第八十一話 宴の裏、虎の傷心
その夜に開かれた宴は、歓喜の坩堝と化した。
兵士たちは主君の生還を祝い、杯を重ね、声を枯らして笑い合った。
その熱気が、荊州の厳しい冬の夜気を暖めているようだった。
宴の半ば、張飛が立ち上がり、趙雲の前に大杯を差し出した。
「子龍! よくぞ兄者と義姉上を守り抜いてくれた! 四面楚歌の敵地で、たった一人、万の軍勢にも勝る働きよ! この一杯を受けてくれ!」
それを皮切りに、将軍たちから趙雲への賞賛の声が嵐のように巻き起こる。
趙雲はただ黙って差し出される杯を重ねたが、その常には冷静な顔に、深い安堵の色が浮かんでいた。
彼の脳裏には、江東での絶え間ない緊張の日々が、走馬灯のように駆け巡っていたのかもしれない。
宴の華やかさとは裏腹に、孫夫人の心は静かな波紋に揺れていた。
案内された部屋は、呉の壮麗な宮殿とは似ても似つかない、質実剛健そのものの造りだ。
だが、不思議と居心地の悪さは感じなかった。
むしろ、この飾り気のなさが、これから始まる新しい生活の厳しさと、そして誠実さを象徴しているように思えた。
(ここで、私は生きていくのだ)
窓の外に広がる異郷の夜空を見上げ、彼女は静かに誓う。
故郷を、家族を、過去の全てを、あの雄大な長江に流してきた。もはや振り返る道はない。
翌朝、まだ陽も昇りきらぬ冷たい暁の中、孫夫人は庭にいた。
共に荊州へ来た侍女たち――その一人一人が、呉の精鋭として鍛えられた女武者である――と共に、剣の稽古を始めたのだ。
「やあっ!」
空気を切り裂く鋭い気合と共に、彼女の剣が朝靄を払うように舞う。
その動きには一切の無駄がなく、見る者の心を射抜くような気迫が満ちていた。遠巻きにその様子を見ていた荊州の兵士たちは、度肝を抜かれて立ち尽くす。
あれが、江東の虎の娘かと。
その美しさの中に宿る、恐るべきほどの武の力に、誰もが息を呑んだ。
その光景を、劉備は少し離れた回廊から、微笑ましくも、どこか困ったような複雑な表情で見守っていた。
あの気性の激しさが彼女の抗いがたい魅力であり、同時に、この荊州の地で波乱を呼ばねばよいが、と。
だが、彼の背後にいつの間にか立っていた張飛は、腕を組みながら腹の底から愉快そうに笑っていた。
「はっ、大したもんだぜ、義姉上は。ありゃあ飾り物の姫君じゃねえ。下手をすりゃ、俺の隣で戦えるかもしれねえな」
その言葉に、劉備の心に温かいものがじわりと広がった。気性の異なる弟と妻が、互いを認め合う第一歩。
それこそが、劉備が何よりも望んでいた、新しい家族の形だった。
夜が更け、皆が寝静まった深夜、劉備は諸葛亮の部屋を訪れていた。
昼間の喧騒が嘘のような静寂の中、揺れる灯火を挟んで二人は向かい合う。
「孔明…」
劉備の声は、深い感謝と安堵に震えていた。
「そなたがいなければ、私の命も、この志も、とうに長江の底に沈んでいたであろう。…礼を言う」
深々と頭を下げる主君に対し、孔明は静かに羽扇を揺らすのみだった。
その表情は、勝利の喜びに浸るものではない。むしろ、その逆だ。
その瞳は、遥か先の闇を見据えている。
「我が君、お顔を上げてください。此度のことは、束の間の勝利に過ぎませぬ」
その氷のように冷静な声に、劉備は顔を上げた。
「孔明。私はそなたによって周瑜の策を破り、妻を連れて帰ってきた。これ以上の勝利があるか?」
「勝利であると同時に、我々は長江の流れに乗せ、新たなる戦の火種を持ち帰ってしまったのです」
孔明は、卓上の地図に視線を落とす。その指先が、呉の国をなぞった。
「この一件で、周瑜の我らへの恨みは骨髄に達しました。そして何より、孫権殿との同盟には、修復しがたいほどの深い亀裂が入ったのです。周瑜は必ずや、この屈辱を晴らすべく、次の一手を打ってくるでしょう。江東の虎は、傷つけられた時こそ、最も牙を剥くもの。我々はそれに備えねばなりません」
孔明の言葉は、冬の夜気のように冷たく、劉備の浮かれた心を静かに引き締めた。
そうだ、戦いはまだ、何も終わってはいないのだ。
荊州に訪れた安堵は、嵐の前の静けさに過ぎなかった。
その頃、長江を下った先、呉の柴桑では、一人の男が病床に呻いていた。
周瑜、その人である。
己の知略が、諸葛亮の前に完膚なきまでに打ち破られた。
劉備を鳥籠に閉じ込めるはずが、まんまと虎の子の姫君まで奪われて逃げられた。
その衝撃と屈辱は、彼の心身を内側から深く、深く蝕んでいた。
「周瑜! しっかりせよ!」
見舞いに訪れた孫権が、血の気の失せた友の顔を覗き込む。
周瑜は、か細い声で、しかし燃え盛る執念を瞳に宿して主君を見上げた。
「我が君…この周瑜、一生の不覚…!」
ごふっ、と赤黒いものが喉から込み上げる。それは、彼の砕かれた誇りから流れ出た血であった。
「…ですが、このままでは終わりませぬ。この屈辱、この恨み…必ずや晴らしてみせまする。必ずや、諸葛亮の首を取り、荊州を…この手に…!」
血を吐くような執念の言葉。
その憎悪は、もはや国を憂う忠義の炎ではなかった。
ただ一人、諸葛亮という男の存在そのものを焼き尽くさんとする、狂おしいまでの私怨の業火であった。
孫権は、友であり、呉の大黒柱でもある男のその痛ましい姿に、唇を固く噛み締めた。
妹を奪われた怒りと、友をここまで苦しめた孔明への憎しみが、彼の心にもまた、暗く、冷たい炎を灯していた。
荊州に訪れた束の間の安らぎの裏で、江東の虎は、次なる一撃のために、深く、静かに、その傷心を憎悪へと変えながら、牙を研いでいた。




