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第八十二話  憎悪の策謀




潮の香りと夜霧が立ち込める呉の軍港、柴桑さいそう




その夜、大都督・周瑜の広大な館は、あるじの心の荒ぶりを映すかのように、息を殺したような静寂に支配されていた。




薄暗い寝室には、薬湯の苦い匂いと、病に冒された周瑜の荒く浅い呼吸の音だけが満ちていた。


眠りに落ちれば毎夜、悪夢が彼を苛む。


天を焦がし、曹操の大軍を焼き払ったはずの赤壁の炎が、今や自らの内側からその身を焼き尽くすのだ。


夢の中では、諸葛亮が漆黒の羽扇をゆるりとかざし、憐れむような、それでいて全てを見透かしたような嘲笑を浮かべて、もがき苦しむ自分を見下ろしている。




「ぐっ……かはっ……!」




激しい咳がこみ上げ、周瑜は純白の絹の掛け布団に、鮮烈な赤黒い血の染みをまた一つ作った。


その濁った瞳に宿るのは、もはや病の苦痛ではない。


骨の髄まで染み渡り、魂ごと蝕んでいくかのような、諸葛亮孔明という男への底なしの憎悪の炎であった。




彼の枕元には、手垢でしわくちゃになった荊州一帯の地図が、まるで呪詛の言葉を刻み込んだ呪符のように、常に無気味に広げられている。




公瑾こうきん……。頼むから、少しは心を休めてくれ。その燃え盛る憎悪は、孔明を討つ前に、友であるそなた自身の命を焼き尽くしてしまうぞ」




親友の痩せ衰えた姿に心を痛め、魯粛ろしゅくが静かに声をかけた。


呉を支える重鎮であるこの男の顔には、まるで親しい者の命の灯火が消えゆくのを見るかのような、深い憂慮の色が浮かんでいた。




「忘れたか、公瑾。我らの真の敵は、北に睨みを利かせる曹操という巨龍なのだ。今は劉備と力を合わせ、共に漢室を再興するという大義にこそ尽くすべき時ではないのか。この同盟こそが、我ら江東を守る何よりも強固な盾なのだ」




しかし、友を思う魯粛の理に適った言葉は、もはや憎悪という名の熱病に浮かされた周瑜の心には届かなかった。


彼は狂的な光を宿した目で親友を睨みつけ、かすれた声で吼えた。




子敬しけい、お前はまだ分からぬと言うのか! 劉備は人の手で飼い慣らせるような池の鯉ではない! 荊州という浅瀬に身を潜め、天に昇る機会を虎視眈々と窺う、恐るべき龍なのだ! そして、あの諸葛亮こそは、その龍に与えられた自由に天を翔ける翼に他ならぬ! あの男の翼をもぎ取り、地に叩きつけぬ限り、我ら呉に明日という名の光など訪れはしないのだ!」




その執念は、もはや国家の計略という理性の域を超え、周瑜個人の私怨という狂気の炎と化していた。


彼は地図上の荊州を、骨ばかりになった枯れ木のような指で何度もなぞりながら、己の命の残滓ざんしを絞り出すように、起死回生の策を練り上げていた。




数日後、周瑜は侍医の制止を振り切り、よろめく体を押して呉候・孫権の前に進み出た。




「我が君。この周瑜に、全てを覆す起死回生の策がございます」




力なく震える声。だが、その奥には異様なほどの熱がこもっていた。




「西蜀を治める劉璋りゅうしょうは、父祖より受け継いだ広大な地を守る器量も覚悟もなき暗君。まずは我ら呉の精兵がこれを討ち、その肥沃な地を劉備殿に進呈するという、抗いがたい名目を掲げるのです。そして、そのために軍を動かすので、荊州の通過許可を願い出ます」




「なに、蜀を劉備にくれてやると申すか?」孫権が訝いぶかしげに眉をひそめる。




「無論、名目にございます」




周瑜の乾いた唇が、病的な笑みの形に歪んだ。




「劉備がこの甘言を信じ、我らを友軍として城門を開いたその瞬間こそ、天が与えし好機。油断しきった荊州の諸城を電光石火の速さで奪い取り、劉備を生け捕りに致しましょう。道を借りる振りをして、その実、国を滅ぼす。古の晋の献公が用いた、かの『仮途滅虢かとめつかくの計』にございます」




非情にして、大胆不敵な策。


妹の孫夫人を劉備に奪われたという屈辱の念が未だ胸に燻っていた孫権は、周瑜の鬼気迫る熱意に抗しきれず、ついに重々しく頷いた。




「……よろろう。大都督、そなたに全てを任せる。この屈辱、必ずや荊州の地で晴らしてくれようぞ」




病める虎が放つ最後にして最大の策謀は、水面下で静かに、しかし確実に動き始めた。






その頃、荊州の公安城は、嵐の前の静けさとも知らず、束の間の平穏な日差しを浴びていた。




劉備の妻となった孫夫人は、持ち前の気丈さと聡明さで新しい生活に馴染み、時には兵の訓練に的確な助言を与え、時には呉の者と荊州の者の間のいさかいを公正に裁くなど、その将器の片鱗を見せていた。




だが、その活躍とは裏腹に、劉備の陣営に潜む二つの文化の軋轢は、誰の目にも明らかになりつつあった。


その一部始終を、城壁の上から一人の男が静かに見つめていた。


諸葛亮孔明である。


彼は手に持った羽扇で軽く顎を撫でながら、遥か長江の下流、呉の方角に憂いを秘めた目を凝らしていた。




そこへ、物音一つ立てず、影のように一人の男が歩み寄った。


人混みに紛れれば誰の記憶にも残らぬほど平凡な容姿だが、その双眸には鋼のような鋭い光が宿っている。




孔明が最も信頼を置く密偵、青陵せいりょうであった。




「軍師、柴桑よりただ今戻りました」




息一つ切らさぬ静かな声。


だが、その顔には長旅の疲れと、もたらした情報の重みが深く刻まれていた。




「ご苦労だった、青陵。して、彼の地の様子は?」


「は。大都督・周瑜の病は、噂以上に重いものと見受けられました。度々吐血を繰り返し、命の灯火も長くはないかと。されど…」




青陵は一度言葉を切り、声を潜めた。




「その執念は、病魔すら焼き尽くさんばかりに燃え盛っております。『仮途滅虢』…彼の口から、その策の名を確かに聞き及びました。西蜀を討つと偽り、我が荊州を騙し討つ計略にございます」




表立った宣戦布告はない。使者の一人も来ていない。


だが、青陵の命がけの働きにより、水面下で動く巨大な悪意の正体は、今や白日の下に晒された。


諸葛亮は全てを察した。


彼は静かに劉備の元へ向かうと、深く一礼して告げた。




「我が君。江東の虎は、深手を負い、もはや死期が近いやもしれませぬ。ですが、それ故にこそ、牙を研ぐことをやめてはおりませぬ。呉からのいかなる甘い言葉にも、決して耳を貸してはなりませぬぞ」




劉備が事の重大さに息を呑む。


静まり返る部屋で、孔明は遥か東を見据えたまま、静かにつぶやいた。




「策は動き出した。程なくして、呉から『信義』をまとった使者が参りましょう。…どのような芝居を打ってくるか、見せてもらおうではありませぬか」




その言葉通り、荊州に呉からの使者が到着したのは、それからわずか数日後のことであった。

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