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第四十九話   雀のさえずり、龍の吟(うた)




「十日で十万本の矢を、江東の武庫に頼らずに調達せよ!」




周瑜が孔明に突きつけたこの課題は、まるで墨を一滴、澄んだ水に落としたかのように、瞬く間に江東の陣営全体に広がっていった。




それは、疑念と嘲笑の黒い染みとなって、人々の心に浸透していった。


訓練に励む兵士たちは、汗を拭うふりをしながら囁き合う。




「聞いたか、あの劉備の軍師様のことだ。三日で揃えるなどと大見得を切ったらしい」


「馬鹿な奴だ。大都督に恥をかかせたのだから、命があるだけ儲けものだというのに」




酒楼では、将校たちが杯を重ねながら高笑いをしていた。




「あの男、きっと算術も出来んのだろう。一日で三万三千本以上の矢をどうやって作るというのだ」


「どうせ夜逃げの算段でもしておるのだろうよ。我らの前で無様に引きずり出されるのが楽しみだ」




老将・程普に至っては、公然と、孫権の御前でさえ


「あの法螺吹きの処罰は、軍規を正すためにも厳しく行わねばなりませぬ。さもなくば、兵たちの士気に関わります」と進言する始末。




陣営の空気は、完全に孔明を「排除すべき異物」として断じていた。


その喧騒の渦中にありながら、孔明の宿舎だけは、まるで嵐の目のような静けさに包まれていた。




彼は周囲の嘲りを意に介す様子もなく、ただ窓辺に座し、長江の水面のきらめきを眺めている。


彼の頭の中では、すでに三日後の夜の光景が、一枚の絵画のように完璧に描き上がっていた。




天の時がもたらすであろう深い霧、地の利である長江の広大な水面、そして人の和…これから紡ぎ出す、龍と雀の歌声。


その全てが、彼の計算の中で寸分の狂いもなく配置されている。


だからこそ、彼は揺るがない。




その孔明の元を、心労で顔をやつれさせた魯粛が訪れた。




「孔明殿!陣営の噂はご存知か!もはや、あなたには為す術がないと、誰もが…」




「子敬殿、ご心配には及びませぬ」




孔明は穏やかに茶を勧めると、まるで子供に言い聞かせるように、ゆっくりと語り始めた。




「此度のこと、少しばかりお力添えをいただきたい」




孔明が要求したのは、矢を作る職人でも、鉄や竹でもなかった。




「船を二十艘。それと、船の両舷に括り付ける大量の藁束、青い布で覆いをかけた藁人形を千体ほど。そして、船一艘につき三十人ほどの兵士。これらをお貸し願えまいか」




あまりに奇妙な要求に、魯粛は言葉を失う。




「孔明殿、それは一体…?矢は、どうなさるおつもりで?」


「矢は、作るものではございませぬ。いただくのです」




そう言うと、孔明は悪戯っぽく微笑んだ。




「それと…この策には、私の故郷から連れてきた『雀』が一羽、必要でしてな」






そして、運命の三日目の夜が来た。




出航を前に、孔明は魯粛と、この策の要となる関羽の前へ、一人の若者を連れてきた。


年の頃は二十歳そこそこか、精悍な顔立ちの中にも、まだ少年のような快活さを残している。


その目は、孔明に対して絶対的な信頼と敬愛を込めて、まっすぐに注がれていた。




「この若者が一体…?」と訝しむ魯粛に、孔明はふと遠い目をして、昔を懐かしむように語り始めた。




「私が隆中の草廬で晴耕雨読の日々を送っていた頃、近隣の子供たちとよく遊んでおりました。あの頃の草廬は、いつも子供たちの笑い声で満ちておりましたな」




孔明の脳裏に、縁側に座る自分の膝にまとわりつき、様々な鳥や人の鳴き真似・声真似をしては得意げな顔を見せる子供たちの姿が浮かんでいた。




「彼らは物覚えが良く、耳も良い。市場の商人、役人、旅の者の口ぶりを真似ては、私に世間の様子を教えてくれたものです。私は彼らを愛情を込めて『隆中の雀たち』と呼んでおりました。雀は小さく無害に見えますが、そのさえずりは遠くまで届き、多くのことを知らせてくれる…いわば、私の小さな耳であり、目でありました」




それは、孔明が仕官する以前から、すでに天下を見据えて築き上げていた、彼だけの情報網の、静かな告白であった。


魯粛と関羽は、孔明という男の底知れぬ深謀に、改めて戦慄を覚えた。




孔明は若者の肩に優しく手を置いた。




「この青陵せいりょうは、その雀たちの中でも年長で、最も私の意を汲んでくれた者。そして、誰よりも関羽殿に憧れておりましてな。幼い頃からあなたの武勇伝を聞いて育ったためか、その声色こわいろの模倣は、実に見事なものなのです」




