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第八話  鳳雛の余波




雪の底で、決意はまだ名を持たない


雪は音を奪う。


だから、心の軋みだけが、やけに鮮明に響いた。




鳳雛の一石は、まだ淵の底で静かに、しかし深く波紋を描き続けている。


龐統が去った隆中の臥龍崗は、再び深い静寂


だが、孔明の内なる淵は、友が投じた一石によって、もはや元の静けさを取り戻すことはなかった。




(この計は、劇薬だ。天下を救うどころか、託す器を誤れば、さらなる戦乱の火種となる…)




季節は秋から冬へ。


書を読む手は止まり、ただ窓の外、色を失っていく山々を眺める日が増えた。


答えの出ぬ問いを抱き、彼の思索は一層深く、冷たくなっていた。


その凍てつくような思索の時間を破ったのは、旧友・徐庶の温かな来訪であった。




「孔明、息災であったか」




戸口に立つその姿は、龐統の刺すような鋭さとは対照的だった。


まるで、冷え切った心を解かす焚火のような存在感に、孔明は知らず口元を緩ませた。




夜。


草廬の外で、二人は小さな焚き火を囲んでいた。


ぱちり、と乾いた薪がはぜる。


その赤い火が一瞬、傍らに立てかけられた徐庶の槍の先に映り、鈍い光を放った。




「息災…とは言い切れんな、元直。お前こそ、その槍を携え、どこを渡り歩いていた」




「俺か。俺はお前のように天下の理を読み解くことはできん。ただ、この手にある剣で、今苦しんでいる民を一人でも守りたいだけだ」




徐庶は、火を見つめながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。




「各地を巡り、多くの群雄を見た。曹操は才を尊ぶが、人の心を力で縛る。孫権は江東の地を得て盤石だが、守りに入り、天下を望む気概に欠ける。だが…」




そこで言葉を切ると、徐庶は決意を秘めた目で孔明を見た。




「新野におられる劉備殿。あの方の周りには、不思議な輪ができる。……先日、俺は見たんだ。劉備殿が、飢えた民に自分のなけなしの食糧を分け与えている姿を。兵卒ではない、ただの民だ。それを見た関羽殿と張飛殿は、文句一つ言わず、自分の分まで差し出していた。君主が徳を示せば、臣下もまた徳で応える。そこには、利で結ばれた主従関係とは全く違う、温かな『人の輪』があった。あれこそが、この乱世で唯一の光だ。俺は、あの光景を守るために、この槍を振るいたい」




友がもたらした、生々しいまでの「人の情」の光景。


孔明は、その情報を脳内で冷静に反芻した。




(仁徳の名望は確か。だが、領地も兵も戦略もない、まさに基盤なき集団…。)




彼の思考は、これまで練り上げてきた壮大な計の実現可能性を瞬時に計算する。そして――。


その瞬間、孔明の脳裏に浮かんでいたのは、広大な荊州や益州の地図ではなかった。


地図の上に、点として存在する名もなき民の顔、そして友である徐庶、龐統、石広元たちの顔が、線で結ばれていくような、不思議な感覚だった。




(そうだ。わが計は、壮大で、緻密で、そしてあまりにも冷たい。この計に『人の心』という血を通わせなければ、それは天下を動かす神の一手ではなく、ただの机上の空論、人を駒としてしか見ない無慈悲な策略に過ぎなくなる…!)




草廬に戻った孔明は、壁に広げた地図から目を離した。


彼の視線は、地図の横に書き連ねた諸侯の名、城の名ではなく、その下に小さく記した数名の“名”の列に向けられていた。


龐統、崔州平、石広元、孟公威…そして、今目の前にいる、徐庶元直。




背後から、遠く村の子どもたちの無邪気な笑い声が聞こえる。


守るべきものは、天下という大きな器か、それとも、この笑い声そのものか。


答えはまだ出ない。だが、一つだけ分かったことがある。




(選ぶのは善悪ではない。この完璧な計略に固執する心を、一度捨てる勇気だ…)




孔明は、誠実な友の瞳を見つめ直し、静かに頷いた。




「元直、君のその槍は、ただの武具ではない。君の誠の心が宿ったものだ。その心が、道を照らすだろう。心して行け。そして、君の目で見たものを、また聞かせてくれ」




「ああ、必ず」




力強く頷き、徐庶は立ち上がった。




扉が閉まる音だけが、焚き火を一拍だけ弱くした。

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