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第七十八話 【呉国逃避行・第二部】『決断の火花』




劉備が孫夫人を娶り、江東の地で一つの冬を越した頃。


年が明け、祝祭の気配が街を満たし始めていた。




柴桑の夜市は、人の熱気と様々な品物が発する匂いに満ち、まるで命ある巨大な生き物のように喧騒を響かせている。




趙雲は気配を完全に消し、その雑踏の中を、一筋の影となって進んだ。


彼の胸中は、煮えたぎる溶岩のような焦燥で満たされていた。


主君の魂が、あの絢爛たる館で日々少しずつ溶かされていく。




その悪夢を断ち切れるのは、もはや自分しかいない。




やがて、異国の香辛料を扱う露店の前で足を止めると、主の男――青凌せいりょうにだけ聞こえる声で囁いた。




「…主は、甘き夢に囚われたままだ」




その声に滲む痛切な響きに、青凌は香木を削る手を止め、顔色一つ変えずに応じた。




「ならば、目を覚まさせるための劇薬が必要だな。…孔明様はお見通しだ。あんたから預かった、あの錦嚢に記されていた策…いよいよ実行の時が来た」




青凌の口から語られた計画は、あまりにも大胆不敵なものだった。




正月十五日の元宵節、人々が祝祭に浮かれるその夜に乗じて、城外へと脱出する。


そしてその鍵を握るのは、妻となった孫夫人だという。




趙雲は息を呑んだ。これは単なる武力による突破ではない。


人の心、それも最も近しい人間の情愛をも利用する、孔明ならではの神算であった。


だが、もはや躊躇う時間は残されていない。




「…承知した。全ての責めは、俺が負う」




趙雲は短く応えると、再び闇の中へと消えていった。


その背中には、主君を泥沼から救い出すという、鋼のような決意が漲みなぎっていた。




その夜、趙雲は全ての覚悟を決め、劉備の寝所を訪れた。


二人きりになると、彼は青凌から聞いた脱出計画の全てを、一言一句違えることなく主に告げた。




話が進むにつれて、劉備の顔から血の気が引いていく。


穏やかだった瞳が、信じられないものを見るかのように大きく見開かれ、苦悩と動揺に激しく揺れていた。




「夫人を…欺けと申すか! 彼女は俺を信じ、心から尽くしてくれているのだぞ! その汚れなき心を、偽りの涙で踏みにじるなど、人の道に反する! 断じて、断じてできぬ!」




劉備の悲痛な叫びが、静まり返った部屋に響いた。


この数ヶ月の安寧と、妻への偽りのない愛情は、もはや彼の魂の一部となっていたのだ。




その苦しみを痛いほど理解しながらも、趙雲は退かなかった。


彼は床に両膝をつくと、主の目を真っ直ぐに見据え、魂の底から訴えかけた。




「殿! 我らが荊州を出て、どれほどの月日が流れたとお思いですか! 関羽殿も張飛殿も、そして殿を信じる民も、ご帰還を一日千秋の思いで待っております! 天下万民のために立つと誓われた、あの桃園での熱き血潮は! この呉の地での束の間の幸福のために、捨て去ってもよいものなのですか!」




趙雲の言葉の一つ一つが、見えない刃となって劉備の胸を抉る。


脳裏に、埃まみれの戦場を駆け抜けた日々が、苦楽を共にした兄弟たちの顔が、そして「天下泰平」というあまりにも重く、あまりにも遠い夢が、灼熱の烙印のように鮮やかに蘇る。




「……雲よ」




劉備は、絞り出すような声で忠臣の名を呼んだ。




「……俺は、いつからか、道を違えようとしていたようだ」




瞑目した彼の目から、一筋の涙が静かに頬を伝った。


それは、失いゆく穏やかな日々への訣別の涙か。


それとも再び過酷な宿命の荒野へ戻る、己の魂への慟哭か。




眠っていた英雄の心に、再び決断の火花が、激しく散った瞬間であった。






翌日、劉備は孫夫人の前で、まるで心が砕け散ってしまったかのように泣き崩れた。


彼は、故郷である涿郡たくぐんで、打ち捨てられた父祖の墓が雪に埋もれていく夢を見たと、嗚咽を漏らしながら語った。




天下のために戦いながら、親孝行の一つもできぬ我が身の不孝を、身をよじって嘆いた。




「せめて、長江の岸辺からでもよいのだ。故郷の方角を向き、先祖の霊に許しを請いたい。夫人、どうか…どうかこの哀れな男の願い、お聞き届けくだされ…」




それは、あまりにも人間的で、あまりにも痛々しい英雄の慟哭だった。


彼の涙は、天下万民のための大義を背負う男の、偽らざる孤独の表れだと、武勇を好み情に厚い孫夫人が信じて疑うはずもなかった。




夫の意外な弱さは、彼女の母性本能を激しく揺さぶった。




「あなた…。どれほどお辛いことか…。わかりました。このことは、私が母上様に必ずお許しをいただけるよう、お話いたします。ですから、もうお顔をお上げになって…」




彼女は、愛する夫をその苦しみから救いたい一心で、自らが壮大な計略の駒となることを、固く誓ったのであった。








柴桑の都督府に、劉備が「長江で祭祀を行いたい」と願い出たという報告が届いた時、周瑜は全てを察した。


彼の唇の端に、氷のような冷たい笑みが浮かぶ。




「…面白い。安楽の沼で眠っていた虎が、ようやく目を覚ましたか。父祖の墓とは、よく考えたものだ」




側にいた重臣が、慌てて進言する。




「都督!これは明らかに脱出の口実!すぐさま捕縛すべきです!」


「ならぬ。泳がせるのだ」




周瑜の瞳が、獲物を見つけた鷹のように鋭く光った。




「諸葛亮のことだ。必ずや策を幾重にも重ねていよう。だが、ここは江東、俺の庭だ。貴様らが天に逃げようと地に潜ろうと、全て私の掌の上よ」




彼は卓上の地図を広げると、そこに完璧な包囲網を描き始める。水路に潜ませる伏兵。陸路を断つための隘路の罠。その采配に、一点の淀みもなかった。




「諸葛亮よ、そして劉備よ。貴様らのために、一世一代の夢舞台を用意してやった。せいぜい見事に踊り、そして…死ぬがいい」




正月十五日、元宵節の夜。




英雄の覚悟と、軍師の神算、そして都督の慧眼が、長江のほとりで激突しようとしていた。運命の夜は、もうすぐそこまで迫っていた。

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