第10話 受信の改稿――境界ブイと赤鯨の罠
夜明け前。海はまだ墨の色で、灯台の灯だけが呼吸のように明滅していた。
波間に黒い影――境界ブイが、潮に合わせて静かに揺れている。真鍮と硝子と祈り糸で編まれた円環。受けるべき物語の入口であり、外と内を繋ぐ節だ。
「行こう、ノエル」
『うん』
短い、でもはっきりした二音。消去層で拾い上げた半音に、もう半分が乗りはじめている。
小舟を押し出すと、灯台からミナが身を乗り出して手を振った。
「灯約は更新済み! 港契も生きてる! 受信側を書き換えるなら、ブイの下――係留索の結節が中枢!」
ガイルが帆柱の上で親指を立てる。
「潮が走る。気ぃつけろ!」
櫂を収め、俺は輪を薄く開いた。
「〈神域加護・静域〉――気配、波へ溶かす」
ノエルが掌を重ね、祈り糸で舟底の軋みを縫い消す。
境界ブイは近かった。硝子板の内側には微小な文が流れつづけている。“助けて”、“聞いて”、“ここにいる”。
だが、その間に赤い細字で線が引かれていた。
“不要”、“非効率”、“受信見送り”。
「……もう始まってる」
受信の改稿。外から入る物語を、選び直す手つき。
俺はブイの縁に手をかけ、視界へ式を引き出す。
〈境界ブイ:受信規約 ver.断章β〉
〈優先度:衝撃/惨禍/悲劇(注:救済の立証が困難なため)〉
〈“ありがとう”系の返信は抹消し、代わりに“未達”の印を返送〉
〈未成年の受信署名は“保護者代署”で有効化〉
「保護者代署……迂回だな」
未成年無効を迂回する“代理”の名目。書類の隙間に潜る古い悪手だ。
ノエルの指が震える。
『返す……ぜんぶ』
「やる」
俺は海へ向けて輪を深く下ろした。
「〈神域加護・受信憲章〉――受け取る側にも分かち合いの署名を」
輪の縁に三つの条が灯る。
受信一条:受信は同意明記のもののみ。代理は無効。
受信二条:悲劇は救援経路を自動付与――受信時に返還路を同梱。
受信三条:“ありがとう”は消さない。返す。
条を刻み終える寸前、潮が逆打ちした。
海が唐突に重くなり、舟がきしむ。
「来る!」
水平線の向こうで、赤が起き上がった。
赤鯨――編集嵐の本体。
尾が一振りで波面の説明が削られ、境界ブイの係留索が物語上から断ち切られる。
「係留が……ここにある理由を消された!」
舟が一瞬ふわりと浮き、次の瞬間、海図の余白へ滑り落ちかける。
ノエルが即座に掌を突き出した。
「……とどまって」
祈り糸が網のように広がり、舟をこの海の文へ縫い止める。
俺は輪を海中へと沈め、係留の**“なぜ”を再記述する。
「〈神域加護・縁結〉――寄るべき場所の理由を返す」
見えない脚注が海底に刺さり、係留の“はじまり”が再生する。
赤鯨が重く唸り、海面に訂正記号**の渦を開いた。渦の中心から、白衣の影が浮かび上がる。
「おはよう、支援の王」
アゾートだ。
白衣は濡れていない。海に触れず、行間に立っている。
「受信は世界の気分だ。どんな物語を読んだことにするか。それを書き換えれば、人は救いを諦める。諦めは、効率がいい」
「効率で救われた命は、ここにいない」
「いるとも。計算結果の中にね」
男は笑い、小瓶を取り出した。瓶の内側を赤い線が走る。
「“未達”の涙。灯台の灯を痩せさせ、外へ“悲劇を優先せよ”と指示を出す燃料だ。君の“ありがとう返還”は、私の在庫を減らす。だから補充する」
