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第五十三話  鳳雛の問い




長江北岸、曹操の巨大な水上陣営の外れに、一人の男が佇んでいた。




その男、龐統は、川面を渡ってくる風に混じる、か細い呻き声に耳を澄ませていた。


それは、慣れぬ船上生活と絶え間ない揺れに肉体を蝕まれ、あるいは故郷を遠く離れた孤独感と疫病に心を蝕まれた、幾万もの兵士たちの苦しみの声であった。




(天の時、地の利も、人の和なくしては意味をなさぬ…)




龐統は、その特異な顔立ちをかすかに歪めた。


彼は、天下の覇権を争う英雄たちの噂を聞き、荊州の田舎からわざわざこの地までやってきた。




特に、漢の丞相・曹操。




法を厳格にし、才能さえあれば出自を問わず重んじ、この乱世に一つの秩序をもたらそうとしている男。


彼は本当に、民の痛みを知り、天下を安んずるに足る器量の持ち主なのか。




それを、この目で見極めたい。それが彼の旅の目的であった。




(百万と号する大軍も、その礎となる一人一人の兵が崩れては、ただの砂の城。…見せていただこう、曹丞相。あなたが真に人の上に立つ器量をお持ちかどうかを)




もし曹操が、この兵たちの苦しみに耳を傾けず、ただ覇業のみを夢見る暴君ならば、諫言の一つもして去るまでのこと。


だが、もし彼が真の覇者ならば、必ずや人々を救う最善の策を聞き入れるはずだ。


龐統は、覚悟を決めると、重々しい陣門へとその足を進めた。








「何者だ、貴様は!」




天幕の奥、上座の椅子に座る曹操の第一声は、侮蔑に満ちていた。


その視線は、龐統の垂れ下がった八の字眉や天を向いた鼻、そして着古した儒服をなめるように見下している。




(なるほど、この方はまず人の外見で器を測られるか…)




龐統は、内心で冷静に目の前の覇者を観察しながら、臆することなく拱手した。




「襄陽の士、龐統、字は士元と申します。人は私を『鳳雛』と呼びますな」




その尊大な名乗りに、曹操は思わず鼻で笑った。




「鳳雛だと?笑わせる。そのみすぼらしい姿、鳥というよりはただの濡れ鼠ではないか。つまみ出せ」




しかし、龐統は衛兵に腕を掴まれながらも、その声に一層の力を込めた。




「丞相!私の風采を笑われるのは構いませぬ!ですが、船から聞こえる兵たちの呻き声からは、どうか目を背けないでいただきたい!このままでは丞相の百万の大軍は、周瑜の小勢と戦う前に、病という内なる敵によって、この長江の濁流に飲み込まれ、自壊いたしましょうぞ!」




その言葉は、単なる諫言ではなかった。


それは、兵たちの苦しみを代弁する、魂の叫びであった。




曹操の動きが、ぴたりと止まった。彼は衛兵を手で制すと、その特異な顔立ちの男を改めて見据えた。




「…ほう。面白いことを言う。では貴様には、この兵たちの苦しみを救う策があると申すか」




「もちろんにございます」




龐統は、よどみない口調で語り始めた。


その言葉の根底にあるのは、兵士たちへの深い憐れみだった。




「まず、兵を救うことが肝要にございます。そのためには、船の『揺れ』をなくすこと。大小の船をことごとく、三十艘、五十艘を一組として鉄の環で固く繋ぎ、上に分厚い板を渡すのです。さすれば船は揺れなくなり、船酔いはたちどころに収まりましょう。兵は陸地のごとく安眠でき、疫病も減りまする」




そこまで語り、彼は初めて軍略家としての顔を見せた。




「そして、兵が安らぎを取り戻したその時こそ、丞相の真の力が発揮されるのです!平坦となった船上で、丞相が最も得意とする騎馬隊を走らせることさえ可能となりましょう!北方の鉄騎の威力を、この長江の上で存分に示すことができるのでございます!」




その策は、人道を起点としながら、軍略の極致へと至る、完璧な道筋を示していた。曹操は、雷に打たれたような衝撃を受けていた。




傍らに控えていた程昱が、慎重に口を挟んだ。




「しかし龐統殿、船を繋げば、もし江東の者どもが火でも放ってきた場合…」




そのもっともな懸念を、龐統は袖で払うように一笑に付した。




「ご心配には及びませぬ。この冬の長江は、常に北西の風が吹き荒れております。江東の者どもが愚かにも火を放てば、その炎は奴ら自身に返っていくでしょう。火計など、彼らにとっては自殺行為にございます」




完璧な理論と、何よりも兵を救おうとするその心。




曹操は、席を立つと、自ら龐統の前に進み出た。


「貴様…ただの策士ではないな。兵を思うその心、気に入ったぞ」




彼は龐統の異様な風貌のことなどすっかり忘れ、その手を固く握った。




「先生!あなたこそ、天が私に遣わした鳳雛に相違ない!どうか、私の軍師として、その知恵を貸していただきたい!」








龐統は、曹操が自らの策を全面的に受け入れたことに、静かな満足を感じていた。


(丞相は、確かに民の痛みを知る方だ。この方ならば、あるいは…)




彼は、曹操という男に、乱世を終わらせる覇者の器を見出し、このまま仕えるのも悪くない、と考え始めていた。




やがて、彼の策によって巨大な船団が次々と鎖で繋がれていく。


兵士たちの顔からは苦悶の色が消え、しばしの安らぎが訪れた。


龐統は、自らの知恵が人々を救ったことに、深い喜びを感じていた。




鳳雛の優しき翼は、確かに眼前の兵たちをしばしの安らぎへと運んだ。




だが、その翼が起こした風は、龍が天に昇るための、劫火を纏った嵐を呼び寄せていたことを、まだ知る由もなかった。




遠く離れた対岸で、諸葛亮が放った「離間の計」という一手が、曹操から冷静な判断力を奪い、水軍の専門家を斬らせた。




その結果生まれた兵たちの苦しみが、人道主義者である龐統をこの陣営に呼び寄せた。




そして、彼の善意に満ちた「人々を救う」ための最善の策が、図らずも、孔明が描いた最終局面…「火計」のための、最も重要な最後のピースとして、完璧にはめ込まれてしまったのだ。




北岸で響く鉄の鎖が繋がれる音は、南岸で静かにその完成を待つ男にとっては、勝利を告げる祝鐘の響きに他ならなかった。

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