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第七十六話  仁徳の涙




甘露寺の朝は、荘厳な静寂に満ちていた。




長江からしずしずと昇る朝霧が、歴史を刻んだ古刹のいらかを優しく濡らしている。


厳かに焚かれた香の匂いが、夜明けの清澄な空気と溶け合い、ここは俗世から完全に切り離された聖域であるかのような雰囲気を醸し出していた。




だが、その神聖なまでの静けさとは裏腹に、劉備の心は荒れ狂う嵐の海のようであった。




「…雲よ。この劉備、まこと婿として受け入れられるのであろうか」




寺へと向かう輿の中で、劉備は心の臓から絞り出すように呟いた。


その顔には、天下にその名を轟かせる英雄の威厳はなく、ただ運命の審判を前にした一人の男の、どうしようもない弱々しさが痛々しく滲んでいた。




「御心のままに。殿は殿のままでおられれば、必ずや国太様もお分かりになりましょう」




傍らに控える趙雲は、静かに、しかし揺るぎない確信を込めて応じた。


彼の目は、すでに寺の楼閣の向こうに潜む不穏な気配を捉えていた。


この神聖であるべき場所に、周瑜が冷徹な計算のもと張り巡らせたであろう、氷のように冷たい策謀の気配を、肌で感じ取っていたのだ。




やがて、会見の間へと通された劉備を待っていたのは、息もできぬほどの凍てついた緊張であった。




上座には、呉国太。


その佇まいは穏やかだが、その瞳の奥には、娘の婿となる男の器量を寸分違わず見定めようとする、鋭い光が宿っている。




隣には、母への敬意と盟友・周瑜への義理との間で板挟みとなり、苦悩の色を隠せない若き君主・孫権が硬い表情で座している。


そして周囲には、周瑜の意を受けた重臣たちが、まるで深手を負った獲物を前にした狼の群れのように、冷たく、侮蔑に満ちた視線を劉備へと突き刺していた。




案の定、挨拶もそこそこに口火を切ったのは、筆頭重臣の張昭であった。




劉皇叔りゅうこうしゅく。荊州は元来、我ら江東のもの。いつお返しいただけるおつもりか」




それは、あまりにも無遠慮な詰問だった。


これを皮切りに、次々と劉備の人格そのものを貶めるための問いが、毒矢のように浴びせられる。




「先の奥方を亡くされたばかりと聞く。その悲しみも癒えぬうちに、我が君の妹君を娶るとは。信義にもとるのではござらんか」




劉備は、その一つ一つに、飾り気のない言葉で応じた。


それは弁舌の巧みさではなかった。


だが、流浪の果てに苦難を嘗め尽くした男の魂から絞り出された言葉は、一つ一つに不思議な重みと熱が籠もっていた。




荊州は一個人のものではなく漢の皇室のものであり、天下が安んじられた時にこそその帰属は決まるのだと述べ、亡き妻への断ち切れぬ想いと、それでもなお天下万民のために江東との絆を結ばねばならぬ苦しい胸の内を、静かに、しかし真っ直ぐな瞳で語った。




その姿に、呉国太の厳しい表情が、ほんのかすかに和らいだのを趙雲は見逃さなかった。




(…流れは、こちらに傾きつつある)




