第七十九話 【呉国逃避行・第三部】『長江の飛龍』
正月十五日、元宵節の夜。
柴桑の街は、家々の軒先に揺れる無数の提灯に照らされ、まるで地上に降りた天の川のような幻想的な光景を映し出していた。
祝いの音楽と人々の喧騒が、これから始まろうとする壮絶な逃避行の気配を巧みに覆い隠している。
「さあ、参りましょう、あなた」
孫夫人は、夫の悲しみを癒すための旅だと信じ、その腕にそっと寄り添った。
劉備は彼女に罪悪感で胸を締め付けられながらも、英雄としての仮面を崩さず、静かに頷いた。その瞳の奥には、二度と引き返せぬ道を行く男の、悲壮な覚悟が燃えていた。
城門は、呉国太の許可証と、何より孫夫人の存在によって、滞りなく開かれた。だが、門を抜けた一行の背後に、数騎の影が距離を置いて従ってくるのを、趙雲は見逃さなかった。
周瑜の監視の目だ。
全ては、都督の掌の上で始まろうとしていた。
一行は、青凌が手配した長江の船着き場へとたどり着いた。
そこに繋がれていたのは、飾り気のない、しかし異様に船足の速そうな一艘の小舟だった。
「飛龍船、とでも呼びますか。さあ、時間がない!」
青凌に促され、一行が乗り込むと、船は音もなく岸を離れ、夜の闇が広がる大河へと滑り出した。
だが、安堵の時は一瞬だった。
川霧の向こうから、松明の光が次々と現れる。
その数は瞬く間に増え、気づけば前後左右を、周瑜配下の蒋欽・周泰が率いる呉の水軍に完全に取り囲まれていた。
「もはや逃げ道はない! 劉備玄徳、おとなしく投降せよ!」
敵将の勝ち誇った声が、川面に響き渡る。
降り注ぐ矢、じりじりと狭まる包囲網。
絶望的な状況に、孫夫人は愕然とした。
「あなた、これは…一体!?」
その時、劉備は妻の肩を掴むと、真っ直ぐにその目を見つめて言った。
「夫人、すまぬ。あなたを欺いた。私は荊州へ帰らねばならぬ。天下万民との誓いを、果たすために」
彼の声は、苦渋に満ちていた。
「私を斬り、呉へ戻るか。それとも、夫と共にこの修羅の道を行くか。今、ここで決めてほしい」
孫夫人の瞳から、涙が溢れた。
欺かれた怒り、そしてそれ以上に、夫が背負う宿命の重さに胸を打たれた。彼女は呉の姫、しかし、今は劉玄徳の妻。
しばしの葛藤の後、彼女は毅然と顔を上げた。
「私は、我が夫の信じる道を行くまで!」
孫夫人は船の舳先に立つと、自らの顔を松明の光にさらし、包囲する軍船に向かって雷のような声で叫んだ!
「無礼者! 私は孫権が妹、劉玄徳が妻であるぞ! この私に矢を射かけるというのか!」
その凛とした威厳に、呉の兵士たちの動きが一瞬、明らかにためらわれた。
その刹那を見逃す者たちではない。
「今だ!」
青凌の合図と共に、飛龍船は驚異的な速度で加速する。
彼はこの水域の川の流れと風を完璧に読み切り、最も危険で、しかし最も速い航路を選んだのだ。
接舷してきた敵船からは、趙雲が涯角槍を振るい、鬼神の如く敵兵を薙ぎ払う。彼は一人で、決して敵を船内に入れさせなかった。
兵たちの躊躇いと、青凌の操船術、そして趙雲の武勇。
三つの奇跡が重なり、飛龍船は包囲網の一角を、まさしく龍が天に昇るが如く突き破った。
しかし、周瑜の罠はそれだけではなかった。
水軍を振り切った先、上陸せざるを得ない隘路で、潘璋が率いる陸兵が鉄壁の陣を敷いて待ち構えていた。
「もはやこれまでか…!」
誰もが死を覚悟した、その時だった。
突如、伏兵たちの背後から、地を揺るがすような鬨の声が轟いた。木々の間から現れたのは、青龍偃月刀を携えた関羽の旗印。
荊州の精鋭部隊が、敵の背後を襲った。
周瑜は、水路と陸路の両方に罠を仕掛けた。
孔明がそれを読むことも、周瑜は読んでいた。
だが、孔明はそのさらに裏をかいていた。
彼は、周瑜が「裏を読んだ」と確信するであろうことまで予測し、劉備たちが最も追い詰められ、敵が最も油断するであろう、まさにこの場所、この瞬間に、最強の援軍を潜ませていたのだ。
神算、ここに極まれり。
形勢は一瞬にして覆り、潘璋の部隊は混乱に陥る。
劉備たちは、駆けつけた関羽の軍に、万感の思いで合流した。
柴桑の都督府に、敗報が届いた時、周瑜は全てを悟った。
己の知略が、孔明の深謀遠慮の前に、完璧に打ち砕かれたことを。
彼は天を仰ぎ、血を吐くような声で慟哭した。
「天は、なぜこの周瑜を生みながら…なぜ、諸葛亮をも生んだのだ!!」
その絶叫は、長江の夜風に虚しく吸い込まれていった。
英雄は、忠臣の働きと、気高き妻の決断、そして好敵手の神算によって、再び龍のごとく、天下へと舞い戻ったのである。




