かす。
“奪う祈り”は、光の層に触れた瞬間、像を失って霧になった。
祈祷師たちは驚愕で後ずさる。
「なぜ通らない!? 純度は最上だぞ!」
「お前たちの“純度”は、他人の涙で磨いた硝子だ。
俺のは、友の体温で拭いた鏡だ。――映るものが違う」
ミナの炎が床を走り、祈祷師たちの足元を断つ。
ガイルが飛び込み、柄で喉を叩き、意識を刈り取る。
ノエルは沈黙のまま、倒れた子の額に掌を置き、微かな震えを止めていく。
俺はアゾートから目を離さなかった。
男は退路を計算する目で室内を見渡し、細い笑みを浮かべた。
「いい“物語”だ。――続きを楽しみにしているよ」
足元の白が割れ、暗い穴が口を開いた。
アゾートの足が沈む。
「待て!」
俺の声と同時に、ノエルが跳んだ。
ヴェールが宙に浮かび、白い掌が影を掴もうとする。
間に合わない。
穴が閉じる。
ノエルの指先が空を掻いたその瞬間、俺は自分の寿命を一枚、強引に焼いた。
「〈神域加護・瞬間拡張〉!」
世界が伸びる。
時間が、ひと呼吸ぶんだけ粘性を持つ。
ノエルの手が、アゾートの袖の端を掴んだ。
男の瞳に、初めて生々しい焦りが灯る。
「……厄介だな」
袖ごと、白衣が裂けた。
アゾートは半身を闇に沈めながら、軽く会釈した。
「また会おう、支援の王」
闇が閉まり、何もない床が戻った。
静寂。
ノエルは裂けた布を握ったまま、膝をついた。
肩で息をし、ヴェールが小刻みに震える。
俺はその背に手を置いた。
「大丈夫か」
彼女はゆっくりと首を振った。
『大丈夫じゃない。でも、立つ』
布切れには細い糸が縫い付けられていた。
糸は黒く、冷たく、薄い魔法文字が潜んでいる。
〈拘束符片:転位座標の断片を記録〉
「追えるかもしれない」
ミナが目を凝らす。
「どこへ?」
「“祈り”の集積地だ。祈祷院がもう一段、深く潜った先――」
口に出した瞬間、背筋に凍えるような確信が走った。
「王城の、下だ」
ガイルが斧を握り直す。
「王が絡んでるってのか」
「まだ断定はできない。でも、王城の地下には古い信仰の井戸がある。
そこが“奪う祈り”の中枢なら」
「なら、ぶっ壊すだけ」
ミナが炎の尾を指先で揺らした。
ノエルは立ち上がり、俺の袖を軽く引いた。
『あなたの寿命、削りすぎ』
「……見えてる?」
『祈りは、匂いで分かる。あなたの匂いは、少し薄くなった』
彼女は一拍置いて、ゆっくりと指を動かした。
『だから、分ける。――わたしの祈りで、あなたの代償を』
「ノエル」
ちゃんと呼ぼうとして、言葉が少しだけ喉で詰まった。
「それでも復讐は望むのか」
ヴェールの奥の瞳が、まっすぐに俺を捉えた。
『望む。わたしの祈りを返して』
指が止まる。
そして、もう一度。
『だけど、子どもたちの笑顔を先に。復讐は、あとでいい』
胸が、ひどく温かかった。
沈黙の聖女の祈りは、復讐の形をしているのに、誰よりも優しかった。
俺は深く頷いた。
「――分かった。先に笑顔を、あとで復讐を。順番は、俺たちが決める」
教会の鐘が、遠くで鳴った。
王都の昼を告げる、清潔すぎる音。
その真下で、俺たちは静かに動き出した。
奪う祈りの根を断ち、祈りを取り戻すために。
支援は奪わない。――分かち合う。
その原則を、この国の“仕組み”に焼き付けるために。
歩き出した俺の背で、ノエルの小さな影が揺れた。
沈黙の聖女の祈りが、風鈴のように鳴った。
それは復讐の鐘にも似て、救いの合図にも似ていた。
――支援職と聖女。
“与える祈り”と“奪われた祈り”。
互いの半分を差し出せば、きっと一つの世界に届く。
俺は掌を開き、透明な光を、街の空へ薄く散らした。
子どもたちの笑い声が、遠くで跳ねる。
さあ、王城へ。
“祈り”の心臓に、手を伸ばす時だ。
(第6話「王城地下、祈りの心臓」につづく)