第五十九話 風の対価
遠雷のように、長江の岸辺から丁奉の帰陣を告げる声が響いた。
病の熱に浮かされる周瑜の意識を、その声が現実へと引き戻す。
だが、帳幕の向こうから聞こえてきた報告は、彼の脳髄を焼き尽くさんばかりの熱い痺れとなって駆け巡った。
「――取り逃がした、と、今申したか!」
絞り出すような声は、もはや問いかけではなかった。
陣幕そのものがびりびりと震えるほどの激情が迸る。
熱で潤んでいたはずの双眸が、今は憎悪の炎そのものと化して燃え盛り、土下座する丁奉の姿を射抜いていた。
「はっ…! まことに、面目もございません。岸辺には…かの関羽が仁王立ちに待ち受けており、その凄まじい威圧に、兵たちの足が竦み…」
「戯言を! 言い訳など聞きたくもないわ!」
絶叫と共に、枕元の薬湯の碗が宙を舞った。
陶器が砕け散る甲高い破裂音が、張り詰めた静寂を無惨に引き裂く。
飛び散った生温かい薬湯が、周瑜の怒りを象徴するかのように、床に染みを作った。
(関羽だと…? やはり、すべて…すべてあの男の掌の上であったというのか!)
敵地江東のただ中にありながら、まるで己の庭を散策するかのように悠々と立ち振る舞い、その脱出路までも完璧に用意しておく周到さ。
もはや神算鬼謀などという言葉ですら生ぬるい。
自らが知略の限りを尽くして張り巡らせたはずの罠が、ことごとく己の喉元に食らいついてくるかのような、耐え難い屈辱に全身が震えた。
震える息を無理やり抑え込み、周瑜は地の底から響くような声で尋ねた。
「…して、あの男は…最後に何と?」
丁奉は、主君の凍てつくような気配に怯えながらも、諸葛亮が残した言葉を、一言一句違えぬよう繰り返した。
「『この風の借りは、貴殿が作り出す戦果の『実』――しかるべき土地をいただくことで、お返しする所存』…と、さも当然のように…」
その言葉が耳朶を打った瞬間、周瑜の脳裏で激しい稲妻が閃いた。
風の、借り。
戦果の、実。
しかるべき、土地。
散らばっていた点と点が、赤黒い一本の線で繋がる。
おぞましい計略の全貌が、霧の中からその巨大な姿を現し始めた。
(そうだ…赤壁の戦いは、我ら江東の将兵が命を賭して曹操の大軍を打ち破る。血を流し、満身創痍となるのは我らだ。その間、奴らは…奴らは一体何をすると言うのだ…?)
答えは、ただ一つ。
火を見るより明らかであった。
虎と狼が喰み合うのを、高みから静かに見物する。
両者が疲れ果て、傷だらけになったその瞬間を狙うのだ。
諸葛亮が嘯いた戦果の『実』とは、この戦いの舞台そのものである荊州、その心臓部たる南郡に違いなかった。
「…南郡…!」
呻きが、血の味とともに喉から込み上げる。
あの男は、この周瑜に風を「貸し」、赤壁の戦いを勝利に導かせるという、抗いがたい恩を着せた。
そしてその対価として、この戦で得られる最も価値ある果実、「土地」を要求しているのだ。
それは武力による強奪ではない。
まるで正当な取引であるかのように、理屈を以て、呉の血と汗の結晶を根こそぎ奪い去るという、悪魔の策略。
(なんという男だ…! 戦の始まる前から、その終結の、さらにその先の利まで…すべてを読み切っているとは!)
燃えるような体の熱も忘れ、周瑜は寝台から転がり落ちるように立ち上がった。
帳幕の隙間から吹き込む風が、唸りを上げて彼の頬を打つ。
今まさに大陸の歴史を塗り替えるであろう大戦の序曲が、長江全域に鳴り響いている。
だが、周瑜の心は、目前に迫る百万の曹操軍ではなかった。
ただひたすらに、長江の彼方へと消えていく一艘の小舟と、その上で静かに微笑むであろう、あの白い道士服の男の姿に囚われていた。
「魯粛を呼べ。…いや、今はよい。今は、目の前の戦に集中する。だが…誓って、あの男にはこの借りを返させる。…利子をつけ、倍にしてな」
その両の眼に宿る光は、殺意か、畏怖か。
あるいはその両方が混じり合った、底なしの闇のように暗く、深く揺らめいていた。




