表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/27

第五話  水鏡、その器を識る




熱狂が去った後の草廬は、まるで祭りの後のように静かだった。


囲炉裏の炭火が時折ぱちりとはぜ、消え残る熱と煙の匂いをかすかに漂わせる。しんしんと降り積もる雪が、外界のあらゆる音を吸い込み、窓の外はただ深い闇と白だけが広がっていた。




学友たちの熱を帯びた声が消え、一人残された孔明は、静かに灰を見つめていた。そこに描いたはずのおぼろげな地図は、すでに形を失っている。


彼は、思わずこめかみを押さえた。


友らの顔に浮かんだ、驚愕と、そしてわずかな戸惑いの色を思い返す。




「……やり過ぎたか」




ぽつりと漏れた呟きは、誰に聞かれることもなく、静寂に吸い込まれていった。


才気煥発さいきかんぱつな青年ではなく、友との絆を思う一人の男の顔が、揺れる灯火に寂しく照らされる。




その時だった。


閉じたはずの戸口に、ふと人の気配がした。孔明が顔を上げると、そこに一人の老人が、いつの間にいたのか、音もなく立っていた。




質素ながらも品のある衣をまとい、穏やかな笑みを浮かべている。


だが、その瞳は、今しがたまでの議論も、孔明の心の揺らぎさえも、すべて見透かしているかのように深く澄んでいた。




「失礼。若者たちの熱心な議論が聞こえたものでな。つい、聞き耳を立ててしまった」




老人は、肩にかかった雪をこともなげに払うと、草廬に足を踏み入れた。




「若者たちは皆、目の前の木に登って、一つでも多くの果実を得ようとしている。それもまた、乱世を生きる知恵だろう。だが、君だけは違ったようだ」




その言葉の重みに、孔明は息をのんだ。


背筋を伸ばし、深く頭を下げる。


老人は、孔明の瞳をじっと見つめて続けた。




「君は、森全体を育てる土壌を調べている」




老人は一度言葉を切り、囲炉裏の灰に視線を落とした。




「天を流れる雲を読み、どこに川を引くべきかを、考えている」




孔明の心臓が、大きく脈打った。


この老人は、自分の思考の根幹を、その構造を、完璧に理解している。


老人は、ふっと顔を上げて孔明を見据えた。




「……実に面白い。実に、末恐ろしいことだ」




「恐れ入ります。先生は…」




孔明が問いかけると、老人は悪戯っぽく笑った。




「名は、司馬徽。近隣の者たちは、好き勝手に『水鏡』などと呼んでおるよ」




水鏡先生――当代随一の名士にして、数多の俊英たちを陰から導く教育者。その名を知らぬ者は、荊州の学徒にはいない。


孔明は、改めて深く、深く拝礼した。




司馬徽は満足げに頷くと、帰り際に、まるで独り言のようにつぶやいた。




「この荊州の地にはな、『臥龍』と『鳳雛』、二人の若き麒麟児が潜んでいるという。天の意志か、人の偶然か…。君は、自分がどちらか、考えたことはあるかね?」




その言葉を残し、司馬徽は雪の中に静かに去っていった。




『臥龍』――いまだ天に昇らぬ、眠れる龍。




その言葉は、雷のように孔明の胸を打った。


流浪の旅で立てた志、学友たちとの議論の中で形となった構想。


それらが、水鏡という曇りなき鏡に映し出され、初めて確かな輪郭と価値を持った瞬間だった。




自分の道は、間違ってはいない。




孔明は父が遺した書架へと向かった。


おびただしい竹簡の中から、迷うことなく一本の巻物を抜き取る。


それをゆっくりと広げると、灯火の光が、二人の賢臣の名を浮かび上がらせた。




管仲かんちゅう(春秋時代、主君である斉の桓公を、史上初の覇者へと導いた大宰相)。


楽毅がくき(戦国時代、弱小の燕を率いて、当時最強であった斉を滅亡寸前まで追い込んだ不世出の軍略家)。




孔明は、その名を指で静かになぞった。


もはやそれは、遠い過去の偉人の名ではなかった。


これから自分が歩むべき道の、その先で輝く道標そのものであった。




彼の瞳に宿る光は、もはや自問の影に揺らぐことはない。


灰の上に描かれた天下三分の図は、若者の机上の空論ではない。


来たるべき英雄と共に実現すべき、未来への設計図となったのだ。




英雄、いまだ現れず。




隆中の雪は、ただ静かに、天命を待つ龍の寝息を覆い隠していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