ノエルが一歩出る。
喉が震え――
「やめて」
その声は風鈴のように揺れて、赤鯨の皮膚に一音の跡を残した。
アゾートは肩を竦め、手首を返した。
赤鯨の影が膨らみ、受信路そのものが飲まれる。
「受信の改稿を完了しよう。君の“憲章”は脚注だ。本文は私が持つ」
「本文には正誤表が要る」
俺は輪の周囲に白い紙片を点し、海に注記を撒いた。
『代理署名は無効』『救援路を同梱』『返還先特定:港の署名帆/風鈴』
注記は赤鯨の眼に先に読まれ、刃が鈍る。
だが赤鯨は大きすぎる。一本の注では足りない。
「潜る」
「リオン――」
「係留索の結節に**署名機**を据える。上は任せた」
ノエルが頷き、掌を重ねる。
『半分、持つ』
俺は一息で海へ身を投げた。
水は、冷たい。
輪を等呼吸に切り替え、肺の重さを四分の一に薄める。
ブイの下、真鍮の環に刻まれた古い契約が、赤いインクで塗り潰されかけていた。
“保護者代署”――外の法の影が入り込んでいる。
俺は指先で契約の骨を探り、そこへ新しい条を差し込んだ。
受信補遺一:署名の出所を刻印(帆/鈴/印)にて検証。
受信補遺二:悲劇受信時は自動で救援要請を灯台へ反照。
受信補遺三:返還路常設――“ありがとう”は帰る。
赤いインクが逆流しかけた瞬間、水の底から手が伸びた。
消去官。
指先は消しゴムの粉で白く、俺の刻んだ条を撫でて――理由を消そうとする。
寿命の薄皮が剝がれる。視界が遠くなる。
――持て。弱さも分けるんだ。
「〈神域加護・弱さ共有〉」
胸の奥の空白に輪を通し、海上のノエルへ半分渡す。
水がやわらぎ、指が止まる。
その瞬間、海面から灯字が差し込んできた。
・-・・ ・・-・・ ・・-
ミナだ。レンズの脚注を通して、俺の刻む条を写し、上から重ね書きしてくる。
消去官の指は、同じ意味が二重に書かれた文に触れて、滑った。
海上で雷のような衝撃。
赤鯨が尾を叩き込み、境界ブイごと海を一段落としたのだ。
潮流が反転し、係留の文脈が崩れる。
――やらせない。
俺は両掌で結節を抱き、最後の署名機を押し込む。
「〈神域加護・海環〉――港と港、灯と灯、帆と鈴を輪で連結!」
遥か彼方――王都の港、ルーメ、沿岸の小さな入り江、移動市の筏、見知らぬ岬。
署名帆がいっせいに張り、風鈴が鳴り、灯が返したありがとうが海図の上で線になった。
それは細く、けれど切れない網だ。
網が赤鯨の尾を包む。
巨体の筆圧が一瞬緩む。
海上でノエルが、風を抱くように両腕を開いた。
「……返して」
その声はもう、風に届く。三音。
彼女の祈り糸が海面に署名を描く――“未成年無効”、“返還可”、“同意必須”。
赤鯨の皮膚に、その印が刻まれ、刃はさらに鈍った。
アゾートの笑みが、初めてわずかに崩れる。
「君らは“読者”だけでなく“版元”をやるつもりか。受信規約を書き替え、流通まで握る」
「握るんじゃない。開くんだ」
俺は海上へ顔を出し、息を吐く。
「閉じていた経路を、みんなの署名で。――分かち合いは網になる」
男の瞳が細くなる。
「網は、ときに絡め取る。たとえば――君の寿命を」
白衣の袖から黒い糸が伸び、海環の結節へ潜り込む。
俺の胸が痛む。輪の中心が引かれる。
ノエルが即座に俺の手首を掴み、祈り糸で結び直す。
『半分、持つ――それでも足りなきゃ、三分の一、四分の一』
