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第六十二話   赤壁の戦い その2




業火の熱が、天を焦がし、長江の水を血のように沸騰させていた。




楼台の頂きで立ち尽くす曹操の瞳には、燃え崩れていく自らの巨大な野望が、ただ赤黒い残像となって焼き付いている。




肌を刺す熱風が、誇りであった髭の先を焦がす。


耳に届くのは、もはや人の声とは思えぬ断末魔の絶叫と、天と地が裂けるかのような船団の轟音。




かつて天下統一の夢を語り合った楼台が、今は己の巨大な墓標に見えた。


もはや慟哭の声も、怒りの声さえも出ない。




思考は灼熱に麻痺し、ただ、灰となっていくすべてを無感情に見つめていた。




「丞相! ご無事で!」




「ここも落ちますぞ! さあ、こちらへ!」




もうもうたる黒煙を突き破り、二つの鬼神が躍り出た。


全身に火の粉を浴びて鎧を赤熱させながらも眼光鋭い張遼と、巨大な体で燃え盛る梁を薙ぎ払う許褚であった。




返事もできぬ曹操の両腕を掴むと、まるで魂の抜けた人形を引きずるようにして、地獄の階を駆け下りた。




「放せ…! わしは…、わしはこの夢の焼け跡と共にあるべきなのだ…!」




虚ろな声で抵抗するが、二人の将の掴む力は、曹操の絶望よりも強かった。




奇跡的に一艘だけ繋がれていた小舟へ、張遼が飛び降り、許褚が曹操を担ぎ上げるようにして放り込む。


ともづなが断ち切られると、小舟は燃え盛る母船から引き剥がされるように、冷たい闇の中へと滑り出した。




「我が兵たちは…愛すべき兵たちはどうした!」




ようやく絞り出した声は、ひどくかすれていた。


張遼は、その問いに答えることができず、煙に汚れた顔をただ伏せる。


許褚は、巨大な拳を握りしめ、血が滲むほどに歯を食いしばる。




その視線の先を追い、曹操は再び言葉を失った。


地獄とは、この光景のためにある言葉だった。


炎の海から逃れようと長江に身を投げた兵士たちが、水面に広がった油に捕らわれ、生きたまま松明と化してもがき苦しんでいる。




「母上!」




そう叫ぶ若い声が聞こえた。


友の名を呼びながら沈んでいく者もいる。


無数の手が、まるで救いを求める亡者のように舟に向かって伸びては、力なく水面をかき、闇に消えていく。




その一つ一つの手が、曹操の胸を掴み、引き裂くようだった。


八十万と号した大軍の、あまりに惨めな末路。




曹操は、瞼を閉じることさえ許されぬように、そのすべてを目に焼き付けていた。


夜が白み始める頃、小舟は対岸の烏林の泥濘に乗り上げた。


陸に上がった曹操の元へ、煙と泥にまみれ、人としての尊厳さえ失ったような敗残兵が、ぽつり、またぽつりと集まってくる。




誰もが虚ろな目をし、あるいは傷口を押さえ、あるいは友の亡骸の欠片を抱きしめ、声もなく涙を流していた。


昨日まで天下を席巻せんと輝いていた精強な兵の面影は、どこにもない。




「…兵を、まとめよ。生き残った者の…数を改めろ」




絞り出した命令は、冬の寒気にかき消えそうだった。


濡れた地面に崩れるように腰を下ろす。




やがて届けられた報告は、彼の心をさらに打ちのめした。




誇りの水軍は壊滅。




荊州から降った兵は、混乱の中で霧散した。


今、この手に残ったのは、故郷から生死を共にしてきた直属の兵のうち、わずか数千。


それも、誰もが深く傷ついた者たちばかりだった。




報告を聞き終えた曹操は、しばらく天を仰ぎ、凍てついたように動かなかった。その胸中をいかなる悔恨と屈辱が駆け巡ったか。




だが、やがてその肩がかすかに震え始めた。嗚咽か、と誰もが息をのんだ、次の瞬間。彼の口から漏れたのは、乾いた、甲高い笑い声だった。




「は…はは…あはははは! あはははははは!」




それは、この世の終わりのような場所に響き渡る、あまりに場違いな狂気の哄笑だった。


将兵たちが、恐怖と憐れみの入り混じった目で顔を見合わせる。


曹操はよろめきながら立ち上がると、集まった将たちに言った。




「周瑜め、諸葛亮め! 見事な策よ! この曹孟徳、生涯これほどの敗北を喫したことはないわ!」




その顔に悲嘆の色はなく、頬は引きつり、目は爛々と輝き、まるでこの破滅のすべてを愉しんでいるかのようだった。




「だが奴らも、詰めが甘い!」




曹操は地図を広げさせると、震える指で退路の一点を乱暴に指し示した。


そこは両側を険しい山に挟まれた、狭く湿地の多い道だった。




程昱が、青ざめた顔で進み出る。




「丞相、お待ちください! もし万が一、その道に伏兵が潜んでいれば、疲れ果てた我らは一人残らず…!」




その悲痛な諫言を、曹操はせせら笑うかのように遮った。




「仲徳よ、臆したか。周瑜や諸葛亮ほどの者であればこそ、この大勝利という美酒に酔いしれる。勝利の直後こそ、人の知恵が最も鈍る時ぞ。奴らは今頃、わしの首が挙がったものと祝杯でもあげておるわ!」




その声には、狂気じみた絶対的な自信が宿っていた。




程昱は、その目に映るものが、覇王の眼光か、それとも破滅を招く慢心か見極められず、唇を噛んで引き下がるしかなかった。


胸をえぐるような不安を抱きながら。




「全軍、江陵を目指す! 進め!」




曹操の号令一下、生ける屍のような兵士たちは、互いを支え、重い足を引きずりながら行軍を開始した。




折しも、空からはすべてを凍らせるような冬の雨が、容赦なく降り注ぎ始めた。ぬかるんだ道は兵士たちの足を捕らえ、一歩進むごとに、なけなしの体力を無慈悲に奪っていく。




冷たい雨水が鎧の隙間から染み込み、傷口に沁みた。


それは、敗者の頬を伝う涙を隠すかのようでもあり、これから始まる、死へと続く苦難の道を暗示しているかのようでもあった。




彼らが去った烏林の岸辺。


その静まり返った森の奥深く。




無数の殺気だった視線が、闇の中で飢えた獣のように光り、遠ざかる一行の背中を、冷酷に、静かに見つめていた。




赤壁の戦いは、まだ終わってはいなかった。




それは、本当の地獄の始まりに過ぎなかった。

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