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第五十四話  老将の赤心




「連環の計、完成いたしました!」




斥候の報告に、周瑜の幕舎は沸き立った。


これで、北の兵を乗せた巨大な船団は、一蓮托生の鉄の塊となった。


火を放つには、またとない状況だ。




諸将が勝利を確信し、祝杯を挙げんばかりの空気になる中、諸葛亮は一人、地図に目を落としたまま静かに首を振った。




「大都督。まだ、万全ではありませぬ」 その一言が、浮かれた空気を一瞬で引き締める。


周瑜は、孔明の真意を問うた。




「孔明殿、どういうことかな。火計の舞台は整ったはずだが」




「舞台は整いました。しかし、主役を招き入れるための『仕掛け』が足りませぬ。曹操は猜疑心の塊。これほど巨大な船団を安易に鎖で繋ぐという、火計に対してあまりに無防備な策を、かえって怪しむでありましょう。我らが何かを企んでいると、必ずや警戒を強めます」




周瑜も、その一点を懸念していた。




「うむ…。奴の疑いの目を、決定的に逸らす何かが必要だ。内側から奴を崩す、強烈な一撃が…」




周瑜が腕を組み、深く思案に沈んだ、その時であった。


幕舎の入り口から、重々しい声が響いた。




「大都督、その大役、この老骨にお任せくだされ」




声の主は、孫家三代に仕えた宿将、黄蓋であった。


その眼光は、年齢を感じさせぬ鋭い光を宿している。


彼は、周瑜と孔明の前に進み出ると、驚くべき策を口にした。




「わしを、この場で打ち据えられよ。全将兵が見守る中、容赦なく。そして、『周瑜と黄蓋、策を巡って対立し、不和となる』と、曹操に信じ込ませるのです。さすれば、この老将が恨みを抱いて投降したとしても、奴は疑いますまい」




「苦肉の計」




自らの肉体を犠牲にして、敵の心を欺く、壮絶な覚悟を要する策であった。 周瑜は、思わず立ち上がった。




「公覆(黄蓋の字)!何を言うか!そなたは孫家の大功臣。そのそなたの体を、私が鞭打つことなど、できるはずがない!」




しかし、黄蓋の決意は鋼のように固かった。




「大都督!私情を挟む時ではありませぬ!江東の民と、亡き孫堅様、孫策様の御恩に報いるためならば、この身、どうなろうと悔いはございませぬ!これぞ、武人として生涯を捧げた我が本懐!どうか、ご決断を!」




黄蓋は、その場に力強くひざまずいた。 その捨て身の覚悟を前に、周瑜は唇を噛み締め、苦渋の表情で、しかし力強く頷いた。




翌日、全軍が招集された軍議の席は、異様な殺気に包まれていた。


黄蓋は、あえて曹操への降伏論を声高に唱えた。




「百万の大軍を相手に、まともに戦って勝ち目はない!降伏こそが、江東の民草を救う道だ!」




「老いぼれて臆したか、黄蓋!」 周瑜の怒声が響き渡る。




二人の英雄が、激しく罵り合う。


それは、真実と見紛うほどの迫真の演技であった。




「この臆病者め!引きずり出し、首を刎ねよ!」




「お待ちください!黄蓋殿は三代に仕えた元勲…!」




諸将が慌ててとりなす中、周瑜は怒りを収めぬふりをし、叫んだ。




「…ならば死罪は免じてやる!だが、軍規を乱した罪は重い!者ども、あれを牢に繋ぎ、杖にて百回打ち据えよ!」




兵士たちに引きずられていく黄蓋の背中に、肉を裂き、骨を砕くような鈍い音が何度も響き渡った。


血しぶきが舞い、黄蓋は意識を失いかけた。


だが、その瞳は最後まで、周瑜を睨みつけ、その奥には、江東の未来を託す確かな信頼の光が宿っていた。




その夜。


薬を携えた諸葛亮が、黄蓋の幕舎を密かに訪れた。


うつ伏せになり、息も絶え絶えの老将は、孔明の気配に気づくと、かすかに顔を上げた。




「孔明殿か…」




その声は弱々しかったが、口元には満足げな笑みが浮かんでいた。




「これで、『人の和』は、我らのものとなり申したな…」




諸葛亮は、言葉なく、ただ深く、深く頭を下げ小さく言づてした。




「黄蓋殿、お見事でございました。つきましては、曹操へ送る書状をしたためていただきたい。この『苦肉の計』をそのまま曹操に打ち明ける文を作っていただけますか」




「なっ何!そんなことをすれば.....」




黄蓋は一瞬、戸惑った




「そこには、今日この仕打ちを受けた無念、そして周瑜都督への積年の恨みを、ありのままに書き連ねていただきたいのです。貴殿の真心からの投降であると、曹操に微塵も疑わせぬために」




これを聞き及び、すぐに孔明の意図を汲んで




「承知つかまつった!」




この老将の赤心、すなわち偽りのない真心が、何万もの敵兵を欺き、勝利への道を切り拓く。




その頃、長江の闇を切り裂くようにして、一艘の小舟が北岸へと疾走していた。




周瑜と黄蓋の不和を伝えるため、曹操のもとへと急ぐ間諜の舟であった。

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