第七十七話 【呉国逃避行・第一部】 『甘き毒の罠』
冬の厳しい寒さが和らぎ、長江の川面を渡る風に春の気配が混じり始めた頃。
劉備が孫夫人を娶ってから、すでに数ヶ月が過ぎていた。
柴桑に与えられた壮麗な館は、まるで春の訪れを祝うかのように、連日連夜、華やかな賑わいに満ちていた。
周瑜が手配したのだろう、江東中から集められた楽師が奏でる優雅な調べ、酌めども尽きぬ美酒、そして何よりも、美しく気丈な妻・孫夫人の存在。
劉備は、その生涯で初めてと言ってよいほどの、穏やかで満ち足りた日々に浸っていた。
「あなた。今日は呉の若手たちと、詩の会を開くそうですね」
武芸を好む勇ましい姫も、夫の前では一人の愛らしい女性だった。
劉備の鎧を慈しむように手入れしながら、屈託なく笑いかける。
「ああ。荊州での戦の話ばかりでは、皆も飽きてしまうであろう」
劉備はそう応えると、夫人の肩を優しく抱いた。
その表情には、かつて天下の荒波を渡ってきた英雄の険しさはなく、ただ愛する者と共にある男の、穏やかな幸福だけが満ちていた。
だが、その絢爛たる日常の片隅で、一人の男だけが、決して表情を崩さなかった。
趙雲である。
彼の目には、この華やかな館そのものが、主君の魂を絡めとるための、絢爛たる鳥籠にしか見えなかった。
毎夜の宴も、心地よい音楽も、全ては英雄の牙を抜き、その志を忘れさせるための甘く、心地よい毒。
趙雲は、その毒が日に日に主君の心を蝕んでいくのを、肌で感じていた。
その頃、柴桑の都督府では、周瑜が静かな満足と共に報告を受けていた。
「…劉備殿は、近頃めっきり軍議の話をされなくなりました。もっぱら、若手の者たちと詩作に興じ、狩りに出られては、孫夫人への土産と獲物を競っておいでです」
部下の呂蒙がそう告げると、周瑜は筆を置き、窓の外に咲き始めた梅の枝に目をやった。
「そうか。…上々の滑り出しだな」
その声には、何の感情も含まれていなかった。
「英雄を殺すのに、刃は要らぬ。美酒と女、そして安逸という名の鞘を与え、その牙をゆっくりと錆びつかせてやればよい。ましてや、あの男は長年流浪の身。これほどの安らぎを知れば、二度と荒野へ戻る気力は失せよう」
周瑜の瞳は、怜悧な光を宿していた。
「諸葛亮は、我が君の母君の『情』に訴えて危機を脱したつもりであろうが、甘いな。俺は、劉備自身の『心』を攻める。人の心が一度安楽を覚えてしまえば、いかなる軍師の言葉も届きはせぬ。劉備はもはや、この江東の地で生涯を終えるのだ。籠の中の鳥としてな」
彼の計略は、すでに次の段階へと移行していた。
それは武力ではなく、人の心を内側から崩していく、より冷徹で、より残忍な罠であった。
その夜もまた、館では盛大な宴が開かれていた。
笑いさざめく呉の将や家臣たち。
その中心で、孫夫人に酒を勧められ、上機嫌に杯を干す劉備。
その光景を、趙雲は柱の陰から、身を切られるような思いで見つめていた。
(殿は、本当にこのままでよいとお考えなのか…)
脳裏に、荊州で帰りを待つ者たちの顔が浮かぶ。
義兄弟の契りを交わした関羽と張飛。そして、この苦境を打開すべく、日夜策を練っているであろう軍師・諸葛亮。彼らの忠義と期待を、この江東の地で裏切ることになるのか。
(このままでは、龍は沼に沈んでしまう…!)
趙雲は、意を決して劉備のもとへ歩み寄った。
この偽りの安寧の危険性を、今こそ主に説かねばならない。
だが、彼が口を開こうとした、その時だった。
「玄徳様、こちらへ。父が愛した古今の名曲を、あなたにもお聞かせしたいのです」
孫夫人が劉備の手を取り、楽しげに楽師たちの方へと誘う。
それに応える劉備の笑顔は、一点の曇りもなく、幸せに満ちていた。
その姿を前にして、趙雲の言葉は、喉の奥で氷のように凍りついた。
この幸福を、この笑顔を、己の進言で打ち砕いてしまってよいものか。
趙雲は、唇を噛み締め、静かにその場を離れるしかなかった。
自室に戻った彼は、壁に立てかけてある愛槍・涯角槍に手を伸ばす。ひやりとした鉄の感触が、彼の燃えるような焦燥をわずかに鎮めてくれた。
(もう、待てぬ)
主君が進言を聞き入れぬのならば、こちらから動くしかない。
孔明殿が託してくれた、あの策を実行に移す時が来たのだ。
趙雲の双眸に、かつての鋭い光が戻った。
彼は音もなく武具を身に着けると、館に張り巡らされた監視の目を巧みにかいくぐり、夜の闇へと溶け込むように姿を消した。
目指すは、柴桑の喧騒渦巻く夜市の一角。
そこにいるはずの、孔明が絶対の信頼を寄せる密偵、「翼」の男と接触するために。
今、静かに、しかし翼に空気を集めるが如くゆっくり動き始めた。
英雄の魂を、この甘き毒の罠から救い出すために。