青陵と呼ばれた若者は、孔明に促され、憧れの英雄である関羽の前に進み出た。


緊張でこわばった顔で深く一礼すると、意を決しておもむろに口を開いた。




「うむ」




その一言は、響き、太さ、そして長い髯を揺らす時に喉の奥で微かに鳴る癖に至るまで、今まさに隣に立つ本物の関羽の声と寸分違わなかった。




魯粛は腰を抜かさんばかりに驚き、関羽本人も、己の声がすぐ隣から聞こえてくるという奇怪な体験に、驚きとも感心ともつかぬ表情で、その見事な美髯をぴくりと震わせた。




だが、彼は怒るでもなく、面白そうに青陵を見下ろした。


その目には、若き才能への感心と、どこか微笑ましいものを見る温かさがあった。




「小僧、見事だ。だが、俺の声を使うからには、臆するでないぞ。魂を込めねば、曹操の兵は見抜けん」




「はっ!この青陵、命に代えましても!」


憧れの将軍から直々に言葉をかけられ、青陵の顔は感激に輝き、その瞳には決死の覚悟が宿った。






夜半を過ぎた頃、孔明の予言通り、長江一帯は濃い、乳白色の霧に包まれた。


湿った空気が肌にまとわりつき、視界は完全に奪われ、音がくぐもって響く不気味な静寂が世界を支配していた。




孔明の指示通り、青陵は前方の船へ、関羽は中央の船へと分乗する。


やがて対岸に、無数のかがり火が霧に滲んで、まるで鬼火のようにぼんやりと見える。孔明は、羽扇をすっと上げ、命じた。




「全船、横一列に並べ!…そして、太鼓を打ち鳴らせ!」




ドンドンドン!地を揺るがすような太鼓の音が、静寂を破った。




曹操軍の水塞は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなる。




「敵襲ーっ!」という絶叫が闇に響く。




孔明は、その喧騒を待っていたかのように、羽扇を静かに振り下ろした。それが合図だった。


まず、船団の最前方を進む船から、凄まじい声が霧を切り裂いた。




「我こそは漢寿亭侯・関羽雲長なり!逆賊曹操の首、貰い受ける!」




青陵が、全身全霊を込めて放った、完璧な関羽の声である。


その声が霧に響き渡るや、間髪入れずに船団の中央に立つ本物の関羽が、その手に持つ八十二斤の青龍偃月刀を天に掲げ、腹の底から絞り出すような、本物の龍の咆哮を上げた。




「我こそは漢寿亭侯・関羽雲長なり!逆賊曹操の首、貰い受ける!」




一つの声が生まれ、それを追いかけるように二つ目の声が咆哮し、二つの声は霧の中で絡み合い、増幅し、まるで百の関羽が四方八方から鬨の声を上げるかのような、魔性のこだまとなって曹操軍の水塞に襲いかかった。




曹操軍の兵士たちは、恐怖に凍り付いた。




「関羽だ!あの武神、関羽の声だ!」


「北の岸からも聞こえるぞ!」


「いや、川の中央からだ!」


「我々は完全に包囲されている!」




完全に騙された水軍都督たちは、パニックに駆られて叫んだ。




「うろたえるな!近づけるな!全軍、弓を構えよ!霧の奥、声のする方へ、一斉に矢を射かけよ!」




その命令こそ、孔明が待ち望んでいた言葉だった。


矢は漆黒の豪雨となって、藁を積んだ船体に、ビシッ、ビシッと乾いた音を立て、あるいは鈍い音と共に、ずぶり、ずぶりと突き刺さっていく。






東の空が白み始め、濃霧が薄絹を剥がすように晴れ始めた頃、鬨の声と太鼓の音はぴたりと止んだ。


矢を満載した船団が江東の岸へと帰還すると、その光景を目の当たりにした将兵たちは、言葉を失った。




嘲笑は、驚愕へ。不信は、畏怖へと変わっていた。昨日まで孔明を法螺吹きと罵っていた者たちが、今は畏れ多いものを見るかのように道を開ける。




周瑜が、自ら岸辺まで出迎えていた。


任務を終えた青陵が、孔明の元へと誇らしげに駆け寄る。


その目は、師に褒めてもらうのを待つ子供のように輝いていた。


孔明は穏やかに微笑むと、その肩を力強く叩いた。




「見事であった、青陵。お前たち雀のさえずりが、十万の矢を呼んだのだ」




周瑜は、その光景を目の当たりにして戦慄した。


孔明と青陵の、単なる主従ではない、深い信頼の絆。


そして、子供たちの遊びを、天下を揺るがす計略にまで昇華させる、その恐るべき深謀遠慮。




(この男…戦場に来るずっと前から、隆中の草廬で、すでに戦の準備を始めていたというのか…!)




それは、同じ知略を誇る者としての畏怖であり、同時に、自分にはない種類の力を持つ者への嫉妬であり、そして覇者としての深い孤独感であった。




やがて周瑜は孔明の前に進み出ると、深く頭を下げた。その声には、もはや侮りの色は微塵もなかった。




「…先生の神算鬼謀、この周瑜、及ぶところではございませぬ」




その賛辞の裏で、周瑜の心に芽生えた畏怖と嫉妬は、もはや消えることのない、決定的なものとなっていた。




同盟の絆は、この奇跡によって確かに一歩深まった。


だが同時に、二つの太陽が並び立つがゆえに生まれる影は、より深く、暗く、そして決して埋まることのないものへと変貌を遂げたのであった。

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