第六十三話 赤壁の戦い その3
烏林から江陵へと続く道は、天が泣き崩れたかのような冷たい雨に打たれ、まるで巨大な泥の河と化していた。
その泥の河を、おびただしい数の人間が、もがき、這い、沈みながら進んでいく。曹操の敗残兵の群れであった。
その地獄絵図を、道から少し離れた丘の木陰から、一人の男が静かに見つめていた。
みすぼらしい外套を目深にかぶり、その顔は影になって窺い知れない。
ただ、その影の奥から覗く双眸だけが、すべてを見通すかのように鋭く、そしてどこか哀しげな光を湛えていた。
男の名は龐統、字は士元。
荊州に隠れ棲む、"鳳雛"の異名を持つ稀代の才人である。
彼は客将として曹操の陣営にいたが、赤壁の炎が上がるのを見届けると、誰にも気づかれずに姿を消していた。
眼下で繰り広げられる光景は、人の世の醜さそのものだった。
力尽きて倒れた仲間を、後ろから来た兵が踏みつけ、乗り越えていく。
わずかな食料を巡って、昨日までの戦友が刃を向け合う。
許褚らに守られた曹操の一団だけが、鬼神の形相で弱者を蹴散らしながら、先へ先へと進んでいく。
あれが、天下に最も近いと言われた男の、剥き出しの姿だった。
すべてを失い、それでも生き残るために、非情に徹する覇者の本質。
龐統は、その光景から目を逸らさなかった。
そして、彼の脳裏に、つい先日見たばかりの、まったく別の光景が鮮やかに蘇っていた。
あれは、劉備が曹操に追われ、新野を捨てて南へ向かっていた時のこと。
劉備の軍の後ろには、彼を慕う十数万の民が、赤子を抱き、老人を背負い、家財を荷車に乗せて続いていた。そのために劉備軍の歩みは絶望的なまでに遅く、誰もが、民を捨てて速やかに行軍すべきだと進言した。
しかし、劉備は涙ながらに首を横に振った。
「大事を成すには、民こそを国の基本としなければならぬ。私を信じてついてきてくれた彼らを、どうして見捨てることができようか」
彼は、追っ手にいつ追いつかれるかという恐怖の中、民と共に泣き、民と共に歩み、自ら荷車を押しさえした。結果、彼は長坂坡で大敗を喫し、妻子さえも見失うことになる。
戦略家として見れば、あまりに愚かで、甘すぎる選択。
龐統も、当時はそう断じていた。
だが、今、目の前の光景と、記憶の中の光景が、彼の胸の中で重なり合う。
曹操の敗走は、「個」の生存競争だ。
強い者が生き、弱い者が死ぬ。兵は丞相のために死ぬのではなく、丞相の足手まといとして死んでいく。
曹操という巨大な「個」を生かすために、他のすべてが切り捨てられる。
それは、力で天下を束ねる覇道の、必然の帰結かもしれなかった。
対して、劉備のあの敗走は、愚かしいほどに「共同体」の撤退だった。
兵は民を守り、民は兵を案じた。指導者である劉備が、誰よりも民の側にいた。
だから、彼はすべてを失ったように見えて、決して失わないものを手に入れたのだ。
それは「人心」という、金でも兵力でも測ることのでない、国づくりの礎であった。
あれこそが、古の聖人が説いた王道の姿ではなかったか。
「……....」
龐統の口から、熱い吐息が漏れた。
曹操は、才能ある者を厚遇し、天下の逸材を蒐集家のように集める。
だが、それはあくまで、彼の覇道を彩るための駒に過ぎない。
この敗走を見れば明らかだ。
いざとなれば、彼は最も大切な駒である自分自身以外、すべてを切り捨てるだろう。
しかし、劉備は違う。
あの男は、愚直なまでに人を信じ、民を愛する。彼の元に集う者は、駒ではなく、共に未来を創る仲間として扱われるに違いない。
雨は、なおも激しく降り続いている。
敗残兵の列が途切れる頃には、日はとうに暮れていた。
丘の上に佇んでいた龐統は、風雨を払うように外套の襟を合わせると、曹操軍が去っていった江陵とは逆の方向へと歩き出した。
その足取りに、もはや迷いはなかった。
鳳雛は、乱世の風雨の中で、自らが羽を休めるべき真の止まり木を、確かに見出したのであった。
彼の目指す先は、この未曾有の大勝利に沸くであろう、長江の南岸。
そこには、友である諸葛亮と、そして、あの民と共に泣いた男、劉備玄徳がいる。




