表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
71/84

第七十話  絶望の淵にて




薬草と、乾いた血の匂いが混じり合う、重くよどんだ空気。


江陵の陣幕の中、周瑜は悪夢にうなされていた。




夢の中では、孔明がただ静かに微笑んでいる。


赤壁で見た、あの涼やかな笑みだ。


だが、その笑みは今や、底知れぬ深淵からの嘲笑のように周瑜の心を抉る。




手を伸ばせば届きそうなのに、その姿は霞のように掴めない。


ただ、声だけが脳内に響き渡る。




『都督。荊南四郡、ありがたく頂戴つかまつった』




その声と共に、胸の古傷が内側から焼かれるように痛み、周瑜は呻うめきながら目を覚ました。




「はっ…はぁっ…!」




荒い息をつきながら、滲む汗を拭う。


灯火が揺らめき、彼の顔に落ちる影を不気味に踊らせていた。




幕舎の外からは、曹仁との長きにわたる攻防に疲弊しきった兵たちの、低い話し声が聞こえてくる。


この江陵城を落とすために、どれほどの血を流し、どれほどの将兵を失ったことか。


そのすべてが、あの男にしてやられるための、壮大な茶番であったというのか。




屈辱が、再び血となって喉元までせり上がってくる。


彼は、己の無力さに拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。


痛みだけが、これが現実であると告げていた。




当代随一の智将。江東の麒麟児。




人々は自分をそう呼んだ。


だが、自分はなんだ?あの、田舎書生上がりの男の掌の上で、まるで子供のように踊らされただけではないか。




あの丁寧すぎるほど丁寧な言葉で綴られた書簡。


劉備の、人の良さそうな顔。


すべてが、巨大な欺瞞であった。




「孔明…諸葛亮孔明…!」




その名を口にするだけで、歯が軋きしむ。


もはやそれは一人の人間の名ではなく、周瑜の魂に刻まれた烙印の名だった。




その時、静かに幕が上がり、一人の男が入ってきた。




「都督、お目覚めでしたか。お加減は…」




心配そうに声をかけてきたのは、盟友である魯粛ろしゅくであった。


その手には、湯気の立つ薬湯の椀がある。




周瑜は、力なく首を振り、魯粛を睨みつけた。




子敬しけい…貴様も、あの男に騙されていたのか。いや、貴様は劉備との同盟を説いて回っていた張本人。これもすべて、貴様の甘さが招いたことではないのか!」




八つ当たりに近い、理不尽な怒りだった。


だが、魯粛は表情を変えず、静かに薬湯を脇に置いた。




「お気持ちは、痛いほど分かります。私も、孔明殿の深謀遠慮には気づけませなんだ。しかし都督、今我らが憎しみを向けるべきは、劉備ではありますまい」




「まだ言うか!我らが血を流して得た果実を、横から掠め取っていったのだぞ!これを許せば、江東の男児の名が廃るわ!」




周瑜は身を起こそうとしたが、激痛が走り、再び寝台に沈んだ。




「ぐっ…!」




「都督、お鎮まりくだされ!傷に障ります!」




魯粛が慌てて駆け寄る。


周瑜は、ぜいぜいと息をしながら、絞り出すように言った。




「…兵を、向けろ。今すぐだ。荊州の劉備を討つ。奴らが根を張る前に、叩き潰すのだ。さもなくば、あの孔明という男は、必ずや我ら江東にとって、曹操以上の災禍となるぞ…!」




その瞳には、狂気にも似た光が宿っていた。


魯粛は、友のあまりの憎悪の深さに息を飲み、そして、悲しげに首を横に振った。




「なりませぬ。今、劉備と争えば、誰が利を得るか。背後で息を潜める曹操でございます。我らが同士討ちを始めれば、それこそが曹操の思う壺。彼は失った兵力を回復させ、再び百万の大軍を率いて、この長江に攻め寄せてきましょう。その時、我らも劉備も、共に滅びるほか道はありませぬ」




正論であった。


あまりにも、正しい理屈だった。


周瑜ほどの男に、それが分からないはずがない。


だが、理屈では到底抑えきれぬ激情が、彼の全身を焦がしていた。




「……ならばどうしろと申すか。このまま、黙ってくれてやれと?この周公瑾しゅうこうきんが生涯で受けた最大の侮辱を、ただ耐え忍べと申すか!」




魯粛は、しばし沈黙した。そして、静かに、だが強い意志を込めて言った。




「今は、耐えるのです。天下という大きな盤面を見れば、我らと劉備は、まだ曹操という巨大な敵を前にした、か弱い駒にすぎませぬ。今は憎しみを飲み込み、同盟を維持し、共に北に備えるのです。それが…それが江東を、孫権様を守る唯一の道…」




陣幕に、重い沈黙が落ちた。


周瑜は、天井の梁を、まるでそこに孔明の顔が張り付いているかのように、睨みつけ続けた。




魯粛の言葉が、冷たい水のように、燃え盛る激情に注がれていく。


炎は消えない。


だが、煙を上げて、その熱は内へ内へと凝縮されていくようだった。




やがて、周瑜はふっと息を吐いた。


その表情から、あれほど激しかった感情が抜け落ち、能面のような無表情へと変わっていた。




「…子敬。お前の言う通りだ。今は…動くべき時ではないらしい」




「都督…!」 魯粛の顔に、安堵の色が浮かんだ。




だが、周瑜は言葉を続けた。


その声は、冬の川底のように、静かで、そして底冷えがした。




「ああ、そうだ。力で奪うのは愚策だ。もっと良い方法がある。蜘蛛は、獲物を捕らえるのに、決して吼ほえたりはせぬ…」




そう呟くと、周瑜はゆっくりと目を閉じた。




彼の心という絶望の淵で、諸葛亮孔明という存在への、より深く、より冷たい執念が、静かに産声を上げた瞬間であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