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第六十七話   荊州争奪編 その2




夏口の夜霧は、赤壁の勝利の熱狂が嘘であるかのように冷たく、劉備軍の陣営を静かに包んでいた。




兵たちの顔には安堵の色こそあれ、根無し草であることの不安は消えず、その空気は川風と共に陣中に満ちていた。


そこへ、一艘の快速船が滑るように到着する。




船から降り立ったのは周瑜の使者。


その顔には、大都督の代理としての誇りと、天下に覇を唱えんとする孫権軍の自信が満ち溢れていた。




陣幕に通された使者は、居並ぶ劉備、関羽、張飛、そして諸葛亮の前で、朗々と周瑜の伝言を述べた。




「我が主、大都督・周瑜様より劉備殿へ。曹操軍の残党、曹仁が守る南郡は荊州の要にして最大の難所。この城攻めという最も困難な役目は、我ら江東の兵が引き受けましょう。劉備殿には、同盟軍の友として、後方に控え、我が軍の戦いを見守っていただきたい。骨の折れる役は、すべて我らにお任せくだされ」




その言葉は、どこまでも寛大で、盟主としての気概に満ちていた。




「おう、そりゃあ有り難え!」 最初に反応したのは張飛だった。




裏表のない彼は、言葉通りの厚意と受け取った。




「周瑜の奴、見直したぜ!一番面倒なところを全部やってくれるって言うんだからな!」




しかし、関羽は微動だにしない。


その鳳眼がすっと細められ、手にした青龍偃月刀の柄を無意識に握りしめている。


彼の誇りが、この過剰なまでの「配慮」に、侮辱にも似たかすかな違和感を覚えていた。


劉備もまた、人の善意を信じたい心と、これまでの苦難が教えた警戒心との間で、判断に迷っていた。




全神経を集中させ、皆の視線がある一点に注がれる。




羽扇をゆるりと揺らす、諸葛亮孔明。




ただ一人、彼の唇にだけは、夜霧のように掴みどころのない微笑が浮かんでいた。




使者が退出し、幕内の空気が緊張に張り詰める。




劉備がおもむろに口を開いた。




「軍師は、これをどう見る?」




孔明は立ち上がると、皆に背を向け、壁に掛けられた荊州の地図の前に立った。


彼は問いには答えず、逆に問いを返した。




「殿。周瑜殿というお方は、どのような将だとお考えですか?」




「むろん、当代きっての智将だ。赤壁での采配は神のようであった…」




「その通り」と孔明は頷く。




「周瑜殿の智は、燃え盛る炎のごとし。直線的に敵を焼き尽くし、華々しい勝利を掴むことにかけては、天下に並ぶ者なし。…そして、炎は常に、最も大きく燃え上がる場所、すなわち『主戦場』を求めます」




彼は羽扇の先で、地図上の南郡・江陵を、トン、と軽く突いた。




「周瑜殿の思考のすべては、今ここに集中しております。曹仁を破り、江陵を落とす。それこそが勝利であり、武功であると。彼の計略は、その一点において完璧です。そして、その完璧な計略の中で、我らは『保護すべき非力な客将』という駒に過ぎませぬ」




張飛が「なんだと!」と声を荒らげる。




孔明はゆっくりと振り返った。


その瞳は、夜の湖面のように静かでありながら、底知れぬ深さを湛えていた。




「この申し出の裏にある狙いは、単純明快。我らを『後方』という名の籠に閉じ込め、感謝という鎖で繋ぎ、その間に荊州という獲物を独占する。これが周瑜殿の描く、炎の計略の全貌です」




「…ならば、断るべきだな」関羽が静かに言った。




「いえ」孔明は、はっきりと首を振る。




「断れば、どうなるでしょう。同盟に亀裂が生じ、我らは恩知らずと罵られ、進退窮まります。それこそ、周瑜殿が次に打ってくる手。彼の策に乗っても地獄、逆らっても地獄。…ならば」




