第六十九話 荊州争奪編 その4
長沙の古びた城門が、地を揺るがすような重い音を立てて開かれていく。
その向こうから姿を現したのは、一人の老将。
降りしきる初雪のように白い髪と髭を、戦場の乾いた風になびかせている。
だが、その背は老いを微塵も感じさせず、天を衝く古木のように真っ直ぐに伸びていた。
跨がる栗毛の馬もまた、主の気概を映すかのように若々しく、血気に満ちている。
何よりも、見る者を射竦いすくめるのはその双眸であった。
数多の死線を越えてきた証である深い皺しわの中に、いまだ烈火のごとき闘志が揺らめいている。
「貴殿が、当代随一と謳われる関雲長殿か。その武名は、この老骨の耳にも雷鳴の如く届いておる。よかろう、この黄忠漢升が、生涯最後の相手として、お相手つかまつる!」
その声は、老齢に似合わぬ張りを持って、戦場に響き渡った。
もはや言葉は不要であった。
二つの巨大な魂が、引き合うべくして引き合った磁石のように、戦場の中心で激突する。
関羽が振るう青龍偃月刀と、黄忠が閃かせる大刀。
鋼と鋼が打ち合う甲高い音は、時に厳かな寺院の梵鐘ぼんしょうのようにも、時に天の怒りである雷鳴のようにも聞こえた。
打ち合うこと百合あまり、勝敗は決しない。
刃と刃が交錯する一瞬、火花が散り、互いの肌を掠める風が、常人には決して聞こえぬ武人だけの対話を交わしていた。
『貴殿の武、まさに伝説の通り』
『その技、老いてなお衰えぬとは。まさに神業』
翌日。
戦いはさらに熾烈を極めた。
互いの呼気は白く、馬の蹄が巻き上げる土煙が、二人の姿を霞ませる。
その刹那、猛然と突進した黄忠の馬が、不意に前足を折り、嘶いななきとともにその巨体を大地に投げ出した。
馬上から振り落とされた黄忠は、地に膝をつき、迫りくる死を覚悟した。
見上げた視線の先、逆光の中にそびえ立つ関羽の影。
振りかざされた青龍偃月刀が、冬の太陽を背負い、黄忠のすべてを飲み込むかのように巨大な影を作った。
黄忠は、静かに目を閉じた。
だが、死の宣告であるはずの風を切る音は、いつまでも聞こえなかった。
おそるおそる目を開くと、関羽はすでに馬首を返し、悠然と自陣へと向かう背中を見せている。
「老将よ、武運つたなく馬を失うは、罪にあらず。馬を替え、再び相見えよう」
その声には、憐憫も、侮りもなかった。
ただ、好敵手に対する曇りなき敬意だけが、冬の澄んだ空気のように凛と響いていた。
三日目。
黄忠の胸には、昨日受けた温情が熱い炎となって燃えていた。
今度は、自分が恩義に報いる番だった。
彼は愛用の強弓を、満月のように引き絞る。
狙いは、ただ一点。
放たれた矢は、一条の光となって空を切り裂き、しかし、関羽の肉体を狙うことはなかった。
矢は、関羽が誇らしげに揺らす、兜の赤い房の付け根を見事に射抜き、その緒を断ち切った。
ふわりと宙を舞い、血の色にも似た赤い房が、乾いた土の上に落ちる。
それは、いつでもその命を奪えるという、黄忠の武威の証明。
そして、昨日受けた恩義に対する、武人としての最大の返礼であった。
だが、この魂の対話を、猜疑心の塊である太守・韓玄が理解できるはずもなかった。
「き、貴様っ!黄忠め、さては関羽と内通しておったな!者ども、あの裏切り者を引っ立てい!首を刎ねよ!」
その理不尽極まる絶叫に、かねてから韓玄の器量を疑っていた将軍・魏延の、堪忍袋の緒が音を立てて切れた。
「愚かなる君主のために、真の英雄が命を落としてなるものか!」
一閃。
魏延の刃が、韓玄の首を刎ね飛ばした。
彼は城門の兵に命じ、固く閉ざされていた門を開かせると、民と共に声を張り上げた。
「仁徳の君、劉備玄徳様をお迎えせよ!」
こうして、長沙の城は、一滴の血も流れることなく開かれた。
戦いは「義」によって始まり、「義」によって終わったのである。
後に、劉備は自ら黄忠と魏延を丁重に迎え入れた。
もはや彼は、寄る辺なく各地を流浪する客将ではなかった。
荊州南部に確固たる地盤を築き、天下に名だたる英雄を臣下に加えた、一国の主としての威厳が、その全身から溢れ出ていた。
その報せは、二つの陣営に、全く異なる形で届いた。
長沙の広間では、劉備が黄忠と魏延を上座に迎え、盛大な祝宴が開かれていた。
初めて得た揺るぎない地盤と、新たに加わった頼もしい仲間たち。
酌を交わす者たちの顔は皆、希望に輝いている。
劉備の顔もまた、これまでにない晴れやかな光に満ちていた。
同じ頃、遠く離れた江陵の暗い陣幕の中。
周瑜は、曹仁との激戦で負った矢傷の疼きに、苦悶の表情を浮かべていた。
「城は…まだ落ちぬか……」
彼の呟きは、誰に聞かせるともなく、冷たい空気に溶けて消える。
疲弊しきった兵たちの吐息だけが、重く垂れ込めていた。
そこへ、一人の伝令が血相を変えて転がり込んできた。
「も、申し上げます!申し上げます!我らが曹仁と死闘を繰り広げている、まさにその隙を突き、劉備軍が荊南四郡を、すべて…すべて平定したとの報せにございます!」
時が、止まった。
伝令の言葉が、周瑜の脳内で木霊こだまのようにゆっくりと反響する。
荊南四郡を……平定……?
あの、どこまでも恭順の意に満ちていたはずの、劉備からの返書。
その末尾に、まるで毒針のように添えられていた、あの棘のある一文。
そして、すべてを見透かすかのように静かに微笑んでいた、あの男…諸葛亮の顔。
点と点が、恐ろしい一本の線で繋がった。
自分が仕掛けたつもりでいた巧妙な罠が、実は自分自身を捕らえるための、より巨大で、より深遠な罠の一部であったことを、周瑜はようやく悟った。
「……っ!」
激しい怒りと、身を灼くような屈辱が、血となって逆流する。
「か、はっ……!」
周瑜は激しく咳き込み、手で押さえたその口の端から、鮮やかな血がぼたぼたと滴り落ちた。
矢傷が、内側から引き裂かれるように痛む。
彼は、よろめきながら陣幕の外へ出ると、南の空を睨みつけ、絞り出すように叫んだ。
「おのれ諸葛亮…!この周瑜を謀るとはッ!」
その絶叫は、誰の耳にも届くことはない。
血と泥にまみれた陣営の、冷たい夜風に吸い込まれ、虚しく消えていった。




