第六話 雀のさえずり、龍の耳
隆中の草廬での、孔明の「晴耕雨読」の日々は続いていた。
彼の元には、いつしか多くの子供たちが集まるようになっていた。
この子達を雀に例えて「隆中雀」と呼んでいた。
そしてこの子たちに彼が教えていたのは、単なる文字や物語ではない。
物事の本質を掴むための、一つの「眼」だった。
「人は、まず真似ることから学ぶのだ」
ある晴れた日の午後、孔明は木陰で子供たちに語っていた。
「赤子が親の言葉を真似るように、文字もまた、師の筆遣いを真似ることから始まる。だが、面白いのはここからだ。形を真似ているうちに、なぜその人がそのように振る舞うのか、見えてくるものがある」
この教えは、子供たちの間に、新しい「遊び」を流行させた。それは、様々な大人たちの姿を、そっくりそのまま真似てみせる「なりきり遊び」だった。
子供たちは、大人の心理など分かりはしない。ただ、目に映ったままの仕草や口調を、面白おかしく再現するだけである。
ある日、一人の腕白な少年が、胸をそらして皆の前に立った。
「見て見て! 僕は襄陽の市場で一番偉いお役人様だ! エッヘン!」
少年は、わざと顎をしゃくり、大きな咳払いをしてみせる。その尊大な様子に、他の子供たちがどっと笑った。
そして少年は、ふと指にはめた草の指輪をいじりながら、こう付け加えた。
「それからな、こうやって、キラキラのをいじくるんだ! いつもやってるぞ!」
子供たちは、その面白い仕草をただ笑っている。
だが、孔明の思考は、その無邪気な模倣の奥深くへと潜っていった。
(…尊大な態度と、指をいじる仕草。この二つは、本来、一つの心の内には同居しにくいものだ)
彼の脳裏で、分析の歯車が静かに回り始める。
(尊大な態度とは、己の権威が揺るがぬという自信の表れ。だが、指輪を頻繁に触るのは、内心の不安を落ち着かせようとする無意識の動きに他ならない。自信と不安の同居…。なぜだ?)
孔明は、思考の駒を一つ進める。
(考えられるのは、彼の権威が、彼自身の実力ではなく、中央からの任命という借り物の力だからだ。そして今、その中央の力が衰え、自らの地位が盤石ではないことを、彼自身が誰よりも感じている。故に、外には威厳を示そうと尊大に振る舞い、内に抱えた不安が、指をいじるという無意識の癖になって現れる。…なるほど。都の統制は、この荊州の末端にまでは、もはや実質的には届いておらぬ証拠か)
またある時、別の子供が、両手を叩いて商人の真似を始めた。
「へい、お立ち会い! これは都で大流行りの布だよ! さあさあ!」
子供は、商人の快活な口上を真似てみせる。
そして、顔は満面の笑顔のまま、声だけがかすかに震えるのを、器用に再現してみせた。
「面白いだろ? 顔はこう笑うのに、声はこうやって震えるんだ!」
孔明はその子供の器用さに微笑みながらも、その心は再び、深い思索の海に沈んでいた。
(笑顔と、震える声。これもまた、矛盾した心の現れだ)
彼は、その商人が北から来たという情報を、記憶の棚から取り出す。
(商人が客に品を売る時、その顔に浮かぶ笑顔には、期待と自信が込められているはず。だが、声が震えるのは、恐怖の表れ。何を恐れている? 目の前の客か?いや、それならばもっと卑屈な態度になるはずだ)
一つの仮説が、彼の脳裏に浮かび上がる。
(恐れているのは、ここまでの道中そのもの。商品を無事にここまで運んでこられたという安堵と、次の旅でまた危険な目に遭うかもしれぬという恐怖。その二つの相反する感情が、笑顔と声の震えという形で、同時に現れているのだ。…北方の治安は、商人が命懸けで旅をせねばならぬほど、悪化していると見るべきか)
孔明の聡明さは、誰かを意図的に「利用」することにあるのではない。
ただ、「人間を深く観察すること」の面白さを教えただけだ。
その結果として集まってくる、子供たちの無邪気な模倣という名の「現象」を、彼の巨大な知識体系と結びつけ、その背後にある「本質」を読み解いているに過ぎない。
だが、彼は時折、胸が痛むことがあった。
この子らは、遊びの中で、乱世の歪みをその純粋な目で写し取っている。
何もまだ知らないこの笑顔を守るためならば、自分はどんな道でも歩まねばならない。その決意が、彼の思索をさらに深くさせていた。
その日の夕暮れ、一番物真似の上手い少年が、興奮した様子で駆け込んできた。
「先生、変な人がいるんだ!」
少年は息を切らしながら、必死に説明する。
「僕が、昨日市場で見た、すごく意地悪な役人の真似をして遊んでたら、その人が僕の真似をしてきたんだ。『ほう、面白い真似だ。だが、お主の真似は腰の角度が甘い。本当の悪党は、もっとこう、人を顎で使うものだ』って……僕より、ずっと、ずっと上手だったんだ!」
孔明の顔から、穏やかな笑みが消えた。
子供の模明を、さらに高い次元で模倣し返し、その本質を教える男。
自分が内心で行っている「模倣からの分析」という思考の過程を、完全に見抜いた上で、わざと痕跡を残して、接触してきた。
――普通の鳥ではない。
龍の巣の在り処を知り、その翼を試さんと飛来した、もう一羽の鳳凰か。