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第七話 龍の淵、鳳の翼




草廬の周りには、穏やかな昼下がりの光が満ちていた。




軒先で薬草を干す香りが風に乗り、涼やかな読書の声と、子供たちの屈託のない笑い声が混じり合う。




諸葛孔明は、石の上に広げた竹簡から時折顔を上げては、泥だらけの顔で字の練習をする子供たちの小さな頭を、慈しむように眺めていた。


彼らは、孔明にとって単なる情報源ではなかった。




戦乱で親を失い、あるいは食い詰めて流れ着いた子供たちに、彼は読み書きを教え、わずかな食料を分け与え、そして何よりも彼らの「目」が見てきた世界の断片に、真摯に耳を傾けていた。




大人が語るよりも遥かに飾り気のない、ありのままの世情が、そこにはあったからだ。




「先生、先生!」




一人の少年が、息を切らして草廬に駆け込んできた。


その目は、何か途方もないものを見つけたかのように輝いている。




「新野のお城にいる劉備ってお役人、やっぱりすごいよ! この前、うちの村のじいちゃんが役人に突き飛ばされて怪我した時、通りかかった劉備様が自分の衣を裂いて血を止めてくれたんだって!『民を敬えぬ者に、民は従わぬ』って、家来の人たちをすごく叱ってたって!」




他の子供たちも「知ってる!」「あの人は、俺みたいなガキにも頭を下げて挨拶してくれるんだ!」と口々に騒ぎ立てる。




その熱のこもった噂話は、孔明が様々な情報網から集めてきた、かの劉玄徳という人物の評判と寸分違わず一致していた。




(民草の心に、これほど自然に溶け込む徳…。だが、それだけでは…)




孔明が、興奮冷めやらぬ少年から更に詳しく話を聞こうと身を乗り出した、その時だった。




草廬の入り口に、いつの間にか一人の男がもたれかかって立っていた。


垢じみて所々が擦り切れた粗末な衣、無頓着に伸び放題となった髪。


まるで長い旅の埃を全身に纏ったかのような風采だ。




しかし、その奥に光る双眸そうぼうは、ただ者ではなかった。


底知れぬ知性を宿し、それでいて獲物を品定めするかのような、


人を食った鋭い光を放っている。


その男の周りだけ、昼下がりの穏やかな空気が歪んでいるかのようだった。




先ほどまであれほど騒がしかった子供たちが、蛇に睨まれた蛙のように静まり返っている。


少年は、震える指でその男を指さして叫んだ。




「せ、先生! さっき言ってたのこの人だよ!“なりきり”がやたら上手いんだ…!」




男は、にやりと口の端を吊り上げた。


その笑みは、孔明の心の奥底までも見透かしているかのようだ。




「臥龍先生の子供好きは、まことのようだな。いや、子供の『目』がお好きなのかな?」




その声は、ひどくしわがれているのに、奇妙なほど明瞭に響いた。




「荊州に面白い龍が寝ていると聞いたんで、どんな青臭い夢を見ているか、この目で確かめに来てやったんだが…。噂以上かもしれん」




その第一声は、孔明が築き上げた静かなる情報網の、まさに核心を突いていた。


子供たちは、男の放つただならぬ気配に完全に気圧され、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。




一瞬にして静寂が戻った草廬で、孔明は動じることなくすっくと立ち上がると、男に向かって静かに両手の拳を合わせて軽く上下させ、挨拶した。




「ようこそおいでくださいました。旅の方とお見受けしますが、よろしければ粗茶などいかがですかな」




男は、孔明のその落ち着き払った態度が面白くてたまらないというように、大股で中へ入ると、まるで自分の住処であるかのように、どかりと腰を下ろした。


彼は出された茶の香りを確かめるでもなく一息にすすり、碗をことりと置くと、挑発的な眼差しで孔明を射抜いた。




「あんたの描いている図は、俺にも見える。この荊州の地を得て、さらに西の益州を併せる。江東の孫権と同盟を結び、北の曹操と対峙する。天下を三つに分かち、その機に乗じて漢室を復興する…。天下三分の計か。実に壮大で、美しい絵図だ。だがな、臥龍殿」




