第五話 水鏡、その器を識る
熱狂が去った後の草廬は、まるで祭りの後のように静かだった。
囲炉裏の炭火が時折ぱちりとはぜ、消え残る熱と煙の匂いをかすかに漂わせる。しんしんと降り積もる雪が、外界のあらゆる音を吸い込み、窓の外はただ深い闇と白だけが広がっていた。
学友たちの熱を帯びた声が消え、一人残された孔明は、静かに灰を見つめていた。そこに描いたはずのおぼろげな地図は、すでに形を失っている。
彼は、思わずこめかみを押さえた。
友らの顔に浮かんだ、驚愕と、そしてわずかな戸惑いの色を思い返す。
「……やり過ぎたか」
ぽつりと漏れた呟きは、誰に聞かれることもなく、静寂に吸い込まれていった。
才気煥発さいきかんぱつな青年ではなく、友との絆を思う一人の男の顔が、揺れる灯火に寂しく照らされる。
その時だった。
閉じたはずの戸口に、ふと人の気配がした。孔明が顔を上げると、そこに一人の老人が、いつの間にいたのか、音もなく立っていた。
質素ながらも品のある衣をまとい、穏やかな笑みを浮かべている。
だが、その瞳は、今しがたまでの議論も、孔明の心の揺らぎさえも、すべて見透かしているかのように深く澄んでいた。
「失礼。若者たちの熱心な議論が聞こえたものでな。つい、聞き耳を立ててしまった」
老人は、肩にかかった雪をこともなげに払うと、草廬に足を踏み入れた。
「若者たちは皆、目の前の木に登って、一つでも多くの果実を得ようとしている。それもまた、乱世を生きる知恵だろう。だが、君だけは違ったようだ」
その言葉の重みに、孔明は息をのんだ。
背筋を伸ばし、深く頭を下げる。
老人は、孔明の瞳をじっと見つめて続けた。
「君は、森全体を育てる土壌を調べている」
老人は一度言葉を切り、囲炉裏の灰に視線を落とした。
「天を流れる雲を読み、どこに川を引くべきかを、考えている」
孔明の心臓が、大きく脈打った。
この老人は、自分の思考の根幹を、その構造を、完璧に理解している。
老人は、ふっと顔を上げて孔明を見据えた。
「……実に面白い。実に、末恐ろしいことだ」
「恐れ入ります。先生は…」
孔明が問いかけると、老人は悪戯っぽく笑った。
「名は、司馬徽。近隣の者たちは、好き勝手に『水鏡』などと呼んでおるよ」
水鏡先生――当代随一の名士にして、数多の俊英たちを陰から導く教育者。その名を知らぬ者は、荊州の学徒にはいない。
孔明は、改めて深く、深く拝礼した。
司馬徽は満足げに頷くと、帰り際に、まるで独り言のようにつぶやいた。
「この荊州の地にはな、『臥龍』と『鳳雛』、二人の若き麒麟児が潜んでいるという。天の意志か、人の偶然か…。君は、自分がどちらか、考えたことはあるかね?」
その言葉を残し、司馬徽は雪の中に静かに去っていった。
『臥龍』――いまだ天に昇らぬ、眠れる龍。
その言葉は、雷のように孔明の胸を打った。
流浪の旅で立てた志、学友たちとの議論の中で形となった構想。
それらが、水鏡という曇りなき鏡に映し出され、初めて確かな輪郭と価値を持った瞬間だった。
自分の道は、間違ってはいない。
孔明は父が遺した書架へと向かった。
おびただしい竹簡の中から、迷うことなく一本の巻物を抜き取る。
それをゆっくりと広げると、灯火の光が、二人の賢臣の名を浮かび上がらせた。
―管仲(春秋時代、主君である斉の桓公を、史上初の覇者へと導いた大宰相)。
―楽毅(戦国時代、弱小の燕を率いて、当時最強であった斉を滅亡寸前まで追い込んだ不世出の軍略家)。
孔明は、その名を指で静かになぞった。
もはやそれは、遠い過去の偉人の名ではなかった。
これから自分が歩むべき道の、その先で輝く道標そのものであった。
彼の瞳に宿る光は、もはや自問の影に揺らぐことはない。
灰の上に描かれた天下三分の図は、若者の机上の空論ではない。
来たるべき英雄と共に実現すべき、未来への設計図となったのだ。
英雄、いまだ現れず。
隆中の雪は、ただ静かに、天命を待つ龍の寝息を覆い隠していた。