だが、その微かな変化に誰よりも早く気づき、焦りを覚えたのは孫権であった。


彼は背後の武将に、誰にも気づかれぬよう、小さく、鋭く目配せをした。




その瞬間、それまでの舌戦がまるで児戯に思えるほど、場の空気が凍てついた。




知的な緊張とは質の違う、剥き出しの殺気が、会見の間に満ち満ちてゆく。


控えていた武将・賈華かかがずいと前に進み出ると、腰の剣に手をかけ、傲然と言い放った。




「劉皇叔は天下に名だたる英雄と聞き及ぶ! 我ら江東の兵、ぜひともその武勇を拝見したい! お手合わせ願おう!」




それは試合の申し込みなどではない。


有無を言わさぬ、殺気を孕んだ騙し討ち。


周瑜が仕掛けた、あまりにも非情な罠であった。


断れば臆病者と罵られ、受ければこの場で命を落とす。




「無礼者!」




趙雲が劉備を庇うべく前に出ようとしたが、その四方はすでに孫権の兵によって鉄壁のように固められていた。


冷たい槍の穂先が、趙雲の喉元に突きつけられる。絶体絶命の窮地。




劉備は、己の死を覚悟した。


だがその時、脳裏にあの軍師、諸葛亮の涼やかな顔が浮かぶ。


彼は最後の望みを託し、魂の底から叫んだ。




「雲よ! 孔明の錦嚢きんのうを!」




趙雲は兵の制止を剛力で振り払い、懐から最後の一つとなった錦嚢を取り出すと、劉備へと投げ渡す。




震える手で封を切った劉備の目に飛び込んできたのは、誰もが意表を突かれる、あまりにも人間的な一文だった。




『ただ、国太に泣きつけ』




「…な…」




英雄玄徳が、人前で泣きつくなど。


そのあまりの策に、劉備は一瞬、全身の血の気が引いた。




だが、躊躇は刹那であった。




彼はもはや疑わない。


あの希代の軍師の知略に、己の全てを賭けることを決意した。




劉備は、手にした剣をカランと音を立ててその場に放り出すと、おもむろに呉国太の前へと進み出て、その場に深く両膝をついた。




英雄の仮面を脱ぎ捨て、天下の劉玄徳であることを忘れ、ただ一人の男として、実の母に対するように呉国太を見上げる。


その瞳からは、堰を切ったように大粒の涙が、後から後から溢れ落ちた。




「国太様…いえ、母上…!」




それは、もはや天下の英雄の姿ではなかった。


彼の涙は、漢室復興というあまりにも重い責務を物語っていた。


志半ばで倒れていった仲間たちへの慟哭を物語っていた。




そして、仁義という孤高の道を貫くことの、果てしない孤独と苦悩を物語っていた。




「私は、ただ天下の安寧を願うばかりにございます。この縁談も、民が安らかに暮らせる世を作るため、江東との絆を固めたい一心から…。この劉備、それほどまでに皆様から憎まれるようなことをいたしましたか…!」




声を震わせ、子供のように泣きじゃくる劉備の姿に、その場にいた誰もが言葉を失った。


呉国太の目には、もはや天下を狙う野心家の姿は映っていなかった。


そこにいたのは、あまりにも重い宿命を背負い、民を想い、それでもなお信義を貫こうともがく、一人の男の孤独な魂の叫びであった。




「どうか、この劉備をお助けください、母上…!」




その悲痛な叫びは、呉国太の心を、母としての心を、激しく揺さぶった。


目の前の男に、彼女はかつて乱世に身を投じた亡き夫・孫堅の背中を見た。若くして非業の死を遂げた最愛の息子・孫策の純粋な瞳を見た。




理屈や計算ではない。


母としての情が、彼女の中で激しく燃え上がった。




「婿殿をいじめるでない!!」




雷のような一喝が、甘露寺の静寂を切り裂いた。




呉国太は憤然と立ち上がると、賈華と、そして我が子である孫権を鋭く睨みつけた。




「我が婿殿に剣を向けるとは何事か! この母の目の前で、あまりにも無礼であろう!」




その鶴の一声で、場の空気は完全に覆った。


彼女の怒りは、もはや誰にも止めることはできない。




呉国太は劉備のそばに駆け寄ると、優しくその手を取り、満座の者たちにはっきりと宣言した。




「この劉備玄徳こそ、わが息子にふさわしい。この縁談、この呉国太が認めます!」




周瑜が完璧に張り巡らせたはずの策謀の網は、孔明がただ一点だけを読み切った「人の情」、そして劉備が流した一筋の「涙」によって、もろくも打ち破られたのであった。




呆然と立ち尽くす孫権と重臣たち。




その傍らで、趙雲は静かに天を仰いだ。


そして、武勇だけでは決して届かぬ知略の深淵を見せた主君の軍師に、改めて武人としての戦慄を覚えていた。




血を流さぬ刃こそが、最も深く人の心を貫くのだと、彼は知った。

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