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第七十二話 3つの錦嚢と 影の翼






孔明が放った「蜘蛛の巣」という一言は、祝宴の温かな空気を鋭利な氷の刃で切り裂いた。




揺らめく灯火が照らす将たちの顔から、瞬く間に笑みが消え失せる。


その死のような静寂を破ったのは、張飛の雷鳴だった。


広間の梁を揺るがすほどの怒声が、床を震わせる。




「軍師殿! あんた、一体何を言うか! 天下の大英雄、孫権殿からの縁談だぞ! 我らが主君を侮辱する気か!」




「翼徳、待て」




弟の激昂を制したのは、関羽の低く、重い声だった。


その美しい髯ひとすじひとすじに緊張をみなぎらせ、燃えるような光を宿した目で孔明を射抜く。




「軍師殿。皆の前でそう断言されたからには、相応の根拠がおありなのだろうな」




全ての視線が突き刺さる中、孔明は揺れる灯火の影をその顔に落としながらも、静かに、しかし鋼のような確信を込めて告げた。




「私の言葉は、単なる推測ではございません。江東の内部に張り巡らせた『隆中雀』…すなわち、我らが密偵からの確かな情報が、この縁談が偽りであることを示しております。その目的は、主君を江東の地におびき出し、虎の檻に囚えること。そして、主君の身柄と引き換えに、この荊州を明け渡すよう要求してくる…それこそが、周瑜の描く『偽婚の計』の真の姿にございます」




確かな情報という裏付けのある、あまりにも具体的で冷徹な分析に、広間は再び沈黙に支配された。


将たちの顔から血の気が引き、先程までの酒の熱が、冷や汗となって滲み出す。


趙雲が、はっと息を呑んで声を上げた。




「なるほど…。では、この縁談、きっぱりと断るべきです!」




しかし、孔明は悲劇の結末を予言するかのように、静かに首を横に振る。




「それこそがこの罠の第二の牙。もし断れば、『劉備は信義を軽んじる偽君子なり』と天下に喧伝し、それを大義名分として荊州に大軍を差し向けてくるでしょう。受けても地獄、断っても地獄。まさに、進退窮まった状況に我らを追い込むための、二段構えの策なのです」




将たちの顔に、焦りと絶望の色が濃く浮かび始めた。


その時、沈黙していた劉備が、固く拳を握りしめ瞑目していた。




その主君の苦悶を鎮めるかのように、孔明はおもむろに懐から三つの小さな錦の袋を取り出した。


鮮やかな刺繍が施されたその袋は、この絶望的な状況において、場違いなほどに美しかった。




「玄徳様、ご安心くださいますように。計には、計を以て返すのみ」




孔明は、凛とした声で告げた。




「我らはこの縁談、お受けいたします。そして、主君自ら、江東へお渡りいただくのです。罠にかかった蝶のふりをして、蜘蛛の巣そのものを内側から食い破る。偽りの縁談を真のものとし、孫夫人を我らの味方につけ、周都督の顔に泥を塗り、無事にこの地へお連れして帰ってくる。これぞ、我らが仕掛ける『弄假成真ろうかせいしん』…偽りを転じて真実と成す計略にございます」




そのあまりに大胆不敵な宣言に、誰もが息を呑んだ。孔明は、静かに趙雲へと向き直る。




「この危険な旅の供には、子龍殿、貴殿をおいて他にはおりますまい」




趙雲は、その背筋をぴんと伸ばし、全ての覚悟を決めた瞳で力強く頷いた。




「この趙雲子龍、命に代えても主君をお守りし、必ずやお連れして戻ります!」






その夜、旅立ちの支度が密かに進む中、孔明は趙雲だけを自室に招き入れた。


喧騒の消えた室内に、蝋燭の炎が静かに揺れている。




「子龍殿。貴殿には、もう一つだけお伝えしておくことがある」




孔明は、卓上に広げられた江東の地図を前に、静かに切り出した。




「江東の地には、私が隆中にいた頃より、来るべき日のために育てた鳥が、すでに一羽飛んでおります」




「鳥…でございますか?」




「ええ。名を『隆中雀りゅうちゅうじゃく』。私の目となり耳となる者たち。今回の情報をもたらしたのも彼らです。その中でも最も優れた一羽…青凌せいりょうという者が、すでに柴桑の地で息を潜めております」




孔明の瞳に、いつもとは違う、諜報の組織の主としての底知れぬほど冷徹な光が宿る。




「青凌は、貴殿の『影の翼』となります。表で主君を守るのが貴殿の役目ならば、裏で計略の地ならしをし、道を作るのが青凌の役目。この三つの錦嚢きんのうは、貴殿への指示であると同時に、青凌への合図でもあるのです」




孔明は、一つ目の錦嚢きんのうを指差した。




「江東に着いたら、まずこれを開けなさい。そこに記された行動が、青凌と接触する鍵となります。彼と合流できれば、周瑜の策はもはや恐るるに足りませぬ」




趙雲は、孔明の言葉の重みを噛みしめるように、静かに、そして固く頷いた。




「…承知いたしました。二人で力を合わせ、必ずや主君を無事にお連れください」




趙雲は、手の中にある三つの小さな袋を、改めて見つめた。


それは単なる策謀の書かれた袋ではない。


遠い敵地で待つ、顔も知らぬ仲間との絆を結ぶための、そして孔明の絶対の信頼が込められた、命の道標であった。




「…御意。軍師殿の翼、この趙子龍、確かに預かりました」




劉備の覚悟、趙雲の忠義、そして孔明の張り巡らせた知謀と諜報網。




偽りの縁談という名の戦場へ、彼らは今、二重三重の策を携えて、夜の静寂の中へと、静かに歩みを進めるのであった。

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