孔明が静かに聞いていると、男の声に、不意に激しい熱がこもった。


それは、まるで心の奥底で燃え盛る業火が、言葉となって噴出したかのようだった。




「その美しい絵図が完成するのを待っている間に、泥水の中で犬のように死んでいく民をどうする!? あんたの言う『王者の徳』が天から降ってくるのを待っている間に、俺の故郷の村は賊に焼かれた! 『正義』を語る役人どもは、民を見捨てて真っ先に城門を閉じたぞ! 門の内側で安堵する奴らの顔と、門の外で炎に呑まれていった幼馴染の顔が、今でも夢に出る! あんたのような賢人が描く壮大な『未来』のために、今、目の前で死んでいく人間を見捨てろと言うのか!」




その言葉が、鋭い刃のように草廬の空気を切り裂いた。




孔明は、一瞬だけ、固く目を閉じた。


まるで、その言葉が突き立てられた心の痛みを、瞼の裏で受け止めるかのように。


やがて静かに目を開けた時、その瞳の奥には、深い悲しみの色と、それでもなお揺るがぬ覚悟の光が宿っていた。




「だからこそ、です」




その声は静かだったが、千鈞せんきんの重みがあった。




「一時しのぎの奇策ではない。力ある者が気まぐれに施す温情でもないのです。二度と、あなたのご友人のような悲劇が繰り返されぬよう、誰もが見捨てられることのなく保護される、揺るぎない『仕組み』と『秩序』を、この大地に築かねばならぬのです。それこそが、私の目指す道。いかなる痛みを伴おうとも」




「仕組み、か。秩序、か。結構なことだ」




龐統は、吐き捨てるように言って、自嘲の笑みを浮かべた。




「だがな、その立派な仕組みとやらができる頃には、救うべき民は骨になっているかもしれん。理想ってのは、腹が減っている人間には何の役にも立たんのだ。俺はもう待てん。泥をかき回してでも、汚い手を使ってでも、奇策を用いてでも、目の前の人間を一人でも多く、この手で救い出してみせる。それが、俺のやり方だ」




彼の道もまた、一つの正義であった。


理想のために今を耐える孔明と、今を救うために未来を賭ける龐統。




二つの正義は、容易に交わることはない。




龐統はすっくと立ち上がった。




「達者でな、臥龍殿。あんたの計は面白い。だが、俺にはちと壮大すぎる」




彼は草廬を出ると、不意に吹きつけた風に舞う一枚の落ち葉を手で払った。そして、まるで旧知の友に語りかけるように、その落ち葉に向かって独りごちた。




「おっと、お前まで俺に説教か。『風向きが変わるのを待て』だと? あいにくだが、俺にはそんな悠長な真似はできん。臥龍殿のような賢人の話でも、長過ぎるのはごめんでな」




その背中には、癒えることのない痛みを抱えながらも、それを飄々と時代を乗りこなす男の色気があった。


龐統は一度も振り返ることなく、夕暮れの闇の中へと消えていった。




嵐のような来訪が過ぎ去り、草廬に完全な静寂が戻ってきた。


龐統が座っていた場所が、ぽっかりと空いている。


彼が持ち込んだ土埃の匂いが、まだ微かに残っているようだった。




火鉢の炭火が、力なくぱちりとはぜる。


一人で冷めた茶をすする音が、がらんとした室内にやけに大きく響いた。


孔明は、静かに天を仰いだ。星が瞬き始めている。




(彼の道もまた、一つの正義やもしれぬ。あまりに苛烈で、あまりに哀しいが…)




龐統の言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。


自らの描く計の壮大さと、その実現のために支払われるであろう犠牲の重さが、改めてその両肩にずしりとのしかかる。




龐統との対話は、孔明に確信させた。


この計は、並の君主では、到底、背負いきれない。


生半可な徳や武勇では、あまりの重さに潰れてしまうだろう。




(鳳雛殿、あなたの言う通り、この計はあまりに危うい劇薬だ。だからこそ、この薬を飲み干せるだけの器を持つ者でなければ、託すことはできぬ。民の痛みを知り、理想の重さに耐え、それでも前へと進む意志を持つ者…。だが、その器は、果たしてこの天下に存在するのか…)




龍は淵の底で、答えの出ぬ問いを、ただ独り、抱き続けていた。


その静かなる苦悩を、知る者はまだ誰もいない。

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