第七十一話 親善の謀(はかりごと)
長く続いた流浪の日々に、ようやく一つの終止符が打たれた。
荊南四郡を平定し、劉備軍が公安の地に根を下ろした夜、城内は久しぶりの熱気に満ちていた。
松明の炎が壁に踊る影を映し、将兵たちの武骨な顔を赤々と照らし出す。
酌み交わされる酒の香り、勝利を讃える鬨の声、その全てが、これまで幾度となく味わってきた苦難の味を洗い流していくようだった。
「兄者!ついに俺たちも、この地に根を張れるんだな!これも皆、軍師殿の神算鬼謀あってこそよ!」
張飛が巨体を揺らし、顔を紅潮させながら豪快に笑う。
その隣で、美髯を誇らしげに撫でながら、関羽もまた深く頷いていた。
劉備は、二人の義弟に、そして集う将たち一人ひとりに穏やかな笑みを向け、その労を心からねぎらっている。
ようやく手にした安息の地。
その喜びが、酒のように身体中に染み渡っていく。
だが、その歓喜の輪の中心にいるべき男、諸葛亮孔明は、喧騒から少し離れた席で、ただ一人、静かに杯を傾けていた。
彼の白磁のような横顔は、揺れる炎に照らされてもなお、勝利の熱を映してはいない。
遠く、城壁の向こうの闇を見つめるその瞳には、星空よりも深い思慮の色が宿っていた。
まるで、この祝宴の先に待ち受ける、次なる嵐の気配を感じ取っているかのように。
「軍師殿、いかがなされました。皆、貴殿の智謀の賜物と、心からの感謝を捧げておりますのに」
その静寂を破ったのは、趙雲であった。
彼はそっと孔明の隣に腰を下ろし、その憂いを帯びた表情を気遣うように声をかけた。
孔明は、ゆっくりと彼に視線を向けると、薄い唇の端にかすかな笑みを浮かべた。
それは、喜びとは似て非なる、諦観にも似た静かな微笑みだった。
「子龍殿。戦というものは、勝鬨を上げた瞬間に、次なる戦の種が蒔かれるもの。ことに、相手が周公瑾であれば、その芽は我らの気づかぬ足元で、静かに育っているはずです」
「周瑜…ですな。江陵での敗北に加え、我らがこの荊南を得たこと、彼の天賦の才と高い自尊心は、煮え滾る屈辱を味わっていることでしょう。近いうちに、怒りの刃をこちらへ向けてくるのでは?」
趙雲の懸念に、孔明は静かに首を横に振った。
「いえ、怒りに任せて兵を動かすのは下策。あの男が今、私に対して抱いているであろう憎しみは、それほど単純で荒々しい形では現れますまい。むしろ、それはもっと甘く、抗いがたい誘惑の姿をして…我らの喉元に、音もなく忍び寄ってくるはずです」
孔明は、杯の中の澄んだ酒を見つめながら、独り言のように呟いた。
「蜘蛛は、獲物を捕らえるのに、決して牙を剥き、吼えたりはせぬもの。ただ静かに、月光に煌めく美しい巣を張るのです。その糸は、甘い蜜の香りを放ち、油断した獲物を誘い込むために…」
その言葉の奥に潜む真意を、趙雲はまだ掴みかねていた。
その頃、長江を隔てた江陵。
周瑜の幕舎は、公安の祝宴とは対照的に、水底のような静寂に包まれていた。魯粛が、主君・孫権からの書簡を手に、興奮で声を弾ませる。
「都督!これは素晴らしい!主君も、都督が献策された『親善の計』を絶賛しておられます!早速、劉備殿に使者を送るべしとのお許しが出ましたぞ!」
寝台の上で半身を起こした周瑜は、穏やかに微笑んだ。
江陵で敗れた後の、荒れ狂う嵐のようだった激情は完全に影を潜め、その表情は磨き上げられた鏡のように澄み切っている。
「そうか。子敬、それもこれも、あの時お前が私を諌めてくれたおかげだ。憎しみの炎に身を任せていれば、今頃我らはまんまと曹操の掌の上で踊らされていたであろうな」
「もったいないお言葉。これもすべて、江東の未来を思う都督の深いお心があればこそ」
