第五十五話 覇者の慢心
長江北岸、曹操軍水上陣営。
かつて兵士たちを苦しめた絶え間ない揺れは、今はもうない。
「素晴らしい!実に素晴らしいぞ、士元先生!」
巨大な旗艦の楼船の上で、曹操は上機嫌に叫んだ。
眼下には、鳳雛・龐統の策によって鉄の鎖で固く結ばれた大船団が、まるで一つの浮遊大陸のように静かに水を捉えている。
船上では、船酔いから解放された北方の兵士たちが、陸地と変わらぬ様子で槍の訓練に励んでいた。
「見よ!もはや長江はただの堀に過ぎん!我が百万の兵は、この鉄の平原を駆け、一気に江南を蹂躙するであろう!」
傍らに立つ軍師たちも、その壮大な光景に感嘆の声を上げる。
兵の苦しみを取り除き、かつ水上での騎馬隊運用さえ可能にする「連環の計」。
それは、この戦の勝利を決定づける神策に思えた。
曹操は、自らの才能を見抜く目に改めて悦に入っていた。
その時、一人の間諜が、江東から命からがら戻り、曹操の前にひれ伏した。
「申し上げます!周瑜と老将・黄蓋が軍議の席で激しく対立!『臆病者』と罵られた黄蓋は、周瑜の命により、百叩きの刑に処せられ、半死半生の目に!」
間諜の報告は、芝居とは思えぬほど生々しかった。
曹操は、杯に注いでいた酒を止め、探るような目で報告を聞いた。
「…ほう。あの青二才、三代に仕えた元勲をそこまで辱めるとはな。だが…」
曹操の脳裏を、持ち前の猜疑心がよぎる。
「…これは、我らを欺くための芝居ということはないか?」
傍らに控えていた程昱が、即座に同調した。
「丞相のおっしゃる通り。あまりに都合の良い話、敵の計略やもしれませぬ。警戒を怠るべきでは…」
まさにその時であった。
「江東より、黄蓋殿の使者を名乗る者が、密書を!」
新たな報告が、曹操の疑念を打ち破るように響き渡った。
運ばれてきた密書に目を通した曹操は、最初、眉間に深いしわを刻んだ。
だが、読み進めるうちに、その表情は驚き、やがて感嘆へと変わっていった。
そこに書かれていたのは、単なる命乞いや寝返りの誘いではなかった。
老将の深慮遠謀が感じられる、恐ろしくも巧妙な「策」の提案であった。
『……かの若輩、周瑜の功を焦る振る舞いは、やがて江東を自滅の道へと導きましょう。
我ら孫家に三代仕えた老臣たちは、無益な戦を避け、丞相の徳による天下泰平をこそ望んでおります。
されど、周瑜が兵権を握る今、我らに公然と蜂起する術はございません。
そこで一計を案じました。
私は周瑜に対し、『苦肉の計』を進言いたします。
すなわち、「私を打ち据え、半死半生の状態にすることで曹操丞相を油断させ、偽りの投降を信じ込ませる。そして兵糧船を率いて貴軍に近づき、火を放つ」というものです。
かの若輩は、己の知略に酔いしれておりますゆえ、この策を絶妙の奇策と信じ、受け入れましょう。
丞相。
私は、周瑜を欺くこの『苦肉の計』を、そっくりそのまま実行する所存。
来るべき日、私は周瑜の命令通り、兵糧船団を率いて貴軍の陣へと向かいます。
周瑜は、私が火を放つものと信じ切って、後続の軍備を整えましょう。
私が貴軍の目前に到達したその時こそが、真の合図。
その瞬間、陸に残った我が同志たちが周瑜を捕縛し、江東の実権を奪います。
私は船団ごと貴軍に降り、丞相の大軍を江南へお迎えする内応の手引きを致しましょう。これぞ、周瑜の策を逆手に取り、江東の安寧と丞相の覇業を同時に成就させる、一石二鳥の策と心得ます。』
「……ふっ、ふはははは!」
密書を読み終えた曹操は、最初は静かに、やがて腹を抱えて笑い出した。
傍らの程昱が怪訝な顔で進み出る。
「丞相、何がそれほど…?これも敵の罠やもしれませぬ」
「程昱よ、貴様にはこの深淵なる策略が見えぬか!」
曹操は密書を叩き、興奮気味に言った。
「見よ!これは単なる投降ではない!敵将・周瑜を欺くための『苦肉の計』。その計略そのものを利用し、我らに本当の投降を仕掛けてきたのだ!周瑜は黄蓋が芝居を打っていると思っている。だが、その芝居こそが真実…二重、三重に張り巡らされた見事な策ではないか!」
先ほどの間諜がもたらした「周瑜と黄蓋の対立、そして百叩きの刑」という報告が、曹操の頭の中で完璧なピースとして嵌まった。
あれは、周瑜を信じ込ませるための壮大な芝居。
そして、その芝居を演じきった上で、黄蓋はこちらに忠誠を誓っているのだ。
単純な不和や恨みによる投降ならば、まだ罠を疑う余地があった。
だが、敵の大将さえも欺くという、これほど手の込んだ策略を弄してまで投降を申し出る者が、嘘をつくであろうか。
「老将の執念、恐るべし。あの若造どもとは格が違うわ」
曹操の心にあった猜疑心という氷は、感嘆という熱によって跡形もなく溶け去った。彼は、自らだけがこの複雑な計略の真相を見抜いたのだという優越感に浸っていた。
「はっ、はっ、はっ!天は、やはりこの曹操に味方したわ!」
曹操は、天を仰いで高らかに笑った。
程昱がなおも食い下がった。
「丞相、お待ちください!もし投降船に火の仕掛けがあれば、鎖で繋がれた我らの船団は…!」
その諫言は、曹操の耳にはもはや届かなかった。
勝利を確信した彼の心は、傲慢という熱に浮かされていた。
「やかましい、程昱!貴様はまだ疑うか!この冬の長江に吹くのは、常に北西の風よ!火計など放てば、火は奴ら自身に返っていく!自殺行為に等しいと、士元先生も太鼓判を押してくださったわ!」
曹操は立ち上がると、居並ぶ将兵たちに聞こえるよう、大声で命じた。
「黄蓋殿の投降を、全軍で歓迎する!受け入れの準備をせよ!盛大な宴の用意だ!」
「おおーっ!」という将兵たちの歓声が、長江の北岸にこだました。
もはや、誰もが勝利を疑わなかった。
鳳雛という賢人が知恵を貸し、敵の宿将が徳を慕って寝返ってくる。
これら全てが、天が曹操を真の覇者として認めた証だと、誰もが信じていた。
その夜、曹操は一人、楼船の最上階で月を眺めていた。
眼下には、無数の篝火かがりびが揺れる、自らが築き上げた鉄の水上城郭。
彼は、勝利の美酒をなみなみと注いだ杯を、南の空へ、若き敵将たちを嘲るように高々と掲げた。
「周瑜よ、諸葛亮よ!小僧どもがいくら知恵を絞ろうと、この天命には逆らえぬ!この長江は、貴様らの墓場となるのだ!」
その覇者の高笑いは、やがて来る破滅の足音をかき消し、冬の夜空に虚しく響き渡っていった。




