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第七十五話   甘露寺




呉国太が劉備との会見を望む──。




その一言は、静まり返った水面に投じられた一石のように、瞬く間に柴桑の権力の中枢に激しい波紋を広げた。




息子の孫権は、母の穏やかながらも決して覆すことのできぬ決意を前に、若き君主の顔に困惑の色を隠せない。


母への絶対的な敬愛と、義兄弟の契りを交わした周瑜への揺るぎない信頼。その二つの天秤が、彼の心の中で軋みをあげながら激しく揺れ動いていた。




報告を受けた周瑜は、その秀麗な顔にこそ笑みを湛えていたが、瞳の奥には氷のような光が宿っていた。


計算し尽くしたはずの盤上に、何者かが予期せぬ一石を投じてきたのだ。


その見えざる手に、彼はかすかな苛立ちを覚えていた。




「これは好機。我が君、ご心配には及びません」




周瑜の声は、絹のように滑らかでありながら、鋼の硬質さを秘めていた。




「会見の場を我らが厳重に設え、劉備の傲慢さを国太様ご自身の目に焼き付けていただけば良いのです。さすれば母君様も、彼の化けの皮が剥がれるのをご覧になるでしょう」




周瑜は、劉備に精神的な圧力をかけるべく、息が詰まるほど物々しい警備が可能な政庁の一室を会見の場として提案した。


孫権もそれに頷き、すぐさま手配が進められる。




周瑜は、この小さな綻びすらも自らの策に取り込み、劉備を雁字搦がんじがらめにする罠へと変えられると、この時までは確信していた。




だが、彼が盤上を睨んでいるその時、孔明が放った“翼”は、すでに盤外の風を掴み、遥か高みへと舞い上がっていた。








柴桑の街角。


朝日を浴びて活気づく市場の喧騒から少し離れた、静かな茶館の奥まった一室で、青凌は趙雲から渡された二つ目の錦嚢の封を切った。




絹の袋の中から現れたのは、墨痕鮮やかに記された三文字。




『甘露寺』




その下に続く指示を読み、青凌の唇に愉悦の笑みが浮かんだ。




(…孔明様。あなたは、人の心という名の風を読む天才だ)




その日を境に、柴桑の街のあちこちで、まるで示し合わせたかのように、いくつもの噂がさざ波のように広がり始めた。




長江の船着き場で荷を降ろす男たちが、汗を拭いながら声を潜めて語り合う。




「聞いたか?国太様が、劉備様と会われるらしい。なんでも、亡き孫堅様が篤く信仰された、あの甘露寺でだそうだ」




市場で野菜を売る老婆が、客の女中に向かって目を輝かせる。




「まあ、甘露寺ですって!あそこは孫家の守り寺。そんな縁起の良い場所で会われるなんて、このご縁組は天が祝福なさっているに違いありませんよ」




噂は、庶民の素朴な信仰心に火をつけた。


それはやがて、孫家に古くから仕える老臣たちの耳にも届く。


周瑜の辣腕らつわんを認めつつも、その急進的なやり方に眉をひそめていた彼らは、これを好機と捉えた。




「周瑜殿の息のかかった政庁で婿殿に会うなど、あまりに殺伐として礼を欠く」




「左様。亡き殿や若君(孫策)も愛された甘露寺こそ、両家の末永い友好を誓うに最も相応しい場所であろう」




彼らの進言は、単なる意見具申の域を超えていた。


それは、亡き主君への忠誠心と、孫家の未来を想うがゆえの、魂からの叫びにも似た願いであった。




これらの声は、一つの大きな潮流となり、呉国太の御殿へと流れ込んでいく。


侍女たちから街の噂を聞き、古参の家臣たちからの進言書に目を通した呉国太は、ふと窓の外に広がる空を見上げた。




(甘露寺…)




彼女の脳裏に、今は亡き夫・孫堅や、若くして散った息子・孫策と共に、あの寺を訪れた日の記憶が鮮やかに蘇る。彼らの豪快な笑い声、国の安寧を祈る敬虔な後ろ姿。




「…そうじゃな。あそこがよい」




呉国太は、誰に言うでもなく、しかしはっきりとした口調で呟いた。




「あそこならば、亡き殿や策も、きっと我らを見守ってくれるであろうから…」




それは、もはや誰にも覆すことのできない、母として、そして孫家を守る者としての決定であった。








会見場所が甘露寺に変更された、という一報は、周瑜の元に嵐の如く届けられた。




彼は人払いをした自室で、手にした酒杯を衝動のままに壁へ叩きつけた。


耳をつんざく陶器の破砕音が、彼の内なる怒りと焦りを暗い部屋に響き渡らせた。




「馬鹿な…!なぜだ!民や重臣どもが、なぜ一斉に甘露寺などと!」




自分の知らない場所で、見えない誰かが世論を巧みに操り、人心という名の巨大な潮流を生み出している。




力でねじ伏せることのできない、その得体の知れない策謀の気配に、周瑜は初めて背筋に冷たいものを感じていた。




(誰だ…孔明か…!奴は一体、この柴桑にどれだけの根を張っているというのだ…!)




同じ頃、客館の一室で瞑想していた趙雲の元に、一本の矢文が音もなく届けられた。


開いた文には、青凌の筆跡でこう記されている。




『翼は風を掴み、甘露寺へと向かう』




趙雲は静かに目を閉じ、孔明の策の恐るべき深さに、改めて武人としての戦慄を覚えた。




周瑜が力で盤上を制圧しようとするならば、孔明は人心という名の風を読み、翼を飛ばして戦の流れそのものを変えてしまう。




こうして、劉備と呉国太の会見の舞台は、周瑜の張り巡らせた罠から解き放たれ、孔明が描き出した、光の差す場所へと定められたのであった。

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