そこで孔明は、一呼吸置いた。その沈黙が、聞く者の心を鷲掴みにする。




「ならば、我らはこの策に、心の底から感謝し、乗るのです」




「なっ…!軍師、気は確かか!」




張飛の激昂した声が、静まり返った陣幕を震わせた。


劉備でさえ、信じがたいという表情で孔明を見つめている。




無理もなかった。


敵の罠と見抜いた策に、自ら進んで乗るという選択は、常軌を逸して聞こえただろう。




その反応を予期していたかのように、孔明は静かに彼らの顔を見渡した。




「翼徳、皆がそう思うのも無理はありますまい。しかし、ここにこそ周瑜殿の計略の『核』と、我らが打つべき手の『真髄』が隠されております」




孔明は再び地図に向き直ると、羽扇で南郡を指し示した。




「周瑜殿の智は、燃え盛る炎。直線的に敵を焼き尽くす。彼の思考のすべては、今、この江陵の一点にのみ集中しております。炎は、目の前の薪しか見えませぬ」




そこで言葉を切ると、今度は羽扇が地図の上を滑り、南方の武陵、長沙、桂陽、零陵の四郡を、まるで大陸を支配する龍のように大きく一薙ぎした。




「しかし、我らが用いるべきは水の智。水は、高い場所から低い場所へと、障害物を避け、あらゆる隙間へと静かに、しかし確実に浸透していく…。周瑜殿が江陵の堅城に全力を注ぎ、曹仁と血みどろの戦いを演じている、まさにその時!この広大な荊南四郡は、主を失った巨大な器と化します。誰の目にも触れられぬ、巨大な空白地帯が生まれるのです」




皆、息を呑んで孔明の言葉に聞き入っていた。


彼の思考が、今、目の前で一つの巨大な絵図を完成させようとしていた。




「我らは周瑜殿の申し出を、感謝と共に受け入れます。そして、こう付け加えるのです。『大都督の御武勇を信じておりますが、万が一、攻めあぐねることがあれば、我らが助太刀いたしましょう』と」




「その一文が、どのような意味を持つか。周瑜殿は、己の名誉にかけて、我らの助けを不要とするでしょう。彼は必ず江陵に固執する。そして、その一文こそが、我らが南へ向かうための『大義名分』となるのです。『周瑜殿の背後を固め、荊州全体の安定を図る』…これに、誰が異を唱えられましょうか」




その策の真意に、一同は息を呑んだ。




周瑜の計略は、劉備を「籠の中の鳥」にするためのものだった。


対する孔明の計略は、その籠を自ら「隠れ蓑」として利用し、周瑜自身に番人をさせている間に、家中の財宝をすべて運び出すに等しいものだった。




周瑜の策は、敵を出し抜く「謀略」。


孔明の策は、敵の謀略そのものを、自らの計画の歯車として組み込んでしまう「経略」。




劉備の背筋を、ぞくりと何かが駆け上がった。


それは寒さではない。


目の前の軍師が描く、あまりに壮大で、あまりに冷徹な未来図を垣間見た瞬間の、畏怖から来る戦慄であった。




「…わかった。軍師の策でいこう」




劉備の決断と共に、新たな返書がしたためられる。


それは、周瑜を栄誉に浸らせ、彼の誇りの炎をさらに煽るような、完璧なまでの美辞麗句で埋め尽くされていた。




そして、その末尾には、孔明が仕掛けた静かなる一滴の毒が、巧妙に忍ばせてあった。




返書を携えた使者の船が、再び闇の中へと消えていく。




孔明はそれを見送りながら、静かにつぶやいた。




「周瑜よ、存分に戦うがよい。貴殿が華々しく荊州の正門を打ち破る、


その音を合図に…


我らは裏口から、静かにこの龍の棲家に入らせていただきましょう」




羽扇が、夜風に一度だけ、鋭く翻った。

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