ミナの灯字がさらに早く、返還路に“同意撤回自由”の条を追加。
ガイルの怒号が港から風に乗って届く。
「おい赤いの! 回り道に人がいるぞ!」
港の正誤表が海へ張り出し、赤鯨の頬に注が貼り付いた。
“回り道の余白に、三つの小舟”。
赤鯨の筆は先に読む。――止まる。
好機は一瞬だ。
俺は境界ブイの受信憲章に最後の一文を刻んだ。
受信終条:記録は公開。改稿は署名と正誤表でのみ可能。
“密室の書き換え”を禁ず。
海が、息をした。
灯台の光が一度だけ深く沈み、次の瞬間、重く明るい脈を放った。
港の風鈴が一斉に鳴り、遠くの帆に新しい風が入る。
境界ブイは静かに回り始め、受信する物語の優先が書き換わっていく。
悲劇は消えない。だが、必ず救援路が追いかけ、ありがとうの返還が仕様になった。
赤鯨が低く唸り、海へ大きな行間を開ける。
アゾートはその背に立ち、短く笛を鳴らした。
「……いいだろう。受信は譲る。だが、物語は競合する。効率は、いつでも美しさを削ぐ理由になる」
男は白衣の胸元から、薄い紙切れを一枚抜き取った。
紙は血のように赤く、端に細い字が走る。
“最終章は海で、海図の外”
アゾートが紙を海へ浸すと、遠い地平に線が現れた。
海図の端。世界の外縁。
そこに黒い影がいくつも浮かぶ。
校閲者の列、編集師の艦、そして、名もなき消去の影。
「待っている。次は、“本文”の外で」
赤鯨は尾を振り、裂け目へ消えた。
静けさが戻る。
海はまだ重いが、呼吸を覚えた顔に変わっている。
境界ブイの硝子板には、新しい受信ログが流れはじめていた。
『風が軽くなった』『戻れた』『ありがとう』――
短い文。けれど、確かな重み。
小舟に上がると、ノエルが額の汗を袖で拭い、こちらを見た。
「……だいじょうぶ?」
三音。
「だいじょうぶ」
俺は笑って頷き、輪を胸の内側へ畳む。寿命の剝離は確かにあった。でも、薄い。
みんなで分けたから。
灯台の踊り場まで戻ると、ミナが書類の束を抱えて駆け寄ってきた。
「見て! 受信憲章、公開板に同期できた! 改稿の申請は署名必須、正誤表が先読みされる!」
ガイルが笑いながら俺の背中をどん、と叩く。
「海の息が深くなった。腹まで響く。うまい息だ」
港の老女カヤが両手で灯心を拝む。
「灯が重くなったねぇ。ありがとよ、支援の人たち」
俺は灯室の窓から、さっき見えた外縁を探した。
地平の上、薄い黒が静かに並んでいる。
あそこが、最終章の舞台だ。
司書の注記――『最終章は海で』が、胸の奥で小さく灯を点す。
ノエルが手板に一行を書く。
『いく。いっしょに』
「もちろん」
ミナが首を回し、ガイルが斧を担ぎ直す。
「王都にも伝えた。レオが署名帆の船団を集めてくれてる。輪の船隊で外縁へ向かう。
“読者”も“版元”も“書き手”も、ぜんぶ乗せていこう」
夕陽が灯台を朱に染め、境界ブイの硝子に新しいコードが走った。
共有・同意・返還可。
海はそれを読み, 夜へ渡す。
俺は深く息を吸う。
“無能職”と言われた支援職は、今、海の真ん中で輪を回している。
孤独じゃない。
輪の縁に、署名が並び、風鈴が鳴る。
灯は重く、風は軽い。
――次で終わらせる。
奪う祈りの物語に、返す章で句点を打つために。
海図の外でも、輪は届くと示すために。
(**最終話・第11話「海図の外、分かち合いの輪」**につづく)