表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/89

第六十三話   赤壁の戦い その3




烏林から江陵へと続く道は、天が泣き崩れたかのような冷たい雨に打たれ、まるで巨大な泥の河と化していた。




その泥の河を、おびただしい数の人間が、もがき、這い、沈みながら進んでいく。曹操の敗残兵の群れであった。




その地獄絵図を、道から少し離れた丘の木陰から、一人の男が静かに見つめていた。




みすぼらしい外套を目深にかぶり、その顔は影になって窺い知れない。


ただ、その影の奥から覗く双眸だけが、すべてを見通すかのように鋭く、そしてどこか哀しげな光を湛えていた。




男の名は龐統、字は士元。




荊州に隠れ棲む、"鳳雛ほうすう"の異名を持つ稀代の才人である。


彼は客将として曹操の陣営にいたが、赤壁の炎が上がるのを見届けると、誰にも気づかれずに姿を消していた。




眼下で繰り広げられる光景は、人の世の醜さそのものだった。


力尽きて倒れた仲間を、後ろから来た兵が踏みつけ、乗り越えていく。


わずかな食料を巡って、昨日までの戦友が刃を向け合う。




許褚らに守られた曹操の一団だけが、鬼神の形相で弱者を蹴散らしながら、先へ先へと進んでいく。


あれが、天下に最も近いと言われた男の、剥き出しの姿だった。


すべてを失い、それでも生き残るために、非情に徹する覇者の本質。




龐統は、その光景から目を逸らさなかった。


そして、彼の脳裏に、つい先日見たばかりの、まったく別の光景が鮮やかに蘇っていた。




あれは、劉備が曹操に追われ、新野を捨てて南へ向かっていた時のこと。


劉備の軍の後ろには、彼を慕う十数万の民が、赤子を抱き、老人を背負い、家財を荷車に乗せて続いていた。そのために劉備軍の歩みは絶望的なまでに遅く、誰もが、民を捨てて速やかに行軍すべきだと進言した。




しかし、劉備は涙ながらに首を横に振った。




「大事を成すには、民こそを国の基本としなければならぬ。私を信じてついてきてくれた彼らを、どうして見捨てることができようか」




彼は、追っ手にいつ追いつかれるかという恐怖の中、民と共に泣き、民と共に歩み、自ら荷車を押しさえした。結果、彼は長坂坡ちょうはんはで大敗を喫し、妻子さえも見失うことになる。




戦略家として見れば、あまりに愚かで、甘すぎる選択。


龐統も、当時はそう断じていた。




だが、今、目の前の光景と、記憶の中の光景が、彼の胸の中で重なり合う。




曹操の敗走は、「個」の生存競争だ。


強い者が生き、弱い者が死ぬ。兵は丞相のために死ぬのではなく、丞相の足手まといとして死んでいく。


曹操という巨大な「個」を生かすために、他のすべてが切り捨てられる。


それは、力で天下を束ねる覇道の、必然の帰結かもしれなかった。




対して、劉備のあの敗走は、愚かしいほどに「共同体」の撤退だった。


兵は民を守り、民は兵を案じた。指導者である劉備が、誰よりも民の側にいた。


だから、彼はすべてを失ったように見えて、決して失わないものを手に入れたのだ。


それは「人心」という、金でも兵力でも測ることのでない、国づくりの礎であった。


あれこそが、古の聖人が説いた王道の姿ではなかったか。




「……....」




龐統の口から、熱い吐息が漏れた。


曹操は、才能ある者を厚遇し、天下の逸材を蒐集家のように集める。


だが、それはあくまで、彼の覇道を彩るための駒に過ぎない。


この敗走を見れば明らかだ。


いざとなれば、彼は最も大切な駒である自分自身以外、すべてを切り捨てるだろう。




しかし、劉備は違う。


あの男は、愚直なまでに人を信じ、民を愛する。彼の元に集う者は、駒ではなく、共に未来を創る仲間として扱われるに違いない。




雨は、なおも激しく降り続いている。


敗残兵の列が途切れる頃には、日はとうに暮れていた。




丘の上に佇んでいた龐統は、風雨を払うように外套の襟を合わせると、曹操軍が去っていった江陵とは逆の方向へと歩き出した。


その足取りに、もはや迷いはなかった。




鳳雛は、乱世の風雨の中で、自らが羽を休めるべき真の止まり木を、確かに見出したのであった。




彼の目指す先は、この未曾有の大勝利に沸くであろう、長江の南岸。




そこには、友である諸葛亮と、そして、あの民と共に泣いた男、劉備玄徳がいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