表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/85

第六十九話   荊州争奪編  その4




長沙の古びた城門が、地を揺るがすような重い音を立てて開かれていく。




その向こうから姿を現したのは、一人の老将。


降りしきる初雪のように白い髪と髭を、戦場の乾いた風になびかせている。




だが、その背は老いを微塵も感じさせず、天を衝く古木のように真っ直ぐに伸びていた。


跨がる栗毛の馬もまた、主の気概を映すかのように若々しく、血気に満ちている。




何よりも、見る者を射竦いすくめるのはその双眸であった。


数多の死線を越えてきた証である深い皺しわの中に、いまだ烈火のごとき闘志が揺らめいている。




「貴殿が、当代随一と謳われる関雲長殿か。その武名は、この老骨の耳にも雷鳴の如く届いておる。よかろう、この黄忠漢升こうちゅうかんしょうが、生涯最後の相手として、お相手つかまつる!」




その声は、老齢に似合わぬ張りを持って、戦場に響き渡った。


もはや言葉は不要であった。


二つの巨大な魂が、引き合うべくして引き合った磁石のように、戦場の中心で激突する。




関羽が振るう青龍偃月刀と、黄忠が閃かせる大刀。


鋼と鋼が打ち合う甲高い音は、時に厳かな寺院の梵鐘ぼんしょうのようにも、時に天の怒りである雷鳴のようにも聞こえた。




打ち合うこと百合ひゃくごうあまり、勝敗は決しない。


刃と刃が交錯する一瞬、火花が散り、互いの肌を掠める風が、常人には決して聞こえぬ武人だけの対話を交わしていた。




『貴殿の武、まさに伝説の通り』




『その技、老いてなお衰えぬとは。まさに神業』




翌日。


戦いはさらに熾烈を極めた。


互いの呼気は白く、馬の蹄が巻き上げる土煙が、二人の姿を霞ませる。


その刹那、猛然と突進した黄忠の馬が、不意に前足を折り、嘶いななきとともにその巨体を大地に投げ出した。




馬上から振り落とされた黄忠は、地に膝をつき、迫りくる死を覚悟した。


見上げた視線の先、逆光の中にそびえ立つ関羽の影。


振りかざされた青龍偃月刀が、冬の太陽を背負い、黄忠のすべてを飲み込むかのように巨大な影を作った。




黄忠は、静かに目を閉じた。




だが、死の宣告であるはずの風を切る音は、いつまでも聞こえなかった。


おそるおそる目を開くと、関羽はすでに馬首を返し、悠然と自陣へと向かう背中を見せている。




「老将よ、武運つたなく馬を失うは、罪にあらず。馬を替え、再び相見えよう」




その声には、憐憫も、侮りもなかった。


ただ、好敵手に対する曇りなき敬意だけが、冬の澄んだ空気のように凛と響いていた。




三日目。


黄忠の胸には、昨日受けた温情が熱い炎となって燃えていた。


今度は、自分が恩義に報いる番だった。


彼は愛用の強弓を、満月のように引き絞る。




狙いは、ただ一点。




放たれた矢は、一条の光となって空を切り裂き、しかし、関羽の肉体を狙うことはなかった。


矢は、関羽が誇らしげに揺らす、兜の赤い房の付け根を見事に射抜き、その緒を断ち切った。




ふわりと宙を舞い、血の色にも似た赤い房が、乾いた土の上に落ちる。




それは、いつでもその命を奪えるという、黄忠の武威の証明。


そして、昨日受けた恩義に対する、武人としての最大の返礼であった。




だが、この魂の対話を、猜疑心の塊である太守・韓玄かんげんが理解できるはずもなかった。




「き、貴様っ!黄忠め、さては関羽と内通しておったな!者ども、あの裏切り者を引っ立てい!首を刎ねよ!」




その理不尽極まる絶叫に、かねてから韓玄の器量を疑っていた将軍・魏延ぎえんの、堪忍袋の緒が音を立てて切れた。




「愚かなる君主のために、真の英雄が命を落としてなるものか!」




一閃。


魏延の刃が、韓玄の首を刎ね飛ばした。




彼は城門の兵に命じ、固く閉ざされていた門を開かせると、民と共に声を張り上げた。




「仁徳の君、劉備玄徳様をお迎えせよ!」




こうして、長沙の城は、一滴の血も流れることなく開かれた。


戦いは「義」によって始まり、「義」によって終わったのである。




後に、劉備は自ら黄忠と魏延を丁重に迎え入れた。


もはや彼は、寄る辺なく各地を流浪する客将ではなかった。




荊州南部に確固たる地盤を築き、天下に名だたる英雄を臣下に加えた、一国の主としての威厳が、その全身から溢れ出ていた。




その報せは、二つの陣営に、全く異なる形で届いた。






長沙の広間では、劉備が黄忠と魏延を上座に迎え、盛大な祝宴が開かれていた。


初めて得た揺るぎない地盤と、新たに加わった頼もしい仲間たち。


酌を交わす者たちの顔は皆、希望に輝いている。


劉備の顔もまた、これまでにない晴れやかな光に満ちていた。






同じ頃、遠く離れた江陵の暗い陣幕の中。


周瑜は、曹仁との激戦で負った矢傷の疼きに、苦悶の表情を浮かべていた。




「城は…まだ落ちぬか……」




彼の呟きは、誰に聞かせるともなく、冷たい空気に溶けて消える。


疲弊しきった兵たちの吐息だけが、重く垂れ込めていた。


そこへ、一人の伝令が血相を変えて転がり込んできた。




「も、申し上げます!申し上げます!我らが曹仁と死闘を繰り広げている、まさにその隙を突き、劉備軍が荊南四郡を、すべて…すべて平定したとの報せにございます!」




時が、止まった。




伝令の言葉が、周瑜の脳内で木霊こだまのようにゆっくりと反響する。




荊南四郡を……平定……?




あの、どこまでも恭順の意に満ちていたはずの、劉備からの返書。


その末尾に、まるで毒針のように添えられていた、あの棘のある一文。


そして、すべてを見透かすかのように静かに微笑んでいた、あの男…諸葛亮の顔。




点と点が、恐ろしい一本の線で繋がった。




自分が仕掛けたつもりでいた巧妙な罠が、実は自分自身を捕らえるための、より巨大で、より深遠な罠の一部であったことを、周瑜はようやく悟った。




「……っ!」




激しい怒りと、身を灼くような屈辱が、血となって逆流する。




「か、はっ……!」




周瑜は激しく咳き込み、手で押さえたその口の端から、鮮やかな血がぼたぼたと滴り落ちた。




矢傷が、内側から引き裂かれるように痛む。


彼は、よろめきながら陣幕の外へ出ると、南の空を睨みつけ、絞り出すように叫んだ。




「おのれ諸葛亮…!この周瑜を謀るとはッ!」




その絶叫は、誰の耳にも届くことはない。


血と泥にまみれた陣営の、冷たい夜風に吸い込まれ、虚しく消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