友が憎悪の淵から立ち直り、より大きな大局を見据えるようになったことを、魯粛は心から喜んでいた。
周瑜が提案した『親善の計』――それは、孫権の妹である、気高くも美しい孫夫人を劉備に娶めとらせ、両家の間に揺るぎない縁戚関係を結ぶというもの。
これ以上に、同盟を強固にする策があろうか。
「使者には、言葉巧みで心根の確かな者を選ばねばな。劉備殿に、我らの真心を伝え、この良き縁談を快く受け入れてもらえるように」
「はっ!人選は、この私にお任せください!」
魯粛が、希望に満ちた顔で意気揚々と幕舎を出ていく。
その背中が見えなくなった瞬間、周瑜の顔からすっと全ての表情が抜け落ちた。
穏やかな微笑みは氷の仮面のように砕け散り、その下から現れたのは、凍てつくような冷酷さと、底知れぬ執念であった。
彼は、脇に置かれた地図に目を落とす。
その白く長い指は、公安から長江を下り、江東の心臓部へと至る水路を、まるで獲物の肌を撫でるかのように、ゆっくりと、粘りつくように辿っていた。
「真心、か…」
周瑜は、誰に聞かせるともなく呟いた。
その声は、冬の夜気のように冷たい。
「蜘蛛の糸に絡めとる蝶に、真心を説いて何になる。劉備玄徳よ、我が君の妹君の美貌という甘い蜜に誘われ、この江東の地に足を踏み入れたが最後、二度と荊州の土を踏めると思うな。主を失った孔明など、翼をもがれた哀れな鳥に等しい。荊州は、その時こそ、我が江東の手に落ちるのだ」
それは、縁談という甘美な衣をまとった、あまりにも非情な罠。
『親善の計』という美名の裏に隠された、恐るべき『偽婚の計』であった。
絶望の淵で、周瑜の智謀は、孔明への執念という猛毒を吸い上げ、より狡猾に、より冷徹に研ぎ澄まされていた。
彼の心に張り巡らされた蜘蛛の巣は、ただ静かに、息を殺して、運命の獲物がかかるのを待ち構えている。
数日後。
公安の城に、江東からの使者が恭しく到着した。
使者は孫権の親書を劉備に奉じ、孫夫人との縁談を朗々と伝えた。
「なんと、あの江東の虎、孫権様が、御妹君をこの私に…?」
劉備の目に、驚きと戸惑いの色が浮かぶ。
しかし、その感情は、すぐに関羽、張飛をはじめとする将軍たちの歓声にかき消された。
「兄者、これは天の采配!まさしく、天が我らに味方している証拠にございますぞ!」
「江東と縁戚となれば、我らの同盟は盤石となる!もはや曹操の百万の兵など、恐るるに足りませぬ!」
城内は、瞬く間に祝賀の気運に包まれた。
劉備もまた、将たちの熱気に押され、まんざらでもない表情を浮かべていた。
乱世の荒波を渡る上で、これほど力強い追い風はない。
誰もが喜びを分かち合い、未来への希望に胸を膨らませる中、ただ一人、諸葛亮孔明だけが、静かに使者の一挙手一投足を見つめていた。
その流麗な祝辞の言葉の裏に、巧妙に隠された毒の棘を、その鋭い眼光で見つけ出そうとするかのように。
やがて、祝宴の熱気が最高潮に達したその時。
孔明は、すっと音もなく立ち上がると、劉備の前へと進み出た。
「主君。この縁談、真にお受けになられるおつもりでございますか」
その声は、決して大きくはない。
しかし、燃え盛る炎を一瞬で凍らせるかのように、凛として広間に響き渡った。
劉備が、皆の期待に応えるように頷こうとする。
その動きを、孔明は静かに、しかし抗いがたい力強さを宿した視線で制した。
「周公瑾が張った蜘蛛の巣に、自らお飛び込みになるような真似は、おやめなされませ」
孔明の言葉に、広間の喧騒が嘘のように静まり返った。
周瑜が仕掛けた、甘く、危険な罠の存在は、すでに見抜かれていた。
長江を挟み、稀代の天才と謳われる二人の知略の応酬は、今、静かにその幕を開けたのである。




