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第七十四話   翼の宛先




音もなく客館の自室へ還った趙雲は、再び寝台にその身を横たえた。




月光に照らされた窓枠は、先程まで己の命綱を繋いでいたことなどおくびにも出さず、ただ夜の静寂に佇んでいる。




扉の向こうに潜む監視の気配にも、乱れた様子はない。


彼らの研ぎ澄まされた五感をもってしても、闇と一つになり天翔ける龍の動きを捉えることなど、土台不可能なのだ。




(…孔明殿、あなたが放った第一の矢は、確かに標的へと向かいました)




目を閉じれば、先ほどの密会の光景が脳裏に甦る。


青凌と名乗った男。


その双眸の奥に宿っていたのは、飼い慣らされることを拒絶する孤高の魂の輝き。


諸葛亮孔明という男は、常人には計り知れぬ才覚のみならず、人の心の奥底に眠る渇望や野心をも見抜き、それを己が「翼」として躊躇いなく天に解き放つ。


その人智を超えた采配に、趙雲は改めて深い畏敬の念を抱いた。




懐に残る、最後の錦嚢の硬い感触だけが、この夜の出来事が幻ではないと告げている。


この掌に収まるほどの小さな袋一つに、主君・劉備の、そして天下万民の未来が託されている。


その燃えるような重みに、趙雲は静かに呼吸を整えた。


まだ、その封を切る時ではない。最後の翼は、最も効果的な風を待たねばならぬのだ。








夜の帳が上がり、柴桑に柔らかな朝陽が差し始めると、孔明が放った見えざる矢は、早くもその恐るべき効果を現し始めていた。




矢が目指したのは、江東の権力の中枢、孫権の母君である呉国太の御殿。


その最も奥深く、女たちの囁きが満ちる場所であった。




「まあ、お聞きになりました?あなた」


「劉備様のことでしょう?なんでも、我が君の妹君様をお迎えするために、呉で一番と名高い錦織を、値も問わずにすべて買い占められたとか」




呉国太の身の回りを世話する女官たちの間で、その噂は甘い蜜のように、しかし抗いがたい毒のように、瞬く間に広がっていた。




周瑜が意図的に流した「劉備は荊州を騙し取った信義なき偽善者」という辛辣な噂よりも、遥かに具体的で、人の情という柔らかな部分に深く染み渡る響きがあった。




「『千里の道を越えて娶る御方への、ささやかなる真心』…ああ、なんて殿方らしい、心のこもったお言葉でしょう」


「周瑜様はあれこれとご忠告なさいますが、これほどの真心をお持ちの方が、どうして悪人でありましょうか」




女官たちの囁きは、絶え間なく寄せるさざ波のように呉国太の耳朶じだを打ち続ける。


はじめは「下々の者の勝手な噂話」と聞き流していた呉国太であったが、その心は次第に、しかし確実に揺れ動いていた。




彼女は、亡き夫・孫堅の豪胆さを誰よりも愛し、若くして戦場に散った息子・孫策の勇猛さを何よりの誇りとしていた。


二人とも、小賢しい策略を弄するより、信義と真心をもって人と向き合い、敵すらも魅了する器量の持ち主であった。




(周瑜が語る劉備の姿と、市井が囁く劉備の姿…真はいずれに在るのじゃ…)




呉国太は、周瑜の比類なき才を高く評価している。


だが、その才気ゆえの傲慢さと、燃え盛る野心の強さもまた見抜いていた。我が子・孫権が、その周瑜を信じ、頼りすぎるきらいがあることも、母として常に案じていたのだ。




「…一度、会うてみたいものじゃな」




ぽつりと、呉国太が呟いた。


傍に控えていた侍女頭が、怪訝な顔で問い返す。




「はて、どなたのことでございましょう?」




「決まっておろう」




その瞬間、呉国太の瞳に、母のそれではない、孫家を束ねる女当主としての鋭い光が宿った。




「我が娘・尚香の婿となる、劉玄徳殿のことじゃ。周瑜の言葉を鵜呑みにして、大事な娘を嫁がせるわけにはゆかぬ。このわたくしの目で、劉備が江東の婿として、孫家の未来を託すに値する男かどうか、しかと見定めてくれようぞ」




その声は静かであったが、誰にも覆すことのできぬ鋼の決意に満ちていた。


孔明が闇夜に放った見えざる矢は、鉄壁と思われた周瑜の策の、まさに心臓を深々と射抜いたのである。








その頃、周瑜は自らの壮麗な館で、魯粛を相手に上機嫌で酒を酌み交わしていた。




「見たか、子敬。劉備め、呉服店でなけなしの財をばらまき、己の器が大きいと気取ったつもりでおるわ。愚かな男よ。あれしきのことで、呉の民の歓心を買ったとでも思うておるのか」




周瑜は、呉服店の一件を、劉備の浅はかな虚栄心の発露と断じ、せせら笑った。


孔明の深謀遠慮など、その驕慢きょうまんな心の目には映りもしない。




「しかし都督。その一件が、呉国太様のお耳にまで届いていると聞き及んでおります。あまり劉備殿をないがしろになさると、国太様のお気持ちを損ねるやもしれませぬ…」




魯粛が懸念を口にするが、周瑜はそれを一笑に付した。




「案ずるな、子敬。国太様は賢明な御方。巷の噂などに惑わされはせぬ。それに、劉備はもはや籠の中の鳥。俺がその翼をもいでおいたわ。翼なき鳥に、一体何ができるというのだ」




周瑜は杯を高く掲げ、勝利の美酒をあおる。


彼はまだ知る由もなかった。己がもいだと思った翼は、すでに別の場所で、天高く舞い上がるための烈風をその身に宿し始めていることを。






そして、客館の一室。


趙雲は窓辺に立ち、柴桑の空を静かに見上げていた。


呉国太が劉備との面会を望んだという確かな報は、まだ彼の耳には届いていない。




だが、肌を撫でる風の質が、昨日とは違う。


大気の微かな変化が、孔明の策が静かに、しかし確実に盤上を支配し始めていることを告げていた。




趙雲はそっと懐に手を入れ、最後の錦嚢の硬い感触を確かめる。


それはまるで、来るべき戦の前に、愛刀の柄を確かめる武人の仕草のようであった。




(孔明殿…いよいよ、最後の翼を広げる時が来たようですね)




その瞳は、これから巻き起こるであろう激しい嵐の、さらにその先を静かに見据えていた。




江東の空に吹き始めた新たな風は、やがてこの地を揺るがす巨大な嵐となることを、まだ誰も知らなかった。

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